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【夏のホラー2026】ゴーストトラックーー幽霊トラックについての怪談

作者: 杉乃かふん
掲載日:2026/07/11

◆一◆


御影市交通管制センターに保存された、無人交差点の監視映像だった。


映像の右上には、時刻が白い数字で刻まれていた。


02:14:03


固定カメラが見下ろす塔ノ下交差点には、人影が一つだけあった。

紺色のスーツを着た男だった。

男は歩行者用信号の前で立ち止まり、右を見た。左を見た。もう一度、右を見た。

道路には一台の車もいない。

閉鎖された物流倉庫。シャッターを下ろしたガソリンスタンド。街灯に照らされた横断歩道。

動いているものは、信号機の赤い人型だけだった。


02:14:21


男が腕時計を見る。


02:14:29


男は空を仰ぎ、小さく肩をすくめた。

それから、横断歩道へ踏み出した。


一歩。


二歩。


三本目の白線に右足が触れる。


02:14:37


映像が乱れた。

一秒にも満たない、ごく短い欠落だった。


次のフレームで、男の右脚が膝から逆に折れていた。


男の体が横向きに浮き上がる。

道路には何も映っていない。

男は両手を前へ突き出したまま、地面へ落ちた。

その直後、見えない何かが男の足へ乗り上げた。

ズボンの中で、脚の厚みが消えていく。

男の上半身が一度だけ大きく跳ねた。

次に、腰が路面へ押し付けられた。

シャツが腹部から膨らみ、男の口から黒い液体が噴き出した。


血は、すぐには地面へ落ちなかった。


空中に存在する平らな何かへぶつかり、そこで四角く広がった。


見えない壁。


その壁が、ゆっくりと男の上を通過していく。

赤い飛沫が、横長の格子を描いた。

フロントグリルのようにも見えた。

映像には、車両は一台も映っていない。

男の頭部が、路面へ押し付けられた。

そこでまた、映像が一瞬だけ欠けた。


次のフレームには、男の体と、道路に落ちた大量の血だけが残されていた。


02:14:41


歩行者用信号が青へ変わる。

音声には、低いエンジン音が記録されていた。

そして、規則正しい方向指示器の音。


カチ。

カチ。

カチ。


事故が起きていたのは、およそ四秒間だった。

だが、方向指示器は二十八回鳴っていた。

最後の一音は、映像の再生が終わった後に聞こえた。


◆二◆


七日後。

東京郊外の共同編集室。


「もう一度」


真帆が言うと、鈴木修司は無言で再生位置を戻した。


佐藤真帆、三十二歳。

怪談や未解決事件を調べ、雑誌やウェブに書くフリーのノンフィクションライターだ。


鈴木修司、三十五歳。

カメラマン兼映像編集者。


二人は五年前から組み、動画チャンネル『境界記録』を運営している。

真帆は取材、資料照合、構成、ナレーション原稿を担当していた。

鈴木は、撮影、音声解析、生配信、再生数の管理まで、映像側の仕事を一人で引き受けていた。


真帆の仕事は、映像から落ちた前後を拾うことだった。

鈴木の仕事は、前後を切り、画面の中に証拠を残すことだった。


似た仕事だった。

向いている方向だけが違った。


『境界記録』の再生数は、半年間落ち続けていた。

制作会社からは、この企画で契約を継続するか判断すると告げられていた。

真帆は別の雑誌へ書くことができた。

だが、編集室の賃料と機材のリースを背負う鈴木には、次があるとは限らなかった。


暗い編集室に、青白いモニターの光が浮かんでいた。

男が左右を見る。

信号を待つ。

肩をすくめる。

横断歩道へ出る。

右脚が折れる。

何もない道路の上で、体が順番に潰れていく。

真帆は三度目の再生でも、途中で目をそらさなかった。

鈴木は映像を止め、男が三本目の白線へ足を置いた瞬間を拡大した。


「ここだな」

「何が?」

「条件が、だ」


鈴木はマウスを動かし、男の靴底を囲んだ。


「過去の事故も、全員三本目の白線まで足が出てる」


机の上には、地元紙の記事と警察への情報開示請求で得た資料が並んでいた。

塔ノ下交差点では、過去十八年間に七件の重大なひき逃げ事件が起きている。

発生時刻は、いずれも午前二時から二時半まで。

被害者は全員、歩行者用信号が赤の状態で横断歩道へ入っていた。

損傷の程度から、中型または大型の貨物車両が関係したと推定されている。

だが、現場には車両の塗料も、ガラス片も、金属片も残されていなかった。

ブレーキ痕もない。

前後の道路を映したカメラにも、事故車両らしきものは記録されていない。

交差点の中央で、突然、人間だけが轢かれていた。


「しかも、全員ちゃんと赤信号で渡ってるんだな」


鈴木が言った。

真帆は画面から目を離さなかった。


「赤信号で出たことと、車が存在しないことは別の問題でしょう」

「いや、赤信号じゃなければ死ななかった」


鈴木は、確認するように繰り返した。


「それがこの怪異のルールだろう」


その言葉に悪意はなかった。

だから真帆は返事をしなかった。

鈴木は社交的で、困っている人間を見れば自然に手を貸す男だった。

機材を運ぶときも、自分より重いものを真帆に持たせたことはない。

他人の失敗に厳しいわけでもない。


ただ、怪奇事件の記事を読むときだけ、必ず原因を探した。


たとえば、酒を飲んでいた。イヤホンをしていた。暗い服を着ていた。

今回は赤信号だった。


原因が見つかると、鈴木は安心したような顔をした。

自分は同じことをしない。

だから、自分には起こらない。


鈴木にとって原因は、被害者を責めるための言葉ではなかった。

自分と事故の間に立てる柵だった。

柵が見えれば、越えなければいい。

世界が理由もなく人を潰すとは、信じずにすむ。


真帆は、その柵の向こうへ置き去りにされた事情を拾うのが、自分の仕事だと思っていた。

少なくとも、そのつもりで書いてきた。


「現地、今夜行くか?」

「まず昼に見る」

「夜のほうが画になる」

「画を撮りに行く前に、道を確認した方がいいわ」


真帆は資料を閉じた。

その表紙には、自分たちの企画名が印刷されていた。


『ゴーストトラック――赤信号を渡った七人』


同日の午後三時。

二人は東京から車で三時間かけ、御影市の北端にある塔ノ下交差点を訪れた。


真帆は信号の周期と周辺施設をノートへ書き取り、鈴木はカメラを構えて、夜に使える画角を探した。


古びた交差点だった。

怪談の舞台というより開発から取り残された土地に見え、大型車両が出入りしていたらしい物流倉庫は錆びたフェンスに囲まれ、ガソリンスタンドの料金表示板には十八年前の数字が薄く残り、横断歩道の白線はところどころアスファルトの色に戻っていた。


