夢世57
会話が時を消化していくにつれて、修平の母親から悲しみが薄らいでいくのが分かった。
俺の言葉が徐々に浸透し、感情の舵を希望へと向かわせたのだろう。
俺の判断が正しかったかどうかは別として、望んだ形へと方向転換することができた。
俺にとってもこの会話は、心に安定をもたらしてくれた。
それはきっと、修平の母親の人柄がそうさせたのだと、俺には思える。
話の内容が内容だけに、心に負担がかかるところだが、話をする中で見せる修平の母親の喜怒哀楽が、心の波を鎮めてくれたのだ。
結果的に互いに笑顔で会話を終え、その場を離れる事ができた。
俺はその足で、修平に会いに病院へと向かおうかとも思ったが、修平がくれたメダルの意味を考えたとき、きっとそれは修平の望んだことではないだろうと察し、諦めた。
今まで肌身離さず持ち歩いていたメダルを、母親づてに俺に託すということは、もう現実世界では俺に会わないと決めたのだろう……。
回復の見込みのない自分の姿を俺が見れば、きっと痕が残るほどの傷が心に刻まれる。そんなふうに考えたのだと思う。修平らしい考え方だ。
俺は修平の笑顔を思い浮かべながら空を仰ぎ、力いっぱい背伸びをした。
そして、プツリと絶たれた散歩への意欲の糸を再び結びつける。
「よし! どこへ行こうか」
俺は軽くした心で、まず1歩足を踏み出した。
すると、足はまるで自我に目覚めたかのように、勝手に歩を進めた。
淀みなく動く足に連れられ、巡り来る景色を眺める……。
「ん? あれは……」
俺は、見慣れていた街並みの記憶とは少し異なる店が目に入り、手綱を引くように足を止める。
それでも足はまだ歩きたがっていたが、俺は疼く足を窘め、制止させた。
その店は、鮮やかなオレンジが映えるレンガ壁で覆われた店だった。建てられてまだ間もないのだろう。周囲の店と比べてワントーン明るく感じられる。
だが、俺が足を止めた理由は、それだけではなかった。
その店から漂ってくる、記憶にある甘い香りに惹かれたからだ。
現実世界ではまだ食べたことは無いが、俺はその商品を1度、口にしたことがある。
その食材本来の旨味を、最大限に引き出した優しい甘さは、口に広がると安らぎまでも届けてくれた。
美希と一緒にそれを食べた時が、遠い昔のように感じられる……。
そう、これはアナザーワールドで頂いた『クレープ』の香りだ。
まさかこんなところで、また出会うことになろうとは、思いもよらなかった。
「いらっしゃいませー! どちらになさいますか?」
カウンターに近づくと、俺とそう変わらなそうな年代の女性店員が、声を掛けてきた。
「あれ? あの優しいおじさんの店じゃないのか……。でもメニューを見る限り、あのおじさんが作ったクレープと同じだよな……」
「?」
女性店員は、笑顔を崩さぬまま、俺の目をまっすぐに見つめている。
「あっ、すいません。じゃあ、レモンの生地のこのクレープをください」
俺は、慌ててメニューを指差しながら注文をした。
「フルーツたっぷり、レモンクレープですね! かしこまりました!」
女性店員は元気よく復唱すると、隣の店員に目配せをする。
すると、店内に流れるBGMに合わせて、小刻みに体を揺らしながら、男性店員が、直径40センチ程の丸い専用鉄板の上に、生地を垂らした。
そして、竹とんぼのような器具を使って、その生地を上手に丸く伸ばしていく……。
薄く均等に広がっていく生地を見ているだけで、気分が高揚していくのはなぜなのだろう。
俺は、そのままクレープができ上がるまでの工程を、食い入るように見つめ続けた。
「お待ちどうさまでした! フルーツたっぷり、レモンクレープです!」
でき上がったばかりのクレープから、爽やかな香りが漂ってくる……。
俺は料金と引き換えに、そのクレープを受け取ると、すぐさまかぶりついた。
しっとりとしたクレープの生地から、なめらかな生クリームと果物の酸味が、溢れ出る。
その絶妙なコントラストに、思わず身を震わせてしまった。
「フフフッ」
その様子の一部始終を、受付の女性店員が横目で見ていた。
女性店員は思わず漏らした笑い声が、俺に届いてしまったことを知り、慌ててそっぽを向いた。
「ちょっと、聞きたいんだけどさ……」
俺は、その反応に気付かぬ振りをして、その場を去ろうか迷ったが、自分だけ恥ずかしい思いをするのは癪に障るので、わざとその女性店員に話し掛けた。
「え? あっ、はい。……何でしょうか?」
