夢世107
「プギュァーッツ」
ウツボカズラさながらに丸々と太った怪物は、不快な断末魔の叫びを残し破裂すると、溜め込んでいた赤い体液を撒き散らした。
「なんだこいつは……全く歯ごたえがないじゃないか。これでも、あのシヴァが生み落とした化け物なのか?」
塔矢が不可解そうに感想を漏らす。
産み落とされたこの怪物は、確かに体液こそ強力な酸の力を持っているが、取り込まれることさえなければ容易に対処できる相手だった。
「攻撃も、ただ闇雲に口を開けて飲み込もうとするか、口内の酸を撒き散らすかくらいですし……面白みがないですね。これではまだシヴァの触手に追い回されていた方が、スリルがありましたよ」
一輝は文句を言いながらも効率よく怪物の腹を掻っ捌いている。
「それに、これじゃキリがないわね。イシュタル様がシヴァを刻む度に、この子達が生まれてきちゃう」
遥が複数の矢を五指の間に器用に挟み込むと、次々と怪物を貫いていく。矢で射抜かれた怪物は、腹部にできた穴から赤く染まった体液を放出し、いとも簡単に絶命していく……。
「これは俺の役割じゃねーな。ここはお前らに任せて、俺は本体のシヴァの方に行った方がよくねぇーか?」
竜馬も怪物の処理を進めてはいるが、かなり気だるそうだ。
「……またそうやって、面倒くさいことを私たちに押し付けようとしているのはわかってるのよ! 私たちには驚異じゃなくても、他の人には、命を脅かす怪物に違いないの! 彼らが次々とあの怪物に飲み込まれている事実をあなたは知っているでしょ! それを見て見ぬふりして、自分の欲望を優先するつもり?」
遥の瞳が怒気を帯びる。
「まあまあ、遥さん。竜馬さんは、自分の力を効率よく生かすところは、ここではないんじゃないかと思っただけですよ。今の役割の重要性は、充分理解しています。そうですよね、竜馬さん?」
一輝が慌てて竜馬の代わりに弁明する。
「……ったく、めんどくせーなー。ああ、それでいい。それでいい」
竜馬は明らかに不満げな表情をたたえながら、面倒くさそうに頭を掻きむしる。
その竜馬の態度に、遥の目がさらに鋭くなる。
「遥さん、遥さん。話は後にしましょ。今は、あいつらをできるだけやっつけないと、犠牲者が増えるばかりですよ!」
一輝が遥の視線を遮るように、竜馬との間に割り込む。
「……もうっ! わかったわよ!」
竜馬に近づこうと試みるも、一輝に上手く遮られてしまった遥は、怒りを孕んだ目を竜馬にしばらく向けたあと、諦めてその場を後にした。
「……竜馬さん、勘弁してくださいよ。遥さんを相手にしなきゃならなくなる僕たちの身にもなってください」
不満げな竜馬に一輝が近づき、悲しげな声で嘆願する。
「やりゃーいいんだろっ、やりゃーっ! くそっ!」
竜馬は地面を力いっぱい蹴り上げた。
未だ人々の泣き叫ぶ声が、そこかしこから吹き上がり、響いている……。
絶え間なく発せられるその声が、好転していない事態を示唆している。
泥沼の様相が、人々を守れる立場にある者から、焦りの感情を急激に薄れさせていく。人間は良くも悪くも適応能力が高い生物と言えるだろう。与えられた環境や状況に順応する力に長けている。それが、たとえ受け入れがたい苦境であろうとも……。
