夫婦茶碗 (短編1)
先日のこと。
夕食の片づけのとき、夫婦茶碗のうちの幸子のものが割れてしまった。それは新婚旅行の途中に立ち寄った窯元で、それぞれの茶碗に名前を刻み、特注で焼いてもらったものであった。
――イヤだな。
夫婦の絆、そんな大事なものがこわれたようで、そのとき幸子の胸を不吉な思いがよぎった。
そして、日曜日の今日。
――まさか、よそに女が?
不吉な予感が現実のものとなった。
夫が朝早くにフラリと家を出たきり、帰宅したのはすでに暗くなってから。幸子がどこへ行ってたのかをたずねても、夫は言葉を濁してはぐらかし、はっきり答えてくれなかったのだ。
翌日。
幸子はおもいきって、夫に浮気をされた経験を持つという親友のもとをたずねた。
「幸子んとこもか。なら……」
彼女が小ビンを取り出してくる。
「これ、妙薬なんだけど使ってみる? ダンナのウソが簡単にわかるから」
「まさか麻薬みたいなものじゃ?」
「そんな危ないもんじゃないよ。ネットの裏サイトで見つけたんだけど、人体には無害だからぜんぜん平気なの。それに、薬を飲むのはあなただからね」
「で、飲んだらどうなるの?」
「ダンナがウソをつくとね、あなたの耳にザーザーとノイズが混じって聞こえるの」
「ほんとなの?」
「ほんとよ。わたしね、これでうちのダンナの浮気がわかったんだもん。でも薬が効くのは十分ぐらいだから、使い方には気をつけてね」
彼女は薬の使用方法を話してから、妙薬の入った小ビンを幸子にくれた。
その夜。
幸子は薬を飲んだ。
夫の声に雑音が混じれば、夫はウソをついていることになる。夫を裏切るようでうしろめたいが、やはり真相は知りたい。
幸子はあらためて夫に問うた。
「あなた、先週の日曜日はどこに行ってたの?」
「昔の知りあいに会ってた、そう言っただろ」
夫の声にザーザーと雑音が混じる。
――やっぱり浮気を。
一方では……。
――もしかしたら、なにか話せないことがあって、ウソをついてるのかも。
夫を信じたいという思いもあって、この日は浮気を問いただすことはできなかった。
その週末の土曜日。
夫はなにも告げず、またしても昼過ぎに家を出た。
夕方になっても帰ってこない。
それに今日は幸子の誕生日。それさえ、夫は忘れてしまっているらしい。
夫を信じたいという一縷の思いは、幸子のなかでもろくも崩れていった。
――今夜こそは……。
幸子は夫を問い詰めることにした。
外がすっかり暗くなって、夫はなに食わぬ顔で帰ってきた。ゴソゴソと持って出たバッグを押入れにしまい込み、態度もソワソワしていて落ち着きがない。
――いくら証拠を隠したって、薬を飲めばわかるんだからね。
幸子は薬をポケットに忍ばせ、夫に浮気を問いただすタイミングを見はからった。
リビングのソファーに、夫は疲れたようすでドタリと腰をおろした。それでもなにがうれしいのか、目をつぶった顔がにやけている。
――思い出してるんだわ。
浮気相手のことを考えているんだ。そう思うと、幸子は頭に血が昇り、胸がかきむしられる思いがした。
「長いこと電車に乗ってたんで疲れたよ」
夫が声をかけてくる。
――電車?
電車で行ってたの? それに、自分から行き先を白状するようなことをしゃべるなんて。
――どういうことなの?
幸子は大いにとまどった。
――でも、それもウソかも。
疑えばウソに聞こえる。
だが薬を飲めば、すぐに本当かウソかわかること。
幸子は薬を飲んだ。
「電車でって、どこに行ってたの?」
「S市だよ」
雑音が聞こえないところからして、夫がS市に行ったのは偽りではないのだろう。
そして。
S市は幸子にも思い出のある町だった。
「それであなた、わざわざS市までいったいなんの用があって?」
「へへへ……」
夫がにやけて笑う。
笑い声だから雑音はしない。
――また、ごまかす気?
幸子はさらに問うた。
「はぐらかさないで、ねえ、はっきり答えてよ」
「じゃあ、ちょっと待っててくれる。ほんとは、飯のときに渡すつもりだったんだけどな」
夫はソファーから立ち上がると、押入れからさきほどのバッグを取り出してきた。それからバッグを開けて、なにやら小さな箱を取り出した。
「これなんだけど」
夫から箱を渡される。
きれいな包装紙に包まれており、それにはピンクのリボンまでついていた。
「なんなの?」
「今日、幸子の誕生日だろ。だから、おどろかせようと思ってな」
「えっ?」
一瞬、幸子は息が詰まった。
「幸子の茶碗、ほら、割れただろ。幸子、そのことをすごく気にしていたからな。それでこの前、S市の窯元まで行ってきたんだ」
「じゃあ、先週は……」
「形も大きさも同じもので、しかも名前入りの特注なんで、仕上がるのに一週間もかかってな。今日、それを受け取りに行ってたんだよ」
夫の声に雑音はない。
「ごめんね」
「なにが?」
「ううん、なんでもないの。ねえ、今から開けてもいい?」
「もちろんだよ」
幸子はリボンをもどかしそうにといて、箱から新品の茶碗を取り出した。
茶碗を両手で包む。
「気に入ってくれた?」
「うん、ほかのなによりもね」
あふれる涙で、茶碗に刻まれた幸子の名前がかすんでゆく。