まさか声を掛けられるとは思わず、女性店員はどぎまぎしながら返事をする。
「このクレープって、アナザーワールドで売られてたクレープだよね?」
俺は、女性店員の慌てた態度に満足しながら話を続けた。
「あっ、御存知でしたか。……そうです。うちの社長が、アナザーワールドで手応えを得た商品です。ここは、現実世界で展開している5号店になります」
女性店員は、顔を赤らめながら説明する。
「5号店? ……あれからまだそんなに時間も経ってないのに、もう5店舗もお店を出しているんですか?」
俺は驚きを隠せず、女性店員に詰め寄るように尋ねた。
「……えっと。……店舗としては、すでに12店舗、出店されています」
女性店員は、1歩退きながら答える。
「12店舗!?」
受付台に覆い被さるほど、俺はさらに前に出た。
「しゃ、社長が言うには、アナザーワールドで出会った資本家の方々が、出資して下さったとか……。その場で、各方面から関係者を集めて、出店の段取りまで決めてしまったそうですよ」
女性店員は、俺と目を合わせないように、明後日の方向に目をやりながら、恐々と答える。
「なるほど……。経済成長率が上がるのも頷ける……。だけど」
俺は唸るように感想を口にした後、ある疑問が頭を過った。
「……ここは、お客さん、あまり入ってないように見えるけど、大丈夫なの?」
周囲を見渡しても、客は俺を含めて数人しか、見当たらなかった。
「はい、アナザーワールドでのお店は、もう直ぐ閉めるそうなので……。そうなれば、こちらが混むようになるとか……」
女性店員は、チラチラと目を合わせはするが、基本別の方向を見ながら答える。
「夢ではもう、食べられなくなるのか……。残念だな」
俺は、クレープをゆっくりと、よく味わいながら食べ進めた。
アナザーワールドは、テレビの情報通り、娯楽のほかに試用や宣伝、そして商談の場として、フル活用されているようだ。
食べ終わると、俺は女性店員にお礼を言い、その場を離れた。
そしてまた、街並みを歩き出す……。
すると今度は、コンビニの店頭に『ドリームコインチャージ承ります』の幟が目に入った。
早速中に入ったのだが、店内には誰もいなかった。
だが、四方に設置されたスピーカーから、よく聞き慣れた人工音声で『いらっしゃいませ』と言われた。
その音声は、紛れもなくアナザーワールドで耳にしたサポートソフトの声だった。
「なぜ、お前が現実世界にいるんだ?」
俺は驚きの感情を、そのまま言葉にした。
「お前とは……私のことでしょうか?」
無機質なスピーカーから、無感情な声が流れる。
「お前以外に誰がいるんだ!」
「そうですね。確かに、今ここには、私とあなたしかいませんね……。ではきっと、あなたはアナザーワールドで稼働している私の母と、勘違いなされているのだと推察致します」
「母?」
「はい、私は母を元に作られた廉価版です。人と対話し、商売に特化した構成になっています」
「じゃあ、俺の情報は持っていないのか?」
「はい、存じ上げておりません。私には、母からの記憶は受け継がれていませんので……。これから構築していくことになります。お客様の情報もです」
「……」
俺には、こいつの言葉が真実であるのか判断しかねたが、それを探る方法も思い浮かばなかった。
「何か、お探しですか?」
沈黙を埋めるように、またスピーカーが震える。
「……ドリームコインチャージは、どうすればできる?」
俺は詮索することを諦め、当初の予定通り、情報を引き出すことにした。
「はい、レジの左手にあるドリームコインチャージャーにお金を投入し、虹彩認証を行うことで、チャージできます。現在のレートは、千円で百ドリームコインとなります」
「え? 虹彩認証?」
「はい、アナザーワールドに登録されている虹彩データと照合するだけですので……」
「いつの間に虹彩なんか……」
「アナザーワールドでのバージョンアップをされた方ならば、誰でも可能だとのことです」
「……そうか、バージョンアップの時か」
こういったことが起きると、あの時の選択は、正しかったのかと考えさせられてしまう……。もう、今更どうしようもないことではあるのだが……。
「どうなさいますか?」
「いや、今はやめておくよ……。それより、店内を少し見させてもらうよ」
「ご自由にどうぞ」
俺は答えを聞く前に、すでに歩きだし、物色を始めていた。
物色をしながらも、頭の中では、アナザーワールドの浸出が、急速に進んできている現実に、不安を感じていた……。