「普通だな」


鈴木が言った。

真帆も同じことを考えていた。

空が明るければ、信号はただの信号だった。

赤になれば止まり、青になれば渡る。


鈴木はレーザー距離計を取り出した。

縁石から一本目の白線。

一本目から二本目。

二本目から三本目。

一つずつ測り、路面の写真へ数字を書き込んでいく。


「三本目の手前まで、四・八メートル」

「何のために測るの」

「条件があるなら、境界もある」


鈴木は三本目を指した。


「境界がわかれば、越えずに撮れる」


交差点の中央分離帯に、枯れかけた花束が置かれていた。

ビニール包装は白く濁り、中の花は茶色く変色している。

風はなかった。


それでも、花の首だけがゆっくりと傾いた。


一本ずつではない。

束全体が、何か大きなものが通過する方向へ押されたように、一斉に車道側を向いた。

鈴木がカメラを構えた。


「今の撮れたぞ」


真帆は返事をしなかった。


信号制御盤の側面に、古い交通安全のシールが貼られていた。

子供が描いたような笑顔の人型が、片手を上げている。

その下に、退色した文字があった。


『ルールをまもれば、こわくない。』


人型の顔の部分だけが、何度も爪で引っかかれていた。


◆三◆


昼の下見を終えてから九時間後。

日付が変わり、二人は御影駅前のビジネスホテルから、再び塔ノ下交差点へ戻った。


午前一時五十八分。


周囲の倉庫はすべて消灯し、昼には見えていた山の輪郭も闇へ沈んでいる。

交差点には、真帆と鈴木のほかに誰もいなかった。


二人は四台のカメラを設置した。

一台は横断歩道。

一台は信号機。

一台は交通ミラー。

最後の一台は、交差点全体を斜めから見下ろす位置に置いた。

道路脇には集音マイクも設置した。


機材の位置と画角は鈴木が決めた。

真帆は昼に測った信号周期と、過去の事故時刻を照合した。

調べることと、映すこと。

いつもと同じ分担だった。


だが今夜は真帆が映像に口を出した。

「普通に撮る。無理な検証はしない」

「渡らないのかよ」

「渡らない」


真帆は即答した。


「怪談の条件を再現しないと意味ないだろ。三本目を踏まなければ、条件の外だ」

「条件を確認するのと、自分で轢かれるのは別」

「線は見えてる」

「向こうが、あなたと同じように認識する保証はない」


鈴木は笑った。


「轢く車が本当にいればな」


午前二時七分を最後に、車の通行が途絶えた。

遠くで犬が鳴いていた。

電線が低く唸っていた。

物流倉庫の裏から、何かの機械が一定の間隔で作動する音が聞こえた。


午前二時十三分。


歩行者用信号が赤になった。

真帆は腕時計を確認した。

一分が過ぎた。

信号は変わらない。


二分。


三分。


車両用信号は青のままだった。

だが、車は一台も来なかった。

五分が過ぎた。


「故障か?」


鈴木が言った。

信号機の赤い人型は、にじむほど強く光っていた。

真帆には、それが停止を命じる表示ではなく、こちらを見ている目のように感じられた。


「十分待って変わらなかったら、撤収する」

「渡れば早い。三本目の線を踏まなければ大丈夫だ」


鈴木が右足を縁石から出した。

靴の先が、横断歩道へ数センチ入った。

真帆は反射的に彼の肩をつかんだ。


「やめて」


鈴木が振り返る。


「まだ一歩も出てない」


その瞬間だった。

二人の背後から、方向指示器の音がした。


カチ。


真帆は振り返った。

道路には何もいなかった。

街灯が照らすアスファルト。

倉庫のフェンス。

暗いガソリンスタンド。


カチ。


音は近かった。

大型車両の運転席から聞こえるような、高く乾いた機械音だった。


「聞こえるよな」


鈴木の声が低くなった。


カチ。


道路脇に落ちていた空き缶が、音に合わせてへこんだ。

缶は転がらなかった。

上から巨大な重量を受けたように、ゆっくりと平たくなった。


カチ。


次の音は、二人の真横から聞こえた。

排気ガスの臭いがした。

油と煤の混じった、喉の奥へ貼り付く臭い。

路面の小石が細かく震えた。

何か巨大なものが、見えないまま二人の前を通過した。

真帆は動けなかった。


目の前の道路には何もない。


それなのに、胸の内側だけが、低いエンジンの回転に合わせて振動していた。

音は交差点を横切り、向こう側へ遠ざかった。


午前二時二十六分。


歩行者用信号が青へ変わった。

犬の声が戻った。

電線が唸り始めた。

風が吹き、枯れた花束の包装を鳴らした。

鈴木がようやく息を吐いた。


「撮れたよな」


午前三時過ぎ。

二人は交差点から十五分離れた御影駅前のビジネスホテルへ戻り、鈴木のノートパソコンで四台分の映像を同時に再生した。

横断歩道を映したカメラには、何も記録されていなかった。

空き缶も、最初から潰れているように見えた。

信号機の映像では、赤になってから青へ変わるまで、十三分間、一度も光が揺らいでいない。


異常があったのは、交通ミラーを映したカメラだった。


鈴木が映像を停止した。

ミラーの中に、交差点とは別の風景が映っている。


「鏡の反射だと映ってる」


暗い車内。

丸いハンドル。

その上に置かれた、白いもの。

真帆は画面へ顔を近づけた。


指だった。


皮膚のない、五本の指の骨が、ハンドルを握っていた。


映像を一フレーム進める。

骨の指は、少しだけ位置を変えていた。

さらに一フレーム。

親指が、ハンドルの内側を撫でていた。

集音マイクには、二人が現場で聞かなかった音まで記録されていた。

低いエンジン音。

方向指示器。


そして、人間の声。


鈴木が周波数を調整し、再生速度を落とした。

何十人もの声が、エンジン音の底で重なっていた。


「まだ渡らない」


女の声だった。


「待っている」


年老いた男の声。


「赤だぞ」


若い男。


「早くしろ」


最後の声を聞いた瞬間、鈴木が再生を止めた。

真帆は彼を見た。

鈴木は笑おうとしたが、口元が動かなかった。


「今の」


彼は言った。


「あれ、俺の声だ。俺の声を使われてる」


現場で、鈴木はその言葉を口にしていなかった。


鈴木は音声ファイルを別の記録媒体へ複製した。

それから、三本の指を立てた。


「三本目の手前までなら、確かめられる」

「まだ行くつもり?」

「俺の声が、俺より先にあそこにいたんだ。仕組みを確かめないまま帰れるか」


鈴木は恐怖を感じると、距離と条件を測ろうとした。

測ることができれば、扱えるものになる。

決められた線のこちら側にいれば、安全でいられる。


そう考えずにはいられない男だった。


◆四◆


翌日の午後。

二人は御影市立総合医療センターを訪れた。


取材を申し込んだ相手は、七件の怪異で唯一、肉体が生存している被害者だった。

瀬田拓也。


現在二十四歳。

事故当時は二十二歳で、配送会社へ就職したばかりだった。

警察資料では、彼について三行しか記されていない。


赤信号を無視。

大型車両との接触と推定。

意思疎通不能。

三行の中に、彼が二年間何を見てきたのかは書かれていなかった。


拓也の病室は本館ではなく北棟の四階にあり、以前は回復期患者のために使われていた病棟だが、現在その階で使用されている病室は一つしかなく、エレベーターを降りると照明の半分が消されていた。


