夢世106
「そう邪険にするな、曲がりなりにも元は我等の生みの親、柊と共にあった者なのだから……」
いつの間にか純白の肌が輝く女神に並び立ち、太陽に愛された褐色の肌の女神が、苦言を呈する。
「ふんっ! あのような無様な姿と化した者を敬う度量は持ち合わせてはいない。……それに彼奴は、我が主人に寄生していただけであろう。 むしろ我が主人を惑わし、仲間からの信用を失墜させた挙げ句、不満を募らせた民衆の反乱を招いた。アナザーワールドを滅ぼした元凶とも言える……」
純白の女神は、目にすらその姿を極力映り込ませたくないのだろう、眉間にしわを寄せたまま、薄く開かれた目の端でシヴァをとらえていた。
「それにしても……雄彦。お主は、なぜそのような醜態を晒しているのだ? わしに本物の宝玉を持ち帰ると啖呵を切った者は、お主で間違いないはずだが……」
ため息混じりに発せられた言葉と失望の色がうかがえる女神の瞳を前にして、俺は、自身の体がシャボン玉のように弾けて、跡形も無く消えてしまえばいいのに、と心から願った。
「……シャマシュ様、申し訳ありません」
俺は、謝罪の言葉を絞り出すのが精一杯だった。
「まあ良い、この世界はもう終焉を迎える。根源がアナザーワールドにあるものは全て、無に帰すことになるだろう……」
女神シャマシュは、俺の消え入りそうな態度を見ると、口の端を少し綻ばせた。そして、俺の体に巻き付いたシヴァの触手を手のひらに召喚した火球で一瞬のうちに焼滅させた。
だが触手から解放された俺の体は、落下することなくシャマシュの傍に留まる。まるで足元まで地面が競り上がってきたのかと錯覚するほど安定感のある感覚が、今、足裏にある。目から伝達される情報との相違が頭を混乱させ、なんとも心もとない不安な気持ちを掻き立てる。
「ハッハッハ、情けない表情を見せるな、雄彦。神であるわしと共にいるのだ。この程度のことに心を乱すな」
シャマシュはそう言うと、もう一度俺に笑いかけた。
そこで、シャマシュが何らかの力で俺の足元を支え、宙に立たせているのだと理解できると、ようやく自分の状況を受け入れられた。
「雄彦ー!」
そこへ塔矢が、空中を駆け上がるように登ってくる。
「一体、何が起こったんだ?」
塔矢は未だ状況を飲み込めず、キョロキョロと周囲に目を走らせている。
「女神様が俺たちに加勢してくれたんだ……。俺にも、理由はよくわからないが……」
俺は塔矢にことの顛末を尋ねられて初めて、なぜこのような成り行きとなったのか疑問を抱いた。
女神たちにとって俺たちは、住処であるバベルの塔を破壊した張本人であり、アナザーワールドを終焉へと追いやった憎き相手となるはずだ。
シヴァとの戦いに加勢する理由もなければ、窮地を救う義理もない……。
「ん? どうした雄彦? 合点がいかないという顔をしているな」
シャマシュは、俺から向けられた懐疑的な視線に気付くと、いたずらっぽく笑った。
「……お主の仲間が、柊をアナザーワールドから排除した時点で勝敗は決している。今更我らがどう足掻こうと、滅びゆく世界を元通りにはできぬ。ならば、我らは残された限られた時間、やりたいことをやるだけじゃ。我らが選んだ選択肢は、お主たちへの報復ではなく、前々からいけすかないと思っていた奴をこの状況に乗じて、切り刻んでやること……それだけのことじゃ」
そう言うとシャマシュは、柔らかな微笑みを湛えたが、その瞳は、先程より幾分色あせて見えた。
「雄彦! 無事か? ……えっ? わっ! これはこれはシャマシュ様、イシュタル様、なぜ此処に?」
そこへ、シヴァの触手から逃れたマルドックが、息を切らしながらやってきた。
「おおっ! 久しいなマルドック。壮健そうで何よりじゃ。雄彦ならばほれこの通り、何の問題もない。お主らが忙しく働いていた間、優雅にタコの触手に簀巻きにされておっただけじゃからの」
シャマシュは、わざと見下すような蔑むような視線を俺に送った。
「……面目ない」
