夢世110
招かざる客……。
俺は確かにそう表現した。その存在が、俺の平穏な日常を粉々に破壊してしまうほどの大きな存在であったから……。
長い時間と多大な労力を費やして、やっとの思いで取り戻した日常が、虚構でしかないことをこいつの存在が実証してしまっている。
アナザーワールドの侵出……思い至ってしまった俺の答え。その答えを肯定してしまう存在が今、目の前に立っている。
そんな不条理な答え合わせを受け入れる事は断じてできない……。だが、そんな思考に反して、全身を巡る血流は駆け足となり、俺の体温を急激に上昇させ、分類できない昂った情動が涙を溢れさせた。
その男は、照れ臭そうに笑っていた。
ストレートな黒髪が、日の光を反射させつつサラサラと柔らかく揺れている……。いつも鋭く隙のない真っ黒な瞳が、この時ばかりは定まらず、俺の足元辺りを彷徨っていた。
「……何と言えば良いのかわからないが……俺はどうやら、消滅することなく、この現実世界と呼ばれる世界で、新たな命ってやつを手に入れたらしい。……ここは、なんというか……あっちの世界よりも情報量が多くて、ごちゃごちゃしているんだな」
そう言うと、その男は肩を窄めてみせた。
「……そうか、確かにな。いろんなものが複雑に絡み合ってはいるが、こっちはこっちで悪くはないぞ。……まあ面倒な事は多いけどな。必要な事は俺が教えてやる。現実世界へようこそ……塔矢」
俺は抱きしめたくなる衝動を抑えながら、塔矢に握手を求めた。塔矢が俺の手を取り、強く握った。アナザーワールドで交わした握手よりも、塔矢の手のぬくもりが暖かく伝わってくる気がした……。
「……ところで塔矢。お前は、どうやって俺の家を探し当てることができたんだ?」
俺は塔矢を家に招きいれようと半身の体勢となり、背中で扉を支えながら、ふとした疑問を問い掛けた。疑問点は他にもあるが、最初に思い浮かんだ疑問はそれだった。会話の導入としても無難な内容に思える。
「……そんな事は考えるまでもなくわかるだろ? そばにいたお前の知人に案内してもらったんだ。この世界にいたこともない俺がここにいるんだ。当然、あいつだって存在するだろ……」
塔矢はそう言うと、俺の前を通り抜け、家の中へ入っていった。その横顔には、いたずらっぽい笑みがこぼれていた。
俺は頭の上に疑問符を浮かべたまま、扉を支えていた背中をどけ、塔矢に続いて家の中に入ろうとする……。
「おいおい、待ってくれっ! 俺も中に入れてくれよ!」
玄関先から飛び込んできた人影が、閉じかかった扉を再び引っ張り開き、俺の横をすり抜け、家の中へ向かおうとする。
「!」
俺は、咄嗟にそいつの腕を鷲掴みにし、引き止めた。そいつの顔は、見覚えがあるなんてもんじゃない。俺の脳内書店で言えば、一画のブースを預けられるほどの超人気作家だった。
「いててててっ! 雄彦、何すんだよっ!」
そいつは痛い思いをさせられた割に表情は穏やかだった。
「修平!」
俺は修平を無理やり手繰り寄せ、今度こそ力いっぱい抱きしめた。華奢ではないが骨張った固い感触が俺の腕に胸に伝わってくる。今までも修平を抱き締めたことなどなかったが、頭に思い描く通りの手ごたえを得て、修平を実感することができた。
「ハハハ、俺にはそんな趣味はないぞ。雄彦」
修平は痛がる様子を見せながらも俺を払いのけようとはしなかった。
「雄彦と再会できて、俺も本当に嬉しいよ」
修平の両手が俺の背中に回り込む。男同士の抱擁がしばらく続いた。
それはきっと、包んだ俺の体が震えていたからだろう。修平は、俺が自然と離れられるようになるまで、その体勢のままでいてくれた。
しばらくして俺は、玄関を上ったところで待ちぼうけとなっている塔矢の存在を思い出し、慌てて修平を解放した。
振り返り塔矢と目が合うと、塔矢は何事もなかったかのようなすまし顔で、ただ深く1つ頷いただけだった。
俺は2人を2階の自室へと案内する。
「……変わってないな。雄彦の部屋は……必要最低限の物だけだ」
目だけで部屋の様子を確認すると、修平は慣れた足取りで歩き出し、椅子を引き寄せるとくるりと反転させ、背もたれを前にして跨ぎ座った。
「ここが……雄彦の部屋か……」
対照的に塔矢は、部屋の入り口で立ち止まり、部屋の全体を細かく観察してから短い歩幅で半歩ずつ、中へと進む。
「悪いな、塔矢。椅子はそれしかないからベットに座ってくれ。あそこの枕元の方に……。俺は足元の方に座るから」
部屋の入り口からなかなか奥へ進まない塔矢の背中を押し、座る場所へ誘導する。修平は何度も部屋に入れているため気にはならないが、塔矢に部屋の中をじっくりと見られるのは、少々気恥ずかしく感じる。
「少し待っててくれ、何か飲み物を取ってくる」
俺は塔矢がベッドに座るのを確認すると、2人にそう告げて1階の台所へと向かった。
冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出すと、適当なグラスを見繕い注ぎこむ。注がれていく麦茶のリズミカルな音、満たされていくグラスを見て、自身の心の高揚感もまた満たされていくのが分かる。現実世界で目覚めてすぐに自分の心を満たすものは、悲しみであると覚悟していたこともあり、予想を覆す現在の幸福な結果に、心が踊っている。
