夢世100
「うぐぐぐっ……」
柊一秋の口元から黒煙が立ち昇る……。
どうやらジャックナイフを覆っていた黒煙が、体内を通じて、柊一秋の口から漏れだしているようだ。
修平がその有様に警戒し、距離をとる。
「うぎぎぎぎっ、うがっ! うがぁっ!」
程なく柊一秋は、その身を激しくくねらせながら、奇怪な声を上げ始めた。
その関節は、ありえない方向へと折れ曲がり、体躯を中心に巻きついていく……。
血走る2つのその瞳は、弾き合うクラッカーのように、引き寄せられてはまた離れるを繰り返す、奇妙な軌跡を描いていた。
肌の色は、注ぎ込まれる黒煙の影響からか、次第に黒ずんでいく……。
髪もまた、黒煙に押し出されるようにして、ニョキニョキと四方へと伸びていき、そこかしこへと張り付いた。出来上がったそれは、まるで枝葉に張り付く繭のようだ。
そこに人間であることを肯定できる要素は、もはや見当たらない。
皆、悍ましきものを見るように、眉を顰める。
「……どうなってる! 煙と共に薄らぎ、無に還るだけじゃなかったのか!」
そんな叫び声をあげたのは、聡だった。
不気味さに顔を顰める皆と異なり、その表情には、戸惑いの色が浮かんでいる……。
憎む相手ではあるとはいえ、自身の父親が苦しむ様は、見たくはなかったはずだ。
「ががっ!がっ!がっ……が……がっ………………」
奇声は次第に弱まり、やがて途絶えた。怪異的な動きも共に治まっている。
物言わぬ骸に成り果てたと思われたとき、黒色の肌が、ゆで卵の殻を剥ぐように、パラパラと崩れ始めた。
枯れ落ちた肌の下には、生命力溢れる桃色の肌が脈動していた……。
「ははっ! ははははっ! なんてこった! これは思いがけない嬉しい誤算だ! 寄生虫の如く、宿木の命で食い繋ぐ日々とは、もうおさらばだ!」
瞳を爛々と輝かせ、黒色の殻を破り出でたその生物は、流暢に人間の言葉を発した。
その外観には、確かに人間のものとよく似た部位が見受けられる……。
5指に分かれた指先。状態を支えるために床へと伸ばされた脚部。それらを意に即して操る頭部。そして、そのすべてを結びつける胴体。
しかし、どう見ても人間ではない。
長い指先をまとめ上げた手は、整斉と左右に3本ずつ突き出ており、胴体を支える足は前方に2本、後方にも2本と、計4脚あった。
頭部の端から端までを真横に裂くほどに大きく広げられた口元には、収まりきらなかった牙が溢れ、喜びに潤ませた瞳は、眉間のものを含めると3つとなった……。
「お前ら! よくやってくれた! あいつのコアに取り憑いたまでは良かったんだが……あいつから出られなくなっちまってよ。はははっ、中からあいつの精神を蝕んでいくのも面白かったんだが……まどろっこしくてなぁ」
その者は、自由に動く手足の感覚を楽しみながら、まるで親しい友人に語りかけるように、思いのまま言葉を口にする。
「お前は誰だ?」
怖気立つほどの鋭い視線で睨みつけ、聡が低い声で問い掛ける。
「おっかねぇ顔すんなよ聡、つれねぇーな。まあいい……俺か? 悪いが俺には人間だった頃の記憶があまり残ってねぇんだ……。だから誰だと言われても、俺自身よく分からねぇ……。ただ昔、俺はある研究所で、本物の『神』になる実験に携わっていてよ。俺より先を行ってた奴を出し抜こうと、ちと焦っちまってな……。実験途中に外界に出てよ、心も体も霧散しちまったんだ……。流石にこりゃ終わったなと思ったんだが……運良く俺の意識が柊に絡まってよ。ほんとラッキーだったぜ……。それから、少しずつ記憶の切れ端を集めていってよ。だいぶマシにはなったんだが、それでも記憶が断片的で定かじゃねーんだ……。まあ、そうだよなぁ……何にしても、呼び名がないっていうのも寂しいよな……。この際、新しい名前を作っちまうか! そうだな……破壊と再生を司る神『シヴァ』なんてのはどうよ? この俺にぴったりだろう?」
異形の者はそう言うと、豪快に笑った。
「本物の『神』だと? お前も『神』を信じる輩か? ……馬鹿げた思い込みだな。『神』なんか、いるはずがない」
「ほー、お前は、柊一秋の息子のくせに『神』を信じないのか? あいつは、ずっと前から信じていたようだぞ」
「……知ってるさ、そんなこと。だが、親父は親父。俺は俺だ」
「面白いな。じゃあお前は、このアナザーワールドをどう位置付けているんだ?」
「全ては解明できる自然の理の範疇にある。このアナザーワールドも、いずれ証明される理の積に過ぎない」
「はははっ! そっか、そっか。お前らが相容れないのは、当然だったわけだな」
異形の者は目を見開き、聡をまじまじと見つめた。
ピシッ、ピシピシッ!