廊下の入口には、病院名の入った印刷物が貼られていた。


『午前二時から二時三十分まで、設備点検のため立入禁止。』


毎日、同じ時間に設備点検をする理由は書かれていない。

ナースステーションには看護師が二人いた。

真帆たちが瀬田拓也の名前を告げると、一人が面会簿を差し出した。

もう一人は顔を上げなかった。


「病院職員への取材はお断りしています」


最初の看護師が言った。


「患者さんとの面会は、お母様の責任でお願いします。何かあれば、室内の電話で連絡してください」


案内はしなかった。

病室まで続く廊下を指さしただけだった。

拓也の部屋は、いちばん奥にあった。

扉の横に患者名はない。


赤く光るはずのナースコール表示灯には、白い医療用テープが三重に貼られていた。

天井の火災報知器にも、赤い作動灯を隠すように小さな紙片が貼られている。

病室の前まで来たのは、真帆と鈴木と、拓也の母親である瀬田佳代だけだった。


「先生は来ないんですか」


真帆が尋ねた。

母親は扉の取っ手に手を置いたまま、少しだけ笑った。


「来ません」

「今日だけですか」

「二時十三分のことを知ってから、ずっとです」


拓也は、白い病室の中央で眠っていた。

彼が塔ノ下交差点で発見されたときには、両脚と骨盤、胸の一部が大型車両に踏まれたように破壊されていた。

顎にも重い損傷があり、声を出すことはできない。

医学的には、周囲との意思疎通は不可能と判断されている。


生命を維持するための機器はそろっている。

ただし、点滴管とモニターの配線は異様に長く、機器本体はすべてベッドから離れた入口側へ集められていた。

誰かが、必要以上にベッドへ近づかなくて済む配置だった。


「目は動くんですよね」


真帆が言った。

母親はうなずいた。


「最初の先生は、動くと書いてくれました」


事故から三か月後、神経内科医が視線による意思疎通を試した。

左右を見る指示を八回出すと拓也は八回とも正しく従い、自分の名前には肯定し、違う名前には否定した。


診療録には、いったんこう記された。


『指示理解あり。視線による意思伝達成立の可能性』


「それなら、どうして意思疎通不能に戻ったんですか」

「二度目の検査をしたからです」


警察側の依頼で、二度目の検査は午前二時十三分に始まった。

事故時刻と反応の関係を確かめるためだった。

医師は瞳孔の動きを追う小さな赤い光を点灯させた。

その瞬間、拓也の心拍数が跳ね上がった。

病室の床から、方向指示器の音がした。


ベッドの四輪にはすべてブレーキがかかっていた。

それでもベッドは、医師のほうへ三十センチ動いた。

床には、濡れたタイヤが通ったような黒い跡が二本残った。

医師の白衣の裾と右の革靴が、その跡の下で平らに押し潰されていた。

誰の目にも車輪は見えなかった。

それでも医師の右足には、タイヤの溝に沿った紫色の痕が浮かび、痛みで立てなくなった。

翌日、その医師は担当を外れた。

一週間後、病院を辞めた。


次に視線訓練を引き継いだ言語聴覚士は、文字盤で拓也に三文字を選ばせた。


し た に


そこまで読んだところで、ベッドの下から自分の声が聞こえたという。


「反射です」


彼女はその日のうちに休職し、戻らなかった。

診療録にあった『意思伝達成立』の一文には、後から二本線が引かれた。


代わりに記されたのは、次の言葉だった。


『検査に伴い原因不明の自律神経症状を認めたため、詳細評価を中止』


意思がないと判断されたのではない。

意思があるかどうか、もう誰も確かめないと決めたのだ。


「先生たちは、目の動きを反射だと思っているわけではありません」


母親は言った。


「反射と書けば、見に来なくて済むんです」


必要な処置は行われていた。

看護師は二人一組で入室して点滴と吸引と体位交換を済ませ、モニターの数値も記録されている。

ただし、午前二時十分から二時二十七分まで、この階には誰も入らない。


モニターはナースステーションから遠隔で確認される。

警告音が鳴っても、扉は開かない。

その時間だけは、拓也の母親が息子のそばにいた。


病院は怪異を否定していなかった。

認めてもいなかった。

名前を付けず、廊下の奥へ置き、時間割の外へ押し出していた。


「警察にも、このことを?」


鈴木が尋ねた。

母親は古いスマートフォンを取り出した。


「これを渡しました」


事故の直前、拓也は友人と通話していた。

端末には、二分ほどの音声が残されている。


警察は一度、証拠品として預かった。

担当刑事が署内で再生したのは、午前二時十三分だった。

電池を抜いたあとも、端末から方向指示器の音が鳴り続けた。

証拠保管室の床には、翌朝、泥の付いたタイヤ痕が残っていた。

部屋の扉は、一晩中施錠されていた。


三日後、端末は母親へ返却された。


捜査記録には、音声について一行だけ記載された。

『事故との関連を認めない環境雑音』

