夢世46
「どういうことですか! 僕等は、楓さんが来るなんて聞いてませんよ! 雄彦さん、騙したんですか!」
距離をとったまま静観している俺に向かって、優が初めて出会った時と同様に、噛み付くように言葉を放つ。
「……そうだ。俺はお前達を騙した」
俺は憎しみを孕んだ優の問いを、はっきりと肯定し、1歩1歩近づいていく……。
「来るな! 嘘つき!」
恵と同じく煤で汚れた優の顔は、表情が分かりずらいが、きっと般若もかくやと思えるほど、怒りに満ちていたに違いない。
だが俺は、構わず歩みを進めた。
優の楓さんを想う気持ちは尊いものだが、出した結論には納得がいかない……。
どんなに嘘つき呼ばわりされようが、嫌われようが、そこを譲る気は毛頭無い。
信じられなくなった相手の言葉が、どれだけ心に届くか定かでは無いが、やるだけのことはやってやると心に決め行動した。
「優! 雄彦さんを責めないで! 私が無理矢理ついて来たの!」
抱きしめた両手はそのままに、楓さんが叫ぶ。
そして、俺を振り返り『待ってほしい』と目で訴えかける。
俺は、楓さんの強い眼差しを尊重し、その場で一時足を止めた。
「……楓さん。……僕達は……もう……2度と楓さんには……会わないって、決心して家を出たのに……これじゃ、苦しすぎます」
優は、涙を堪えるように上空を睨みながら、切れ切れに言葉を口にする。
「どうしてよ! 何で家を出なきゃいけないの? 私達家族でしょ! ……もう私、あなた達がいないと生きていけないのよ。……悪いとこ全部直すから……お願い……お願いだから帰って来てよ!」
楓さんは体裁など関係なく、その場で泣き崩れた。
側から見ると、駄々をこねる幼い子供のようで情けなく見えるかもしれない……。
だが、楓さんが駆け引きなどできない性格であることを知っている俺達には、1番心に響く、心を貫く訴えだった。
「楓……さんと……暮らし……たい! ……お兄……ちゃん、お願い! ……お願いします!」
我慢できなくなった恵も必死に心をぶつけ、楓さんに負けないほどの大きな声で泣き叫ぶ。
優は涙を隠すために、両掌で自分の顔を鷲掴みしながら、嗚咽した。
互いを想いあっているはずなのに、何故こんなにも再会が苦しく悲しくなってしまったのだろう……。
見ているこちらまで狂おしくなるほど悲しい……。
なのに今、俺にできる事は何も無い。
様々な困難を乗り越え、他人から家族へと結び付いた3人には、外部からの如何なる言葉も心に響くことはないだろう……。
この問題は、家族でのみ答えを出せる。
俺は直感的にそう感じ取っていた……。
✳︎✳︎✳︎
冬晴れの空を、ジェット機が糸のような雲を従えて、南へと飛び去っていく……。
もしかすると渡り鳥のように、この寒さから逃れようと、南の島を目指して飛んでいるのかもしれない。
優がどのような気持ちでそのジェット機を眺めていたのかは分からないが、確かに俺と同様に目を向けていた。
流れた時が悲しみに囚われていた心を解放し、それぞれの涙を空へと返した……。
「楓さん。……僕達に語った夢は、叶いそうですか?」
平静を取り戻した優が、空を眺めたまま尋ねた。
「夢? ……誰もが笑顔になれる絵を描くこと?」
楓さんが少し間を置いてから答える。
「そうです。……絵は描かれていますか?」
「……最近は、あまり描いてない」
楓さんが正直に答える。
「じゃあ、世界の芸術に触れるために貯めていたお金は、増えてきましたか?」
「……」
楓さんは黙り込んだ。
「……僕は見たんです。楓さんが来てくれた最初の夜、3人で横になりながら、嬉しそうに僕達に見せてくれた大切な通帳……。貯まるどころか急激に減っていました。……僕達は……大好きな楓さんの夢を壊したくない!」
優はこれ以上、感情が高まらないように歯を食いしばりながら、想いを言葉にした。
「……それで家を出て行ったの?」
楓さんが優と恵に確認する。
2人は、コクンと1度頷いた。
「……バカねぇ、2人とも」
楓さんは、愛おしそうに2人を見ながら、そう言うとこう続けた。
「前にも言ったけど、私はやりたくない事はやらない。そう言ったでしょ? ……私は絵を描く以上に、あなた達と家族でいたい。あなた達を立派に育てていきたいと強く思った。それだけのこと」
「……でも、それじゃ、みんなを笑顔にする画家になる夢が……」
「……みんなを笑顔にする。幸せな気持ちにする絵を描く……。それはどうやったら描けると思う? 確かに絵を描く時間は、今は殆どない。世界の芸術に触れるためのお金だって、貯められない。……でも私が描きたい絵は、それがあるだけじゃ描けないって気付いたの。優や恵のお陰なんだよ」
「僕達のお陰?」
優と恵が顔を見合わせる。
「私……親元を離れてからずっと1人だった。ずっと1人でがむしゃらに頑張れば、望んだ絵描きになれるって信じてた。確かに努力した分、技術的には進歩して、それなりに売れる絵を描けるようにはなったけど、心の何処かで、何かが足りない自覚もあった。どうしたら良いのか分からないまま、ずっと描き続けてたの。でも、優と恵と暮らすようになって、初めて心が満たされるのを感じた。幸せを感じた。それで分かったの。私の描きたい絵は、きっとこの感情の先にあるんだって。……だから目標の絵描きになるためにも、今の状態は決してマイナスじゃないって思ってる」
楓さんは力強い希望に満ちた瞳で、優と恵を見つめた。
「……本当ですか?」
優が楓さんの瞳を見つめ返す。
「本当! 私は必ず、夢見た絵描きになってみせる!」
楓さんがハッキリと答える。
そして我慢できなくなったのか、優と恵の顔を、持っていたウェットティッシュでゴシゴシと拭きだした。
優と恵の2人は、少し痛そうに顔をしかめたが、されるがまま我慢した。
「これで良し! さあ、帰ろう!」
ひと通り拭き終わると、楓さんは元気良く立ち上がり、パンッと正面で手を叩いた。
「分かりました!」
固く閉じられていた蕾が、太陽の光を浴びて一気に花開く……。
この時の優と恵の笑顔の花は、どんな花よりも喜びに満ちた輝きを放っていたに違いない。