耳を覆いたくなるような苦しげな声や心を締め付けられるような悲痛な声も、時が経てば、次第に打ち寄せる波の音のように、意にも介さなくなっていく……。人はそうやって自身の精神を平常に保てるようバランスをとっている。
結果、皆が我に帰ったときには、あたり一面、血の海と化していた……。
「おい遥! これはマジで、何の意味もねえんじゃねーか? 延々とループする大昔のシューティングゲームでもやってるみてぇだぞ」
竜馬は大剣を肩に担ぐと、遥に視線を走らせる。
「……わかってるわよ。でも……」
遥は竜馬からの視線を受けて、その目が先ほどとは異なり、現状を危ぶみ、送られたものであることを理解すると、口をつぐんだ。
「遥お姉ちゃん。僕ももう、疲れて来ちゃったよ」
洋輝が、自身の近くに産み落とされた怪物を鋭い爪で切り裂いてから、遥の顔を見上げた。
「……イシュタル様は、一体、何を考えていらっしゃるのかしら……」
遥は、今まで我慢していた心の内を自然と口にしていた。
「どうしたシヴァ! お前の力はそんなものか! もっと、妾を楽しませてみせよ!」
何本もの触手が高速に飛び交う中にあって、イシュタルは、それを造作もなく躱しつつ、シヴァに不敵な笑みを送る。
「クソが! なんで俺様の触手が当たらねえんだ! 俺様自慢の高速の『鞭』だぞ! マルドックさえ俺様には、かなわなかったじゃねーか! なんで、なんでてめえは、そうやすやすと俺の触手をかわすんだ!! 気に食わねぇ! 気に食わねーぞ!」
目を血走らせたシヴァが、ムキになって触手を振るう。しかしそれは、何十何百と繰り返した行いであり、全て失敗に終わった愚行でしかない。
その証拠に、放たれた触手の何本かは、またもイシュタルに細切れにされ、地上に落ちていく……。
「ぎゃー! いてー! いてーよー! よくも、よくもやりやがったな! このやろう! 俺様を馬鹿にしやがって!」
シヴァの目からは、流れるほどの涙が溢れ出ていた。
「ハハハ、まるで泣き喚く赤子のようだな。見るに耐えない。貴様の力の底がこの程度であるならば、そろそろ終りにしてやろう」
イシュタルは鼻を鳴らすと、今まで受け手に徹するために立てられていた剣先をシヴァへと向ける。
日の光を受けた剣先からは、目が焼かれるほど高密度の光が放たれる。
「うっ!」
血走ったシヴァの目は閉じられ、顔は歪められる。
「何をしておる。自身の最後の瞬間くらい、目を開き焼き付けておけ!」
イシュタルは再度シヴァの目が開かれるのを待ってから、風を切る音すら置き去りにして、その剣先をシヴァの目に突き立てた。
それは一瞬と呼ぶにも、あまりに短い出来事だった。
目を貫かれたシヴァであっても、起こった出来事を理解するまでに、いくぶんかの時を要した。
「うぎゃーーー!!!」
噪音このうえない不快な叫び声が響き渡る。
「とうの昔に誘われるべきであった無の世界へと旅立つが良い」
イシュタルは哀れみの目でシヴァへと目をやると、ゆっくりと剣先を引き抜いていく……。
「ん?」
だがその剣先は、根元から中腹のあたりまで引き抜いたところで、動きを止めた。
パシャーン!!!
そして、イシュタルがさらに力を加え、引き抜こうとしたところで、その剣は乾いた破裂音を残して粉々に砕け散った。
シュルルル!!!