その後、塔ノ下交差点の事故では、警察の現場到着時刻が決まって午前二時二十六分以降になった。


通報を受けても、巡回車は交差点の一つ手前で待機した。

青信号へ変わるまで、誰も横断歩道へ入らない。


警察も、何も知らないわけではなかった。

知ったうえで、記録に残らない距離まで後退していた。


「事故を無視しているんですか」


真帆が言った。


「怪異を無視しているんです」


母親は答えた。


「だから、その中にいる人間まで見えなくなるんです」


真帆は文字盤を取り出した。

五十音が書かれた透明な板だった。

拓也の視線が動くかどうか、一文字ずつ確認する。

最初の十分間、反応はなかった。

十五分が過ぎたころ、拓也の瞳が右へ動いた。

偶然かもしれない。

真帆は同じ位置へ文字盤をずらした。

拓也の視線が、その動きを追った。

一文字を選ぶのに数分かかった。

途中で何度も目が閉じた。

それでも、拓也は文字を選び続けた。


ま


だ


真帆は紙に書いた。


まだ


次の文字。


し


た


まだ した


に


い


る


病室から音が消えたように感じた。

真帆は、紙に書かれた言葉を見下ろした。


まだ、したにいる。


「拓也さん」


自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。


「あなたは、まだトラックの下にいるの?」


拓也が一度だけ瞬きをした。

佳代が口元を押さえた。


彼は二年間、事故の続きを生きていた。


鈴木が初めてカメラを持ち上げたが、すぐにまた下ろした。


「録音されている音声を聞かせてもらえませんか?」


佳代はスマートフォンの音声を再生した。


最初は拓也の足音だった。

信号機の電子音は聞こえない。

遠くで、彼が小さく笑っている。


次に、方向指示器。


カチ。

カチ。

カチ。


拓也が言う。


「何だよ、これ」


足音が速くなる。


「待って。道が――」


衝突音。


拓也の息が詰まる。

短い悲鳴。


その後ろから、複数の声が聞こえ始めた。

怒鳴っている者はいなかった。

誰もが落ち着いた、日常的な調子で話していた。


「赤で渡ったほうが悪い」

「ルールはルールでしょう」

「自己責任だよ」

「車の人も迷惑だよね」

「仕方ないんじゃないですか」


最後に、小さく笑う女の声。


「ざまあみろ」


タイヤが何かを踏む音がした。


一度。


二度。


三度。


音声は終わらなかった。


四度。


五度。


六度。


一台のトラックにあるはずの車輪数を越えても、音は続いた。

佳代が再生を止めた。

病室は静かになった。

誰も話さなかった。

そのとき、ベッドの下から音がした。

重いタイヤが、濡れた路面を通過する音。


一度だけ。


真帆はゆっくりと床を見た。


ベッドの下には何もなかった。


ただ、蛍光灯の反射が床に細長く伸びていた。

白い帯が三本。

横断歩道のように並んでいた。


◆五◆


病院を出た翌朝。

真帆と鈴木は、御影市の古い住宅街にある佐伯文江の家を訪れた。


佐伯文江、六十七歳。

塔ノ下交差点で最初に死んだ女性、佐伯澪の母親であり、遺族であると同時に、この事件の事実を十八年間保存してきたたった一人の記録係でもあった。

「娘が、あのトラックを運転していると思っているんでしょう」


真帆は答えられなかった。

文江は真帆の手にある調査ノートを見た。

表紙の隙間から、赤い文字がのぞいていた。


『仮説A――佐伯澪』


「隠さなくていいですよ」


文江は扉を開けた。


「そう思った人の記事を、十八年分、全部取ってありますから」


佐伯文江の家には、十八年分の紙があった。

新聞。

週刊誌。

裁判記録。

運送会社の内部告発文書。

事故現場の写真。

掲示板の印刷。

動画サイトのコメント。

匿名の手紙。


部屋の壁際には、三種類のファイルが並んでいた。


黒い背表紙には『澪が殺したと書いたもの』

白い背表紙には『澪が生きていた記録』

赤い背表紙には『記事のあとに起きたこと』


文江が集めていたのは、思い出だけではなかった。

娘がゴーストトラックの犯人ではないと示すための、反証の記録だった。


「私は、娘が赤を渡らなかったと証明したいわけではありません」


文江は言った。


「渡りました。それは事実です」


黒いファイルへ手を置く。

死者は訂正記事を求められない。


名誉毀損を訴えることもできない。


だから文江が、娘の代わりに一つずつ保存した。

誰が、いつ、どんな言葉で澪を犯人にしたのか。

その言葉のあと、何が起きたのか。


「娘が人殺しではないと証明するために、集めたんです」


文江は、最も古い白いファイルをテーブルへ置いた。

二〇〇八年二月。

最初の事故。


文江は、ファイルの表紙裏から一枚の写真を取り出した。

