夢世91 屠る者・屠られし者
歩んできた道に粘つく半透明な液体を軌跡として残しながら、怪物が悠々と獲物を追い詰めていく……。
獲物として照準を合わせられた哀れな対の生物は、抗うことを諦め、観念したように互いを愛しむためだけに寄り添う。
怪物は、獲物が抱く感情など顧慮せず……というよりも、頭からその考えに至るまでの知性を持ち合わせていないのか、惑うことなくその口を本能のままに大きく広げた。
そして、その体躯を縮こませると、次の瞬間、獲物へと飛びかかった。
巨躯に似合わずその体躯を見事に跳ね上げると、綺麗な放物線を描きつつ、モゴモゴと蠢く口先から獲物に向かって落ちていく……。
ドゥガガガガァーン!
怪物は、獲物諸共大地まで呑み込む勢いで地面に激突したが、その口の中に収まり、噛み砕かれるのを待っているはずの獲物の所在が感じられない……。
感覚を口へと集中させ、何度も口内の獲物を舌で弄り、探す。
そんな折、ふと辺りから獲物の匂いが漂っていることに気が付いた。
それは正に自身の口内で踊り狂い、甘美な食事を提供するはずの獲物の匂いだった。
怪物が思惑と異なる状況に訝しい想いまで抱けたかは定かではないが、口内に獲物がいないことを悟ると、再び照準を正面の獲物へ定め直した。
だがそこで、怪物はさらに不可解な状況が自身の正面に展開されていることに気付かされる。
……獲物の数が増えている。
今まで鼻腔をくすぐっていた匂いの他に、新たに豊潤な獲物の匂いが加わっていたのだ。
怪物は無数に生え広がる牙を噛み鳴らすことで、思わぬ誤算への喜びを表現する。
「……下がっていてください。すぐに終わらせますから」
新たなターゲットとして数えられたその獲物は、つがいの獲物に声を掛けると、徐に歩み出て怪物の前に立ち塞がった。
怪物にとって食する順番などどうでも良い。
ただのべつ幕無しに訪れる空腹感を満たすことさえできれば、それで満足なのだ。
じりじりと後方へ退いていくつがいの獲物を捨て置き、怪物は自らその身を差し出そうと歩み出た獲物の心掛けを称美でもしているかのように、その場に一時留まり、口内に溢れる唾液を一度飲み込んだ。
それは、怪物なりに獲物の食感を不明瞭にしないための礼を尽くした行いだったのかもしれない……。
自分なりのテーブルマナーを履行した怪物は、獲物に向かってゆっくりと己の口腔を覗かせた。
そしてそのまま、その口で覆い被せるように獲物を包み込みにかかる。
先程とは打って変わって、厳かさまで感じさせるしなやかな動きだ。
怪物は、一連の動作を終え頭を擡げると、獲物を味わうために再び喉を鳴らす。
だが、腹を満たしたのは、室内の埃っぽい空気と湿り気のある赤土だけだった……。
頭に疑問符を浮かべながら、つがいの獲物の時と同様に口内を弄る。
そしてまた、獲物の匂いが自身の内ではなく、傍らにあることに気付かされる。
怪物は不可解な状況を飲み下せないまま、それでも本能に従い、獲物を狩るための行動を続けた。
同様の益を得ない行動が、さらに数度繰り返された後、怪物から抑え切れない苛立ちが噴出した。
「ブォォォーン!」
咆哮とともに相手への敬意など抛り出して、貪るように獲物へと突進する。
だが、獲物はそんな怪物の変化にもこれまで通り、深沈として動じない。
そして、怪物が捕らえたと錯覚するほど接近した頃合いで、必要最低限の距離を滑るように移動する。
怪物は、行動するたびに苛立ちを募らせ、伴わない結果に憤慨した。
より早く獲物へと到達せねばならないのだと自身を奮い立たせ、無意味な努力を重ねていく……。
そして、自身の体が思うように動かなくなってからようやく、その身が原型を留めていないであろうことに気が付いた。
体中が熱く、茹っている錯覚さえ感じる。
体には無数の傷が刻まれ、そこかしこから噴水のように体液が流れ出し、自身の体を覆っているためだろう。
視覚のない怪物は、そんな己の状態を鋭敏な感覚器からの情報によって読み取っていた。
その卓越した感覚器は、己だけでなく、傍にいる獲物の状態までも正確に把握した。
獲物は、自身の傍で粛然として並び立ち、俯き加減でそこにあった。
己の力を十全に凌駕し、程なく引導を渡すであろう相手……。
それが、見せ付けたその力とは裏腹に、何とも頼りなくそこにある様には、怪物でさえ哀れみを感じたかもしれない……。
「申し訳ない。……君はただ純粋に、生きるための行動を起こしたに過ぎない。それは生物として正しい姿であり、咎められることは何一つない。むしろ俺の方が、無意味な殺生を重ね悔いるべきだろう。だが、関わりを持った者の家族を救える立場にありながら、それを見過ごすことは俺にはできない。……分かってほしいわけじゃない。今思うのは……ただ安らかに、その命を終わらせてほしいということだけだ」
そう言うと、その者は両手から長く伸びた指先をしろがね色に煌めかせた。
その光は、まるで糸を絡めとるかの如く、怪物を中心に激しく駆け回る。
眩い光に包まれながら、次第に怪物は身を萎ませ、やがてその活動を止めた……。
深閑としたその場所には、怪物を屠った者の深くて長い息遣いと、その硬い指先から時折滴り落ちるエメラルド色の水滴が床を打つ音だけが響き渡っていた。