そこへ間髪入れずに、触手がイシュタルの四肢に絡み付く。イシュタルの手足は四方へ伸ばされ、空中の一点で磔にされた。
「ひゃーはははっ! 油断は大敵なんだぜっ! イシュタルさんよ!」
どういうわけか、イシュタルの後方からシヴァの声が聞こえてくる……。
「想像力が足りねえなぁ。体を自在に変形できるってことはよー、臓器の位置だって、自在に移動できるんだぜ。なんで目ん玉の先に、俺様の脳みそがくっついてるって、早合点しちまうんだ? けけけけっ」
イシュタルの後ろには、新たに作られた太く赤黒い触手の先端に、頭と四肢を形成し、勝ち誇った顔を浮かべたシヴァの姿があった。
「勝負っていうのはなぁ、ただ強いだけじゃ決まらねぇんだよ。頭が必要なんだよ、頭が! 分かるか? 俺様が、ただやたらに貴様にめった切りにされてたと思うのか? 馬鹿だねぇ。そんなわけねーだろ? ちゃんと考えがあんだよ! 考えが! 地面を見てみろよ、地面をよ。地面全体が脈打ってんのがわかるか? あれは俺様が張り巡らせた根っこなんだぜ。そこに命の養分が染み込めばよ。根をつたって俺様の力になるってわけよ。てめえの仲間は、俺様に養分を与えるために、せっせと働いてくれたってわけだ。おかげで俺様の力は、最高まで高められ、造作もなく貴様の剣を砕き、貴様の四肢を拘束できたってわけだ」
シヴァは自身の横っ腹を何度も叩きながら、高笑いをあげる。
「どうだイシュタル! 形勢が逆転しちまった今をどう感じているんだ? 悔しいか? 悲しいか? ひゃーははは! 俺様にその面をよく見せてくれよ!」
シヴァはイシュタルの感情を煽るため、まるで躍るように体を奇妙にくねらせながら、ゆっくりと近づいていく。
そして、イシュタルの目前まで近づくと、下から上へ舐めるように視線を押し上げ、イシュタルの表情を確認した。
「!」
しかしそこにあったイシュタルの顔には、シヴァの望む屈辱の表情はなく、まるで虫けらでも見るような冷ややかに蔑む瞳があった。
「……はぁー、なぜこうも皆、妾を考えのない単細胞扱いするのじゃ。まったく……。まあいい、そんなことはどうでも良いことじゃ。どんなに妾をこき下ろそうが、妾を楽しませることができるならば、問題はない。妾の心は満たされる。じゃが……実力も足りない虫以下の存在が、立場もわきまえずギャーギャーと耳元で喚き散らすのは、不快極まりない。妾に何の益もない。……シヴァとやら……貴様は先程、自分の力は最高まで高められたと口にしていたな。……ということはもう、今以上に妾をもてなす力はないと言ってしまったことになる。妾が折角、お主の策謀を許容し、成就させたにも関わらず、この程度がお主の限界というのでは……まったくもって、がっかりじゃ。……願わくば、先程の言葉を訂正し、さらに奥の手があると……」
イシュタルは心底落胆した表情で、シヴァの顔を憐れみを込めた視線で、まじまじと見つめ、切実な胸の内を吐露し続けた。
「……うるせえ……うるせえ、うるせえぇー! ペチャクチャと、うるせえんだよ! 素直に負けを認めやがれ! このやろうがっ!」
シヴァは思いもよらない言葉と視線が、自分に向けられたことで、一気に理性を吹き飛ばし逆上した。
そして、その勢いそのままに、自身の腕を鋭く尖ったドリルへと変形させる。
ドリルは激しい音を立て回転し、イシュタルの胸のあたりを的として定めると、深く深くめり込んでいった。赤黒いドロドロとした肉片が撒き散らされる。
「ひゃーはははっ! どんだけ強がりを言ったところで、てめえは俺様にミンチにされるだけなんだよ! ざまーねぇーな!」
シヴァは、抵抗もできずにただされるがままのイシュタルの様子に悦に浸っていた。
「……愚かだな」
そんな状況の中、イシュタルがぼそりと呟く。
「なんだと? …………ああ、あああああっ! これは! これはどうなってる!」
イシュタルの呟きを怪訝に思い、手を止めると、そこにあったのは、前腕から先が削られた自身の腕だった。
「シヴァ……お主の力では、無防備であっても、妾の体に傷を付けることも叶わないらしい……。残念じゃ。……まあ、想像はできていたことじゃがな。……アナザーワールド。……途中からこのアナザーワールドに加わったお主は知らなかっただけのこと。妾はな、柊によって欲しくもない『称号』を与えられてしまっている」
「称号?」
「……そう、称号だ。実に不愉快極まりない」
「……何の称号だ?」
「たったひとつ。……『最強』だ」