ファミリーレストランの制服を着た澪が、コンビニのプリンを二つ持って笑っていた。


澪は十九歳で、調理師の専門学校へ通う資金を貯めるために夜のアルバイトをしており、事故の二十分前には母親へ短いメッセージを送っている。


『プリン買った。先に食べないで』


それが、澪の最後の言葉だった。

翌朝の新聞に、プリンも、専門学校も、母親を笑わせた冗談も載らなかった。

載ったのは、「赤信号を無視した十九歳の女性」という一行だった。


文江が保存してきたのは、違反をしなかった娘の証明ではない。

違反だけではない娘の証明だった。


十九歳だった佐伯澪は、深夜のアルバイトを終え、塔ノ下交差点で信号を待っていた。

歩行者用信号は赤だった。

道路には車が見えなかった。

澪は横断歩道へ出た。

そこへ、貨物トラックが進入した。


澪は即死だった。


最初の事件には、他の六件と違う点が一つある。

事故を起こしたトラックが、実在したことだ。

運転手も実在した。


事故を起こしたトラックは、制限速度を二十キロ以上超過していた。

運転手は連続勤務の途中で、睡眠時間は三時間に満たなかった。

会社は運行記録を書き換え、勤務時間を短く見せていた。

事故直前にブレーキが踏まれた形跡もなかった。


それでも、最初の報道で大きく扱われたのは、澪の信号無視だった。

二日目の記事では、運転手の過労が見出しから消えた。

一週間後には、会社の記録改竄が記事の末尾へ移った。

一か月後、澪の事故は交通安全特集の中で紹介された。

見出しは『一瞬のルール違反が奪った若い命』だった。


「事故じゃなくなったんです」


文江が言った。


「教材になったんです」


文江は古いビデオ映像を再生した。

事故現場近くで行われた街頭インタビューだった。

冬物のコートを着た中年女性が、少し困ったように笑っている。


『赤だったんでしょう』


女性は首を傾げた。


『だったら、まあ……仕方ないんじゃないですか』


映像が終わる直前、真帆は一時停止を求めた。

女性の背後に、黒い格子が映っていた。

道路には何もいない。

だが、格子は大型トラックのフロントグリルに似ていた。

その上に、二つの暗い円がある。

ヘッドライト。

文江は画面を見なかった。


「みんな、澪が事故に遭ったんじゃなくて、罰を受けたことにしたかったんです」

「なぜですか」


真帆が尋ねた。


「そのほうが安心できるから」


文江は答えた。


「自分はルールを守っている。だから、自分には起こらない。娘が何を考えていたか、運転手がどんな状態だったか、会社が何を隠したか。そんなことは関係なかった」


文江はファイルから一枚の紙を取り出した。

真帆は、そこに印刷された自分の名前を見つけた。

七年前に書いたウェブ記事だった。


『赤信号を渡った四人――塔ノ下交差点の怪異』


若いころの真帆が、初めて大きな閲覧数を得た記事だった。

遺族には取材していない。

警察資料とネット上の噂をまとめ、最後にこう書いていた。

四人はいずれも、自ら怪異の条件を満たしていた。

『最初に轢かれた佐伯澪の怨霊が、歩行者を轢き殺している可能性がある。』


「あなたの記事は、丁寧でした」


文江が言った。


「馬鹿にする言葉もなかった。だから、たくさんの人が信じたんでしょうね」


真帆は何も言えなかった。

文江は責める口調ではなかった。

そのことが、かえって苦しかった。


真帆は、切り取られた出来事の前後を拾うのが、自分の仕事だと思っていた。

だが、七年前の記事で拾ったのは怪異の条件だけだった。

澪という人間は、見出しの外へ置いたままだった。


「あれは澪じゃありません」


文江が言った。


「澪は、人を轢いて喜ぶような子じゃない」

「では、何だと思いますか」


文江は、街頭インタビューの女性を指した。


「澪の死体の周りで、“当然だ”と言った人たちです」


真帆は、七件の事故資料を年代順に並べた。

最初の事件では、被害者の損傷は小型トラックとの接触事故程度だった。


二件目。


三件目。


事件が掲示板や動画で話題になるにつれ、傷は重くなっている。


「これを」


文江が、赤い背表紙のファイルをテーブルへ開いた。

『記事のあとに起きたこと』

左の頁には、四件目の被害者を扱ったまとめ記事の印刷が貼られていた。

『また赤信号無視。学習しない人たち』

その見出しの下に、文江の細い字で数字が書き込まれている。

公開から三日で、五十万回。

右の頁には、その十一日後に起きた五件目の検死記録の写しがあった。

四件目までは中型車と推定されていた車重が、五件目では大型車両へ跳ね上がっていた。

文江は説明をしなかった。

ただ、頁をめくった。

六件目の左頁には心霊特番の視聴率が、七件目の左頁には実況スレッドの書き込み数が、同じ細い字で記録されていた。

右の頁の損傷は、そのたびに重くなっていた。

最近の被害者は、二十トン以上の大型車両に踏まれたように体が破壊されていた。

