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【ギリシャ物語】視線。

作者: 銀糸雀

――いつまでもフラフラしてるなよ、ってヘルメス(にいちゃん)に言われた。

でも、彼のような、才能も運もない。


母さんは、燃え尽きた。

養母かあさんは、気が狂った。

養父とうさんは、殺しあった。


みんなみんな食べちゃった。

狂気がぺロリと飲み込んだ。







捕らえた獲物は素手で引き裂き、鍋に放り込む。

夜が明けるまでドンチャン騒ぎをして、酔って相手構わず交じり合う。

道徳も規律もありはしない。

そんな、無法者たちの中心が、ディオニュソスだった。

葡萄酒の齎す甘美な酔いと、心を魅せる独特のリズムと。

これが、狂気の力。

人の本能を支配する、それが彼の神格だった。


その日も、彼はサテュロスやメナドたちと、お気に入りのネクソス島を訪れた。

身に付けているのは剥ぎ取ったばかりの豹の毛皮のみ。素足が踏む白い砂に血の雫が滴る。

そんな姿でも、ディオニュソスは恐ろしいほど美しかった。

黒く長い巻き毛は、紫を帯びて肩に降りかかり。

赤い唇は、娼婦のように鮮やかで。

ほっそりと華奢な体に、纏わる葡萄の蔓がその肌の艶を映えさせて。

まるで、一つの芸術品のよう。


「あら、ディオニュソス様、あんなところに人が」

メナドの一人が指差して、ディオニュソスはそちらを振り返る。

「…女だな」

呟いて目を細める。

その少女が、意外にもいい身なりをしていたからではない。


彼女は、睨みつけていた。

海を。

これ以上ない、真剣な眼差しで。


それは、まるで海を飲み干そうとでも、あるいはその向うに居る何かを射抜こうとでもしているような瞳だった。

きゅっと唇を引き結び、糸のようにピンと張り詰めた少女。


…変な女だ、と思った。

こんなところに、独り。

泣くでもなく、喚くでもなく、ただ海を睨んでいるなんて。


「……そんなにじっと見つめたら、波に穴が開くよ」

思わず声を掛けてしまったのも、興味を引かれたから。

「……っ、貴方は…」

少女は振り返り、紫色の瞳を見上げた。

「人に名を尋ねるなら、そっちから名乗るのが礼儀じゃないの?」


「……失礼致しました、高貴なる方。私はクレタ島ミノス王が娘、アリアドネと申します」

少女は深くこうべを下げる。

後ろに控えたサテュロスやメナドたち。

むせ返るような甘く淫らな酒の香り。

何よりディオニュソスのこの世ならぬ容貌に神であるということを見抜いたのだろう。

しかし、再び上げられた少女の鳶色の瞳には、一遍の怯えも恐怖すらも浮かんでいなかった。

血の滴る毛皮を纏った恐ろしげな姿にさえ、心を動かされることがないかのように。





ディオニュソスが島に滞在している間、アリアドネは変わらず海岸にいた。

赤み掛かった金髪が潮風になびく。

それが次第に傷んでいくことも、雪のような肌が荒れていくことも、彼女は意に介していないようだった。


「クレタ島の王女が、なんでまたこんなところに…」

「そういえば、噂を聞いたことがある。英雄テセウスが王女の助けを借りて、ミノタウロスという化け物を倒したと…」


「……テセウス。ポセイドンの息子、か」

ひそひそ囁くメナドたちの言葉に、ディオニュソスはポツリと呟いた。


「ディオニュソス様、どうなさいます? 宴の側女に連れて参りましょうか?」

「あるいは、目障りでしたら殺してしまっても」

「そう……そうだな…」

正直、自分など目に入っていないような少女の瞳は気に入らない。

大きな鍋でコトコトと煮込めば、あの大きな目も美味しいスープになるだろうかと思う。

「……置いていかれたのかな」

ふと、言葉が漏れる。自分も母に、父に、置いていかれたようなものだから。

「迷宮を抜けてしまえば、王女など足手まといということでしょう」

賢しげに笑ったサテュロスが、ひっと悲鳴を上げる。首の薄皮一枚ディオニュソスの爪で切り裂かれ、赤い鮮血が飛ぶ。


その血を舐めながら視線を戻すと、海岸に居た筈のアリアドネが、腰まで水に浸かっていた。


「…っ」


頭より先に体が動いていた。

「…自分だけ楽になるつもりかっ?!」

痛いほど腕を引っ張られ、砂浜まで殆ど引きずって来られて、アリアドネはディオニュソスの血で汚れた手を、不思議そうに眺めた。

「……あ。死ぬつもりはありませんでしたわ」

ぎゅっと握られたままの指を見て、ようやく思い至ったように口を開く。

「心配して下さったのですか?」

「…別に。そんなんじゃない」

ディオニュソスが手を離すと、細い少女の体は軽々と砂の上に放り出される。

「ただ、逃げるのかと思って」

「…自分から逃げても何処にも行けませんもの」

彼の手荒な扱いにも、まったく気にした様子もなく、少女は立ち上がる。

「それなら、なぜ、お前はここに居る?」

言外に、テセウスに捨てられたのか、という問いかけを含んで、ディオニュソスは尋ねた。


「私が罪を犯したからです」


アリアドネの答えは、意外なものだった。

「私、生まれて始めて、男性に恋をしましたの」

「…恋をするのは、悪いことじゃないよ」

それは、本能に基づいた感情。ディオニュソスがもっとも肯定するもの。

「いいえ、悪いことです。……だって、その方は、私の弟を殺しにいらっしゃったのだから」

例え、人を食う化け物だろうと、身内は身内。

結果が判りすぎるほど判っていたのに、恋するゆえに手を貸した。