揶揄っているだけであると分かっている。もしかするとシャマシュは、俺がしどろもどろになりながらも弁明することによって、この場の空気を変えさせようと気遣ってくれたのかも知れない。だが俺は、マルドックを前にして、先刻向けてしまった感情を思い出し、とても弁明できる精神状態とはならなかった。
「……なんじゃ、あれは?」
そんなどんよりとした空気を脱せぬまま俯いていると、イシュタルが、嫌々ながらも向けずにはいられなかった視線の先に、言葉を溢す。
イシュタルの不快そうな語調を耳にした俺たちは、その視線の先にあるものを心ならずも見てしまった……。
イシュタルが細切れにしたシヴァの触手は、表皮をボコボコと泡立たせると、各々が単体の生物へと形を変えていった。まんまるとした容姿に申し訳程度に突き出た手足、それに加えて、欠伸をしたらどれだけ大きく広げられるのか興味をそそられる大きな口。それは一見、水辺に浮かぶ愛らしい河馬のようにも思えたが、そんな可愛げのある生物ではなかった……。鼻先を上空へと向けると、ヒクヒクと小刻みに動かし、欲する匂いをかぎ分けると、一目散に駆け出した。その先には、逃げ惑うプレイヤーたち。もはや考察する必要もないだろう。案の定、がま口財布を思わせるほど大きく開かれた口が、次々と人々を飲み込んでいく……。
飲み込むたびに膨らんでいく腹部に反比例して、その表皮は薄くなっているようで、飲み込まれた人々のシルエットが浮かび上がっている。極限にまで伸ばされた腹部の表皮の色は、緑色から薄いクリーム色へと変化していたが、その下半分は胃液のようなもので満たされているらしかった。なぜならば、下腹部の色はさらに変化し、クリーム色から薄いピンク色、それから鮮やかな紅色へと変色していたからだ。それはまさに命の色、命が溶け出した色だった。
悶え苦しむ人々の姿が、影絵さながら映し出される。だがそのシルエットは、急激に形を失い、代わりにその生物の腹を今では赤黒く染めていた……。
「……血は争えないものじゃな。生み出した親に似て、存在そのものが醜悪極まりない。お前達はあの低俗な生物を排除するのに尽力致せ。妾は、その諸悪の根源を早々に始末する」
イシュタルは見るに耐えないといった険しい表情で、言葉を吐き捨てた。
「お待ちください! イシュタル様! ……お一人でシヴァと対峙されるおつもりですか?」
マルドックが不安そうにイシュタルを見つめる。
「ん? 獲物を横取りされるのが不服か?」
イシュタルは自身の考えに意見するマルドックを見て、愉しげに言葉を返す。
「……い、いいえ。ただ……いかにイシュタル様と言えども、奴を相手にお一人で挑まれるのは危険です! どうか私にも協力させて下さい!」
マルドックは震える声を振り絞って、イシュタルに懇願する。
「ほう……マルドック。お主は、妾があの下手物に後れを取ると……そう考えておるのか?」
マルドックを見返すイシュタルの目の色が変わる。
「……いえ、そんなことは……決して……」
マルドックの額から滝のように汗が流れ出す。
きっとマルドックが、通常とは異なる対応をしているのだろうことが、このやりとりで垣間見える。
「落ち着け、イシュタル。心を奮い立たせ、お主の身を案じて、投げかけた言葉じゃ」
そこへシャマシュが割って入り、イシュタルを宥めに入る。
「……シャマシュよ、よもやお主も、妾があのような者に劣ると……思ってはないじゃろうな?」
イシュタルは表情を変えず、低い声でシャマシュに問う。
一瞬で空気が張り詰め、凍りついた時間がその場を支配する。
「ハッハッハ! この世にお主を超える強き者などいようはずがない」
シャマシュは豪快に笑い、その場の重たい空気を吹き飛ばした。
「わかっているならばそれで良い。お主らは、下手物が産み落とした醜悪な生物を駆逐せよ! 妾は神としての『格の違い』を彼奴に知らしめ、身の程を弁えるよう正してやらねばならぬ。面倒じゃがこの世を統べる神の役目じゃ」
イシュタルは億劫そうに溜息をついたが、その言葉とは裏腹に、熟れた苺のような舌先で、唇をそっと潤していた……。