真帆は、事故映像の再生数を資料の横に書き加えた。

書きながら、指先が冷えた。

このファイルは、娘の反証の記録であると同時に、怪異の給油の記録でもあった。

数字が増えるたび、次のトラックは重くなっていた。


「鈴木」


真帆は振り返った。

鈴木はスマートフォンを見ていた。

画面には、自分たちのチャンネルが表示されている。

新しい動画が公開されていた。


『午前二時十三分、見えないトラックが来る――今夜、生配信』


「予告だけだ」


鈴木が言った。


「本編では、二本目までしか出ない。三本目には触れない」

「消して」

「俺たちが何も残さずに逃げたら、次の誰かが全部渡る。見える証拠があれば止められる」

「再生数も戻る」

「それもある」


鈴木は否定しなかった。


「仕事を失いたくない。証拠も残したい。どっちも本当だ」

「命を賭ける理由にはならない」

「賭けない。条件の外で撮る」


鈴木にとって、三本目の白線は怪異の口ではなかった。

安全と危険を分ける、測ることのできる境界だった。

そこを越えなければ、自分は事故の原因にはならない。

事故の原因にならなければ、事故は自分を選ばない。


その考えが、彼を安心させていた。

同時に、交差点へ戻らせようとしていた。


「もう予約が入ってる。千人以上待ってる」

「消して」


コメント欄が流れていた。


『本当に渡るの?』

『どうせ作り物』

『赤で出るほうが悪いだろ』

『自己責任で検証して』

『本物なら死ぬはず』


真帆が鈴木のスマートフォンを取ろうとしたとき、部屋の外から音がした。


カチ。


廊下には、車が通れるほどの幅はない。


カチ。


玄関の向こうは、小さな庭だった。

道路までは十メートル以上ある。


カチ。


文江が目を閉じた。


「もう、来ている」


◆六◆


文江の家を出たのは、午後五時過ぎだった。

二人は御影駅前のホテルへ戻り、そこで一時間以上言い争った。


真帆は企画の中止を決めた。

鈴木は、機材だけは回収すると言った。


「来ないなら、一人で行く」


その言葉が脅しではないとわかったから、真帆は車に乗った。

鈴木を手伝うためではなかった。

一人で交差点へ入らせないためだった。


それから二人は、深夜までほとんど言葉を交わさなかった。

午前一時過ぎ、鈴木が車の鍵を取った。


午前一時三十二分。


「配信は切る」


真帆は、塔ノ下交差点へ向かう車内で言った。


「現場で予約を解除する。機材も回収する。それで終わり」


鈴木は運転しながら前を見ていた。


「何も起きなかったら?」

「それでも終わり」

「起きたら?」

「なおさら終わり」


鈴木は答えなかった。


交差点へ着いたとき、カメラの赤いランプはすでに点灯していた。

文江の家を訪ねる前、鈴木が二度目の検証用として設置していた機材だった。

真帆がチャンネル側の予約を消しても、鈴木の配信機器に設定された自動開始までは止まっていなかった。


真帆のスマートフォンに通知が表示される。

視聴者数は三千を超えていた。


真帆は配信終了の操作をした。

画面は一度だけ暗くなり、すぐに同じ映像へ戻った。

鈴木が配信機器の主電源を抜いた。

それでも、交差点の四隅にある赤いランプは消えなかった。


「切れない」


鈴木が言った。


『来た』

『何時に渡る?』

『女のほうが行け』

『本当に車いないな』

『赤でも問題ないだろ』


午前二時十二分。

歩行者用信号がまだ青のうちに、鈴木は巻き尺で縁石からの距離を測った。

一・八メートル。

小型のワイヤレスマイクを、二本目の白線の手前へ置き、歩道へ戻った。


鈴木はカメラに向かって説明した。


「赤になったあと、二本目まで進みます。三本目には触れません。十秒だけ音を取り、同じ経路で戻る」

「やめて」


真帆が言った。


「これは飛び込みじゃない。条件の外からの検証だ」

「怪異の条件を、怪異が公平に守ると思ってるの?」

「ルールがあるなら、そこまでは守らせられる」


鈴木は白線を見た。

昼に測った距離。

記録した歩幅。

決めておいた停止位置。


仕事を続けるための映像。

次の犠牲者を止めるための証拠。

そして、世界には越えてはいけない線があり、その手前なら安全だと確かめること。


鈴木が危険を冒す理由は、一つではなかった。

どれも彼にとっては、本当だった。


午前二時十三分。

歩行者用信号が赤になった。


風が止まった。


二本目の手前へ置いたはずのマイクが動いた。

最初は数センチだった。

次に、何かに引かれたように白線を越えた。


三本目の直前で止まった。


「青になるまで待って」


真帆が言った。


「青になったら、現象が消える」

「消えていい」

「今、カメラの前で動いた。これが証拠だ」


鈴木が道路へ近づいた。

真帆は彼の腕をつかんだ。


「置いていく」

「二歩で届く。昼に測った」

「距離が同じだと思わないで」