「何? この音?」
美希が、周囲から聴こえてくる不快な音に反応する。
「始まったか……」
美希の横で修平が静かに呟く。
「アナザーワールドの崩壊だよ……この世界は、もうじき消える」
塔矢が、怪訝な表情を浮かべる美希と視線を合わせる。
「……消える」
美希の顔が、沈鬱な表情へと塗り替えられていく……。
「そう悲しげな目をしなくていい。短い間ではあったが、美希達のお陰で、俺はこの世を楽しめたよ。修平が言うように、俺達はそれぞれの役目を果たせたのかもしれない。やるべきことはやれた。皆を守れたっていう自負もある。今は、それなりに満足している」
そう言うと、塔矢は美希へ穏やかに微笑んでみせた。
その笑みは、美希の心を容易に溶かし、止めどなく涙を溢れさせた。
「おっと、悪いな。確かにアナザーワールドの崩壊は、『宿木』である柊一秋がいない今、決まり事だ。もう、お前らをモルモットにする計画は、おじゃんだ。……けどな、その代わりに俺が誕生した。俺は『神』になる。破壊と再生を司る『シヴァ』だ。ヒヒヒッ、神として力をつけるためには、生贄が必要だろう? 俺は、お前らを全て喰らって、その力を手に入れる。これも決まりごとだ」
言い終わると、異形の者は大きく裂かれた口角を上げ、不気味な三日月型へと変形させた。バラバラと崩れ始めた夢の世界の様相と混じり合い、その者の姿は、誰の目にも破壊の権化そのものに映る。
「俺達を喰らうだと? 神が守るべき人間を喰らうのか? 本末転倒だな……そんなものは『神』ではない! 神であってたまるか!」
聡が、侮蔑を込めて吐き捨てる。
「……何か、勘違いしちゃいねーか? 『神』は脆弱で愚かな人間を、守るために存在してるわけじゃねーんだぜ。神だって草木や虫や動物、人間と同率の命を繋ぐ生命体なんだよ。生き残るために、力を尽くすんだ。ただし、この星のあらゆる命の頂点に立つ、万物の理を知る唯一無二の生命体だ。当然、大した力も持ち得ない生命は、おまけでしかない。お前らを含め、この星の全ては、新たな『神』を生み出すための『糧』でしかないんだ。……分かったら、大人しくその命を差し出せ!」
異形の者は、近くにいた聡に狙いを定め、舌なめずりをしながら、徐々に距離を詰めていく……。
パシュッーン!
そして、残り数歩となった間合いで、1発の弾丸が、異形の者の首筋を突き通った。
「……てめえ、この俺に……神に……引き金を引きやがったな!」
禍々しい光を宿した瞳は、弾丸が放たれた軌道を辿り、1人の男を捉えていた。
異形の者は、首筋から噴き出す金色の体液をそのままに、踏み出す方角を転換し、次の瞬間には、その男の目前に立っていた。
人智を超えた移動速度に、誰もがそこへ辿り着いた行程を追えなかったらしい……。
虚をつかれた男は、呆然と無防備に立ち尽くす。
「てめえにも風穴を開けてやらぁっ! とびっきりのやつをな!」
異形の者は、その言葉を体現しようと、激しい一撃をその男の胸元に躊躇なく繰り出す。
バッギャッーン!
「ったく! 面倒くせえ奴だなぁ!」
異形の者の一撃は、その男を確実に捉えたが、その男に絡み付く百足の硬い甲羅が盾となり、思惑通りの結果は得られなかった。だが、その衝撃は凄まじく、脆くなった天井ごと、その男を高々と宙へと舞い上げた……。
「しゃーねぇ、喰らいやすい奴から仕留めていくか!」
異形の者は目を走らせ、対象者を絞り込む。
「いやっ! 何で? 来ないでっ!」
目が合ったのは美希だった。異形の者は、まるで心の奥までも見透かせるように、対象者の中から迷いなく、美希に照準を合わせると、薄ら笑いを浮かべた。
「させるかっ!」
慌てて塔矢が間に入り、両手を激しく乱舞させる。
その動きに同調し、塔矢の指先から無数の細い糸が放たれた。
糸は塔矢の意思を汲み取り、正確に異形の者の手足に巻き付いていく……。
その間に、美希はあたふたしながらも、異形の者から距離をとる。
何重にも撚られた糸は、もう縄に近い。
塔矢の能力では、その糸1本1本に、ピアノ線と同等の強度とゴムのような弾力性まで付加できる。
常識で考えれば、縄ほどにまで太くなったこの糸を、単体の生物が引きちぎることなど不可能だ。
「ほー! こりゃ、面白いな。……『マリオネット』って言うのか。……使い方次第で、色々と活用できそうだな……。だが、このシヴァ様には効かねぇーぜ!」
異形の者は、澄まし顔でそう言うと、繁々と自身に巻き付く糸を見たあと、体の表面を金色に輝かせる。
すると、幾重にもきつく巻き付いていた糸が、嘘のように緩み、細切れとなってパラパラと床へ落ちていった……。
塔矢だけでなく、聡や亜花梨も、目の前で展開された光景が信じられず、床に散乱する糸を見つめ続けた。
共に戦い、互いの能力も含め、信頼してここまで辿り着いた。
どの戦いにおいても、塔矢の紡ぐ糸は、その信頼を裏切らず、その特性を遺憾無く発揮してきた。
だからこそ、受け入れ難い状況を目の当たりにした今、そこに僅かだが思考の停滞が生まれてしまった。
「ほんじゃ、いただいちまうぜー!」
その間隙を見逃さず、異形の者は再び美希へと向きなおると、間髪入れずに飛び掛かった。その口は、全てを呑み込むためか、今度は限界まで大きく開かれていた。美希は、それをまるで他人事のように眺めつつ、夜空に鈍く輝く満月のようだと感じていた……。