夢世105
頭頂部に位置したシヴァの口が、慌てて閉じられる……。
苦痛からかシヴァが体を大きく捩ると、触手もまたその影響を受け、俺の体ごとブランコのように大きく東西へと振られた。
その反動で俺の体を放り出さないようにするためか、足首にだけ絡まっていた触手は、次第に上体にまで侵食し、今では俺の体を完全に簀巻きにしている。
景色が大きくスイングする中、ちょうど左右への遠心力が拮抗するタイミングで、俺の目はマルドックの姿を捉えた。
重力からも遠心力からも切り離された一瞬に映るその情景は、まるで名の知れた画家が描いた躍動感あふれる絵画のように思えた。
「マルドック ! どうして此処に?」
魅せられた時間、1拍の時を置いて、俺は思いもよらないマルドックの登場に、素っ頓狂な声で叫んでいた。
「何を言っているんですか! 友の危急に駆けつけるのは、当然のことじゃないですか!」
マルドックは、ムシュフシュを華麗に操り、空を駆けながら叫び返すと、そのまま旋回し、今度はシヴァの右背面に向かって炎を浴びせかける。
「ぐわっちちち! この似非神がっ! 調子に乗るんじゃねー!」
シヴァは、炎を浴びせる者がマルドックであることを知ると、何本もの触手を新たに生成し、解き放った。
弾丸もかくやという勢いで放たれる触手をマルドックは縫うように躱していく……。
「クソがっ! これでどうだっ!」
シヴァは膨れ上がる怒りの感情に合わせて、触手の数をまた増加させる。
マルドックへと向かうその触手の数は、10を超えた。
すでに動かしている全ての触手を合わせたならば、きっと100を超えるだろう……。
その数をシヴァは、1人でコントロールしていることになる。
そぐわない容姿はともかく、その所業は、確かに人智を超えた神のそれであると言わざるを得ない。
「うわっ!」
増えた触手を躱すだけで手一杯となったマルドックは、俺の前から徐々に後退していく。
マルドックは歯噛みしながらも、その目はそれでも俺を見つめ続けていた。
「……」
あいつは、このアナザーワールドで創られた存在。『バベルの塔』というアトラクションを機能させるためだけの単なる駒。思考や感情もプログラムに似たロジックを辿って、放出された結果でしかない……。
俺はそれに気づいてしまった。
どんなに黄金色の髪を振り乱しても、どんなに顔を必死の形相に歪めても、そこにあるのは、0と1とが折り重なってできた、数字の羅列からはじき出された決まりきった解でしかない。そこに、人間と同等の『感情』を期待してはいけない。
だが……。
今でもなお、触手を躱すことで手一杯にも関わらず、マルドックは俺に背を向けようとしない。
俺は固く目をつむり、顔を逸した。
「雄彦! お前は、今、なぜマルドックから目を逸した? 何を見ないようにしようと思ったんだ? 心から何を切り離そうとしたんだ?」
そこへ地上から呼びかける声が聞こえた。聞きなれた声だ。苦手なあいつの声に違いない……。
表情を変えず、クールにきめこんでいるくせに、心の中は、いつも熱い何かで満たされている……そんな奴だ。おまけにいつも、俺の心の内が見えているかのように、俺を手の平の上で弄んで喜んでいる……きっと。
「……なんで、お前はここまで来れたんだ? お前だって、何本もの触手に追われていたはずだろ! 塔矢!」
仕方なく目を開くと、案の定そこには苦手な相手、塔矢が憮然とした表情をたたえて、俺のことを見上げていた。
「ん? 質問をしているのは俺の方だぞ! ……まあいい、先に俺が答えてやろう」
そう言うと、塔矢は散在する崩れた壁のひとつに背を預けた。
「カラクリを知ってしまえば簡単なことだ。全ての触手に意識を通わせ、思いのままそれを操る……。そんな芸当は、シヴァであってもできやしなかったんだ。ほら、見てみろ、今だってシヴァは、俺の存在に気付けてさえいない……。いや、俺だけじゃなく、自分の触手でからめとっているお前の存在すら忘れているに違いない」
塔矢の視線に合わせて、シヴァの様子を窺うと、確かにこちらの存在を忘れてしまっているように見える……。