「三本目の線には入らない」


鈴木は、真帆の手を外した。


「俺たちは条件を知ってる」


配信画面にコメントが流れる。


『行け』

『三歩だけ』

『車なんか来ない』

『ビビりすぎ』


鈴木は横断歩道へ足を出した。


一歩目。


遠くで鳴いていた犬の声が消えた。

閉鎖された倉庫の換気扇の音が消えた。

風も、電線の音も消えた。

真帆は「戻って」と叫んだ。


鈴木は振り返った。


「何?」


声が届くまでに、わずかな遅れがあった。


二歩目。


鈴木はマイクへ手を伸ばした。

届かない。

昼に測った一・八メートルは、もう存在していなかった。

鈴木とマイクの間には、十メートルほどの距離があるように見えた。


鈴木は進むのをやめた。

すぐに歩道へ戻ろうとした。


「真帆」


鈴木の声が震えた。


「歩道は、どこだ」


真帆は縁石のすぐそばに立っている。

だが、鈴木には、何十メートルも離れた場所にいるように見えていた。

鈴木は真帆へ向かって、一歩戻った。


三歩目。


戻ったはずの靴の下に、進行方向にあったはずの三本目の白線が現れた。

鈴木の靴底が、その白線へ触れた。


カチ。


方向指示器の音。

鈴木が振り返る。

道路には何もいない。


カチ。


二つの光が、鈴木の背後で灯った。

ヘッドライト。


しかし、光源となる車体は見えない。

アスファルトの小石が震え始めた。

道路脇の枯れ葉が、巨大なものの前面に押されるように左右へ分かれた。


カチ。


鈴木の影だけが変形した。

街灯とは逆方向へ、長く伸びる。

影は人間の形を失い、四角い荷台の下へ入り込んだように暗くなった。

エンジン音が近づく。

配信コメントが、スピーカーからではなく、道路の向こうから聞こえた。


「行け」

「赤だぞ」

「自分で渡った」

「自己責任」


鈴木は走り出した。

一歩進んでも、縁石へ近づかない。


二歩。


三歩。


白線だけが、彼の足元から新しく生まれ続けた。


「戻れない」


鈴木が言った。


その直後、右膝が後ろへ折れた。


乾いた音がした。

見えないバンパーが、鈴木の脚へ衝突していた。

鈴木の体が半歩ほど浮き上がる。

地面へ倒れる前に、左脚も折れた。

彼は両手を路面へ突き、這おうとした。

何も見えない空間から、低い回転音が迫った。

前輪が鈴木の右脚へ乗り上げた。

ズボンの布地が路面へ張り付き、中にあった脚の形がゆっくりと失われた。


鈴木は叫んだ。


声は途中で息に変わった。

次の瞬間、腰が地面へ固定された。

骨盤が押し広げられる鈍い音。

鈴木の上半身が反り返る。

腹部の圧力に耐えきれず、口と鼻から血が噴き出した。

血は路面へ落ちなかった。

空中の何かへ叩きつけられ、そこで横へ広がった。

赤い線が浮かぶ。


一本。


二本。


何本もの格子。

フロントグリル。

さらに血が上へ飛び、ボンネットの輪郭を描いた。


窓枠。

ドア。

荷台。


そこには、巨大なトラックがあった。


鈴木の血に濡れた部分だけが、夜の中へ浮かび上がっていた。

フロントガラスの内側に、運転手がいた。


骸骨だった。


頭蓋骨は正面を向いている。

両手は正しい位置でハンドルを握っていた。

胸骨を斜めに横切るように、シートベルトが締められている。

骸骨は笑っていなかった。

怒ってもいなかった。


ただ、車両用信号が青であることを確認し、まっすぐ前を見ていた。


赤い光が頭蓋骨の表面を通過した。

その一瞬、骨の上に人間の顔が浮かんだ。

街頭インタビューの女。

記事へコメントを書き込む若い男。

ニュースキャスター。

真帆。

そして鈴木自身。


「俺は、越えてない」


鈴木は、自分に言い聞かせるように言った。

後輪が胸へ乗り上げた。

胸郭がゆっくりと沈んだ。

骨が折れる音は、一度ではなかった。

小さな音が内側から連続し、最後に大きく一つ鳴った。

鈴木の口から出た血が、フロントガラスをさらに赤く染めた。

骸骨の顔がよく見えた。


眼窩の中には、目がなかった。

代わりに、小さな赤信号が二つ灯っていた。


トラックは減速しない。

車線も変えない。

次の車輪が、鈴木の肩を通過した。

その後ろにも車輪があった。


さらに、その後ろにも。

荷台の終わりは暗闇へ伸び、見えなくなっていた。


鈴木は顔だけを真帆のほうへ向けた。

まだ鈴木の意識はあった。

唇が動いた。


助けて。


声は聞こえなかった。

最後に見えた車輪が、鈴木の頭部へ近づいた。


骸骨はブレーキを踏まなかった。

音は、爆発のようには響かなかった。

濡れた陶器を、厚い布の中で割ったような、鈍く小さな音だった。


トラックはそのまま走り抜けた。


車体に付着していた血だけが、一斉に道路へ落ちた。

赤い輪郭が崩れ、トラックは見えなくなった。

鈴木の体だけが残された。


配信画面には、車両は映っていなかった。