玄関先で2人に出会った時点では、雷に打たれ、しびれたようで実感が湧かず、感情が伴わなかった。ただ条件反射的に心が震えただけだったように思う。
だが自室への階段を上っている間、今こうして2人のために飲み物を準備しているこの時間が、血を巡らせ感情を蘇らせた。それは再び心の器の許容量を超え、嗚咽とともに溢れ出し、床を濡らした。
俺は心を落ち着かせるためにその場で何度か深呼吸をし、涙を拭う。
「……俺は、こんなに涙もろい感情的な奴だったのか」
俺は完全に自分というものを見誤っていたようだ。その誤算は、僅かだが自分を愛おしくさせた。だが今までを積み重ねてきた自分が、そのすべてを受け入れることはできないと拒む。結局、今まで試行錯誤して作り上げた自分に、少し色合いを付与することで折り合いをつけることとなった。
「待たせたな」
部屋に入ると、塔矢と修平が2人してぼんやりと窓の外を眺めていた。その目はゆったりと開かれていて、満たされた胸の内が投影されているように穏やかだった。
俺は麦茶をお盆ごと机の上に置くと、グラスをそれぞれに手渡したあと、自分の分を取り、ベットに腰掛ける。
「……2人は、どんな経緯をたどってこっちへ来たんだ?」
俺は麦茶を一口飲み、喉を潤してからそう切り出した。順を追って2人の身に起こった事象を把握し、現状何が起こっているのかを見極めなくてはならない。
「……最初、俺の身に訪れたのは『静寂』だった」
塔矢が口を開く。
「お前らが去り、アナザーワールドの大半が朽ちた頃、それは訪れた。すべての音が俺から少しずつ遠ざかって、無音の世界となるまでそう時間はかからなかったよ。ほんの数分程度の時間で、音は薄れ、消えていったんだ。だが、初めて体験する音の無い世界というのは、その時の俺にとっては、平静でいられる手助けとなるありがたいものだった。自分の鼓動すら感じられない状態というのは、とても新鮮で恐怖などは感じなかったよ。次いで訪れたのは、眩しいほどの白色の世界だ。途中まで雄彦も目にしていただろう。目に写るものから次々と色が抜け落ち、白色が全てに満ちていくんだ。ちょうど古びた壁画がひび割れて、パラパラと剥がれ落ちていく、そんな感じでな……。その白色は、光を湛えているくらい白く、広がるほどに明るさを増していった」
塔矢は当時の様子を思い出すためか、虚空を見つめながら話を進めていく……。
「目を閉じても、眩しい白色が瞼を貫き、最後には自分が目を開けているのか、それとも閉じているのかさえ分からなくなっていた」
塔矢はそこまで言うと、修平の方へ顔を向ける。
修平は塔矢の視線に気づき、目を合わせると、コクリと1つ頷いた。
そして、話を引き継ぐように語りだす。
「俺も塔矢と同様の体験をした。何も聞こえず何も見えない……。不思議な感覚だったよ。普通なら恐怖を感じるような状況下で、俺らが感じていたのは、きっと『安らぎ』だったんだと思う……。そして、耳や目が機能しなくなったと認識してから、他の五感もまた、機能しなくなっていることに漸く気づかされた。……これが『死』なんだと理解したよ。死は優しく、そしてそっと寄り添って、俺という器をいつの間にか満たしていくんだな……。俺はただ受け入れて、消滅するその時を待った。……だが、そこからおかしなことが起こり始めた。消えたはずの音が、パラパラと降ってきたんだ。微かに聞こえる大気の漣、現世でいつも聞こえる、集中して耳をすませなければ聞こえてこないわずかな音だ。それに次いで、白色の世界に色が混じり始めた。水で満たされた筆洗よりも大きなバケツか何かに、絵の具を一滴ずつ垂らしていくくらいに少しずつ……。だがそれらは、着実に俺らから死を剥ぎ取っていった。……気の遠くなるほどの時間だった。ここでは、ほんの一瞬だったかもしれないが、俺はそう感じたんだ」
修平の目が真っ直ぐ俺に向けられている。
「そして……俺が形を成した場所は、実家のすぐそばの公園。幼い頃、よく遊んだ小さな公園だ。雄彦も知っているだろ?」
「……あの公園か」
俺は、修平と他愛ない会話を楽しんだ懐かしい情景を頭に浮かべた。
「きっと、物心ついた時期に、最も深く刻まれた場所が、俺の中でそこだったんだろうな……。俺は最初、このまま実家に向かって母親に会うべきだと思ったんだが……隣に塔矢が立っていることに、そのとき気づいたんだ」
修平がちらりと塔矢に目をやる。
「……」
塔矢は、修平と目を合わせたものの、しばらく言葉を発そうとはしなかった。塔矢の表情からはいつの間にか穏やかさが消えていた……。それは、今頭に浮かぶ疑問が、言葉にして良いものなのか、判断できなかったからだろう。
しかし、塔矢は覚悟を決め、俺達にこう質問した。
「……今をどう考える? 俺は、こんな破茶滅茶な状態が……この先も、ずっと、続いていくと信じて良いのだろうか?」
3人ともに次の言葉を発することができず、沈黙がその場を支配した。