「マルドックに集中するあまり、外への意識が欠落しているんだ。100を超える触手をたった1つの脳みそで制御するなんて、非効率なんだよ。 だからシヴァは触手を操るとき、自分が操作する分と、そうでない分とを分けている。自身で操作しない分は、それぞれの触手に簡単な命令だけ与えて、自分の意識から切り離しているんだ。命令内容は『動くもの全てを破壊しろ』ってくらいの単純なものにな。その予想は的中し、俺はあの触手から解放されたってわけだ。……俺の代わりに標的となった竜馬には気の毒だったが……」
最後に懺悔の言葉を呟いた塔矢だったが、その口元は笑っていた。
「さあ、お前の番だ、雄彦!」
塔矢の黒色の瞳が向けられる。
「……きっと、お前が想像していた通りの理由だ。マルドック……あいつは俺とは違い、性根のまっすぐな良い奴だ。だが……結局は、心のないロボットと同じだ! 計算ではじき出した答えを実行しているにすぎない!」
俺は心の中で激しくぶつかり合って、あらぶる波のようになった感情をそのまま吐き出した。
「……そうか」
塔矢の口から静かに漏れたその声音は、思いのほか弱々しく儚げだった。
「雄彦、わかっているか? それなら俺も、このアナザーワールドで作られた存在に過ぎない……。マルドックと同じだ。お前が言うところのロボットだ……」
そのぎこちなく悲しみを帯びた笑顔は、俺の心に長く居座っていた凝り固まった痼を溶かしていく……。
そこかしこで激しい攻防が続いているであろう最中に、不意に訪れた無音のときは、ガラクタで埋め尽くされた心の中を一掃し、真っ新に造り替えた。
「……俺は、つくづく馬鹿だな」
俺は、自分の穿った考え方に、心底呆れて項垂れた……。
『……何が心を持たないロボットだ。融通のきかないロボットは、むしろ俺の方じゃないか。心が何で形作られているかなんて、どうだっていいことだ。要は通い合えればそれでいい。……マルドックや塔矢とは通い合える。それ以上に何を望むんだ』
……もしも、この身が自由に動かせたならば、すぐにでもこの愚かで、腐り切った脳みその器を、砕けるほど地面に打ち付けてやりたい。
「離せ! 離せっ! この悪魔めっ!」
苦しげな叫び声に気付き目をやると、自分のために奮戦していたマルドックとムシュフシュが、四肢を触手に絡め取られ、身動きが取れなくなっていた。
「しまった! 塔矢! マルドック達を助けてくれっ!」
俺がそう叫ぶ前に、塔矢は既に行動を起こしていた。
伸縮自在の糸を駆使して、まるで空を駆けているかのようにマルドック達のところへ向かっていく……。
「おっ? どっから湧いて出てきやがった?」
最短距離でマルドック達の元へ向かっていた塔矢の姿を目の端で捉えたシヴァは、突然現れたことに目を丸くしたが、次の瞬間には、その目を鋭く輝かせた。
「俺様の邪魔をしようっていうのか? へへへっ、そうはさせねぇーよ!」
シヴァの宣言を皮切りに、辺りから地鳴りのような音が聞こえ始めた……。
その音は急激に接近したかと思うと、次の瞬間、地面の複数カ所で破裂音を響かせる。
「!」
立ち上る砂煙の中から、数十もの触手が塔矢へ集まるように伸びてくる。
四方八方から超高速で伸びてくる触手……。
到底かわしきれる数ではない。
「塔矢!」
刃に心を貫かれたような苦しみの中、俺は叫んでいた。
「おっ! できるじゃねーか、その顔! そうだよ! その顔が欲しかったんだよ! ヒヒヒッ!」
シヴァは満足そうに口角を上げて、くしゃくしゃな笑顔を作り笑っていた。
シュパパパパパッツ!!!
そこへ突然、空気を切り裂く音が連なり、耳に届いた。
「ぎやぁーっ!! 痛てっー!!」
つい先刻まで憎たらしい笑顔を見せていたシヴァの顔が、悲痛に歪んでいる……。
見ると、塔矢へと伸びていたいくつもの触手が、バラバラに斬り刻まれ、地上へと落ちていっている。
俺はもちろん、塔矢も何が起こったのか分からないまま、呆然とその様を眺めるだけだった。
「貴様達、何だ、あの下手物は? 気色が悪い」
俺は不意に何者かが傍に寄り添うように、浮遊していることに気が付き、慌てて目を向ける。
と、そこには、雪のように白く輝く肌を惜しげもなく見せつけながら、抜身のロングソードを構える女神が、不快そうに眉間に皺を寄せていた。