「だから、報いを受けたのですわ」

身内殺しを手伝った、これが罰、とアリアドネは凛とした瞳で言う。

「愚かな女とお笑い下さい」


「恨んでいるんだろう?…テセウスを」

「……っ」

テセウスの名を聞いた瞬間、始めて鳶色の瞳に感情が宿る。

「恨んで、憎んで、殺したいというなら、俺が殺してきてやるよ?」

「…お止めください!」

少女の強い言葉に、紫水晶の瞳が細められる。

「憎んでいないの?」

「何故憎むのですか…?私はテセウス様に恋していたのに」


アリアドネは小さく呟く。

「…その恋で、弟を死なせてしまった…」


「それなら、弟を殺したテセウスを憎めばいい」

「憎めません…だって、弟は、人を殺していたのだから。私にはそれを止めるすべがなかった…」

つぅっとアリアドネの頬に涙が零れ落ちる。

いけないものを見たような気がして、ディオニュソスは視線を反らした。


恋する女はみんなこうなのだろうか。

母が、ゼウスの真実の姿を見るという罪を犯したのも。

すべて、恋のせいなのだろうか…。


本能を司る神でありながら、ディオニュソスはその気持ちが判らなかった。

アリアドネを見ていると、遠い母を思い出す。

黒髪に黒い瞳。外見の共通点はないのだけれど。







次の日、砂浜で海を見つめる少女の元に、メナドが大量の食料を積み上げた。

「これは一体…」

アリアドネは、驚いて目を見開いた。

「ディオニュソス様は、今日、島を離れられる。お前に、出来るだけ食べ物を用意しろとの仰せさ。冷たい水のある、泉も用意してくださるそうだ」

「…何故…」

さて、何故だろうね、とメナドも肩をすくめる。

「あの偉大な方の考えなど、我らには思いもよらぬものだ」

「……いいえ、あの方にだって、感情はあるわ」


アリアドネは立ち上がった。後ろでなにやら喚いているメナドの言葉に耳を貸さず、いつもディオニュソスが現れる緑溢れる森の方へと、少女は走っていく。

「…いたっ」

すぐに木の枝が、彼女の白い肌を引っかいた。昼間とはいえ、野生のままの森は、世間知らずな王女を苦しめるには十分だった。

何か暗い唸り声が聞こえる。木の根に足を取られて転ぶと、鋭い石が膝を擦りむいた。

ストロベリーブロンドの長い髪が、枝に絡まって千切れた。

歩きにくい長い衣の裾を破り、膝に巻きつける。太陽の位置を見ながら、アリアドネは森の奥へ奥へと踏み込んだ。


何度目かに転んだ後、アリアドネは足首に鋭い痛みを感じた。

捻挫してしまったらしい。もう歩けない。

キッと森の奥を睨む。

「いつも、私の手は届かないのかしら…」

ただ一言、お礼が言いたかっただけだ。

だが、相手が神であれば。

「ディオニュソス様…!」

アリアドネは、天に向かって叫んだ。


連なり。

声。

届く。

祈りならば。


「…酷い格好だねぇ、アリアドネ」

すぐ横で声が聞こえる。

「それじゃ、お前に食料なんか残しても仕方ないじゃないか…」

華奢な少年の両腕にひょいと抱えられ、アリアドネは言葉を失う。

「今日で俺は、ここを去るから」

あっという間に、元居た海岸に連れ戻される。

「特別に何か一つ、願いを叶えてあげよう」

ミノス王の元へ戻る?それとも、ここにお前の宮殿を作ってあげようか。

ディオニュソスの言葉に、アリアドネは深く考え込む。

鳶色の瞳が、静かに伏せられた。


「それなら、どうか、テセウス様の航海の無事を」

「……お前、馬鹿なの?」


ええ、とアリアドネはにっこりと微笑んでみせた。

「それに、ディオニュソス様に、醜態は見せたくありませんもの」

自分の罪を忘れ、安楽な生活に戻る。

そんな自分は許さない。それが少女のプライド。


「……ああ、でも、あの方、ポセイドン様の御子ですものね。

航海で苦労なんてされる筈ないのに…本当に馬鹿な願いでしたわ」

クスリと笑って、少女は海を見る。

その顎を掴んで、ディオニュソスは無理矢理振り向かせた。

「俺を、見ろ」

ドキリとするほど美しいアメジストの瞳に命じられて、アリアドネは息を飲む。

「そうやって海ばかり見ていても、何処へも行けやしない。

テセウスも戻って来ない。

お前の罪も許されない。

だから…」


替わりに、俺を見ていろ……。




瞬きすら出来なかった少女が、ゆっくり頷くのはその3秒後。



●あとがき

久々にノーマルカップル、ギリシャ神話で好きなご夫婦その4、ディオニュソスとアリアドネの出会い編でございましたー。


ディオニュソスは、神になった経緯など考えると、結構荒れていた時期があるのではないかと。

普段は、ほわわんとした美少年として書いていますが、本質は多分もっと野生の神だと思っています。

…で、そんなディオニュソスが一目惚れ(?)したのが、賢女と名高いアリアドネ。

何があった、ネクソス島。


この話では、テセウスに置いていかれた後に出会った設定になっていますが、ディオニュソスに恋されたから置き去りにされたという説もあり、興味が尽きません。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 物語の骨子をいじらず、オリジナルのストーリーに上手く仕上げていると思います。とても読みやすく引き込まれました。 [気になる点] ちょっと読み足りないです。もっと長編でも良かったと思います。…
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