東の森の魔法使い
『この道をまっすぐ進んで、東の森の奥深く、湖畔のペンションがある。そこには、どんな困ったことも解決できる魔法使いが住んでいる。』
そんな不思議な噂が、この町にはある。まるでお伽話のような、根も葉もない噂。
小宵国慶長区の東端にあるこの町は、東の森と呼ばれる広大な森に隣接している。森に入る道はただ一つしかなく、その道も途中で獣道と化して、どこにいるか分からなくなるため、“迷子の森”とも呼ばれている危険な森だ。だから普段は誰も足を踏み入れない。無論、私もそんな無謀なことはしない。のだが…。
「本当に行くの?凛。」
「勿論行くわ。」
私は今、その森に一歩足を踏み入れようとしている。
事の始まりは昨日。母の容体が今までになく悪化した。元々持病のある母だが、今回ばかりはと医者も難色を示した。
「お願いします、助けて下さい!」
たった一人の家族を失うわけにいかない私は必死に懇願した。医者は困り顔の末、私に言った。東の森に行けば、どうにかなるかもしれない、と。
10歳にもなって、魔法が存在するなんて信じている訳じゃない。それでも、藁をも掴む想いで、私は東の森の湖畔のペンションを探すことに決めたのだ。
友の制止を振り切り、頭にかぶったフードの端をぎゅっと握って、私は鬱蒼と茂った暗い森の中へと歩を進めた。
ぎゃあぎゃあと何かの鳥の鳴き声が不気味に聞こえる。今にも身体を啄ばんでいかれそうだ。
怖い。助けて。
歩きづらいデコボコした道に息が切れる。
引き返したい。逃げたい。
1日歩き続けても、一向に先が見えない。どのくらい歩いたか分からないが、辺りはすっかり夜の闇に包まれていた。今日はここで野宿するしかない。
ざわざわと森の木々が揺れる音にいちいち怯えながら、母の声がふと聞こえた気がした。
「凛、ごめんね。」
母はよく私に謝った。
「私がこんな身体でなければ、働いてあなたを学校に行かせてあげられるのに。」
「いいの、私勉強よりも働く方が好きだもん。」
母子家庭の貧しい家、自分が働いて稼ぐしかない。それでも、不幸だと思ったことは一度もなかった。友人もいるし、母は優しいし、周りの大人も皆いつも助けてくれた。
そもそも、この国は格差が激しい。並外れた身体能力や超能力を発現できる血筋を持つ一部の人間を継承者と呼び、彼らによって組織された強力な軍隊が国を支配しているのだ。氷室家という王族を頂点にし、“創設者”と呼ばれる王が統治を行う。その呼び名は全てを形作る者(creature)から由来するらしい。そして、創設者を神とするならば、大天使にあたるであろう国家のナンバーツーは、“直属官”と呼ばれ、宰相のような権限を持ち、創設者と同じくらい畏れられているのだ。一方、大多数の非継承者は国家の重要な職につくことはできず、商いで成功を収めた一握りの人間を除き、殆どが低所得層である。だからと言って世界は不平等だからと嘆いて諦めることほどバカバカしいことはないだろう。この世界で、私のような“ただ人”が這い上がるには、幸せを掴むには、努力と根性と信念、これに尽きる。
「だから平気よ、このくらい。」
恐怖と孤独を追い払うように、ぎゅっと目を閉じた。
ふと目を覚ますと、朝もやで視界が悪い森の中。いつの間にか眠っていたらしい。歩く方向に不安を覚えながら、2日目も歩き通した。こうしている間にも、母はもしかしたらーー。焦りに思考を濁されながら、足がもつれそうになりながら、それでも必死に歩く。急に雨が降り始め、ぬかるんだ道に足を取られそうになった。なんとか堪えてホッとしたその隙に、足元の木の根に気付かず、派手に転んだ。
「きゃぁっ」
膝は擦りむけ、血が滲んでいる。痛い。
もう泣いてしまいたい。
それでも、痛みを我慢して立ち上がった。まだ足は動くじゃないか。
いつの間にか、雨は小雨になっていた。霧のような雨が視界を遮るが、さっきよりも周りが明るい。どうやら夜は明けているようだ。足元がふらついて更に視界がぼやける。持ってきた食料はもう尽きていた。
ここまでなのかな、と一瞬思った。結局、報われることなんてないのかもしれない。そもそも魔法なんて存在しないだろう。
「何やってるんだろう。」
木の幹に寄りかかって座り、目を瞑った。不意に、母の笑顔が脳裏に浮かんだ。
いや。
報われるかもしれない。
魔法だって、存在するかもしれない。
可能性がまだあるのに、諦める訳にはいかない。
さあ立とうと、目を開けた瞬間、上から声が降ってきた。
「何してんねや。」
その時だった。私が彼と出会ったのは。
金髪の魔法使いと、出会ったのは。