鈴木が突然脚を折り、何もない道路の上で順番に押し潰される様子だけが流れていた。


コメント欄は止まらなかった。


『赤で出たんだから自業自得』

『仕込みにしてはやりすぎ』

『ルールくらい守れよ』

『こういう馬鹿が事故を起こす』


遠ざかるエンジン音の中から、鈴木の声が聞こえた。


「被害者側もゼロではないよな」


午前二時二十六分。


歩行者用信号が青へ変わった。

真帆は足元を見た。


ワイヤレスマイクは、二本目の白線の手前に置かれていた。

鈴木が青信号のうちに測って置いた場所から、一度も動いていなかった。


◆七◆


鈴木が死んでから、三日が過ぎた。


その三日間、真帆は警察署と病院とホテルを往復した。

警察は、鈴木の死を交通事故として処理した。

加害車両は不明。


現場にブレーキ痕はない。

車両の部品もない。

周辺カメラに、交差点へ進入した車両は記録されていない。


真帆は配信映像を削除した。

だが、すでに何百もの複製が作られていた。


鈴木が脚を折る瞬間だけを切り取った動画。

血が空中で四角く広がる場面を低速再生した動画。

頭部が車輪に踏まれた瞬間を拡大した動画。

どの映像からも、真帆が鈴木を止めていた場面は削られていた。


真帆は記事を書いた。

鈴木がなぜ二本目まで進もうとしたのか。

三本目へ向かったのではなく、戻ろうとして線を踏んだこと。

文江が残した資料。

瀬田拓也が伝えた言葉。

切り取られた映像の前後を、七千字かけて書いた。


ほとんど読まれなかった。


十一秒の事故映像だけが、記事の何百倍も再生された。

鈴木が生涯かけて画面の中へ証拠を残そうとしたように、人々は画面の中に映ったものだけで彼を決めた。


見出しには、同じ言葉が並んだ。


『怪談を試した配信者の末路』

『赤信号を無視した男に起きたこと』

『自業自得か、怪異か』


真帆は、事情を書く側にいれば、出来事を切り取りから守れると思っていた。

だが、長い説明は短い処罰に勝てなかった。


コメントは増え続けた。


再生数が十万を越えた夜、瀬田佳代から電話があった。


「赤いランプが、消えないんです」


電話の向こうで、医療機器の警告音が鳴っていた。

「看護師さんたちが、廊下の防火扉を閉めました。誰も入ってきません」


その後ろから、タイヤの音がした。


一度。


二度。


三度。


電話が切れたのは、午後十一時四十分だった。

真帆はすぐに佐伯文江へ連絡した。

応答はなかった。


文江の家を訪ねた。

玄関の鍵は開いていた。

テーブルの上に、短い書き置きが残されていた。


『澪の声がする』

『あれが澪でないなら、私が確かめる』


文江は、十八年間記録を残してきた。

その文江にとって、紙の外から聞こえた澪の声は、無視できるものではなかった。


真帆は塔ノ下交差点へ向かった。


午前二時十二分。

文江は、赤信号の前に立っていた。

コートも着ず、室内履きのままだった。


「佐伯さん」


真帆が呼びかけても、文江は振り返らなかった。

横断歩道の中央を見つめている。


「澪」


文江が呟いた。

真帆には何も見えなかった。

だが、横断歩道の中央から若い女の声がした。


「お母さん」


歩行者用信号が赤になる。


午前二時十三分。

文江が一歩を踏み出した。


「待って」


真帆は走った。

文江は二本目の白線を越えた。


「お母さん」


声は道路の中央から聞こえる。

文江が手を伸ばす。


その先に、アルバイトの制服を着た若い女の姿が一瞬だけ見えた。

片手に白い買い物袋を持っている。

袋の中に、丸い容器が二つ見えた。


顔は暗くて見えない。

三本目の白線。

真帆は文江の背中へ飛びついた。


全身で押す。


文江の体が歩道側へ倒れた。

その反動で、真帆の右足が三本目の白線を越えた。


カチ。


世界から音が消えた。

文江が何かを叫んでいる。

口は動いている。

声は聞こえない。

真帆と歩道の間には、わずか二メートルしかないはずだった。


だが、文江の姿は道路の果てにいるように小さかった。


真帆は戻ろうとした。

一歩進む。

歩道が遠ざかる。

背後からエンジン音がした。


カチ。

カチ。

カチ。


二つのヘッドライトが灯る。

今度は、血が付く前からトラックの姿が見えた。

黒い車体。

長すぎる荷台。

数えきれない車輪。

フロントガラスの内側に骸骨が座っている。

真帆は叫んだ。


「人を助けただけよ」


エンジン音の中から、声が返ってきた。

何百人もの、穏やかな声。


「事情は関係ない」

「違反は違反」

「理由があっても」


最後の言葉だけが、はっきりと聞こえた。


「でも、赤だ」


骸骨が車両用信号を見上げた。

車道の信号は青だった。

両手がハンドルを正しい位置で握り直す。

トラックが近づく。

真帆は横へ逃げようとした。

白線が足元で曲がり、どちらへ進んでも車線の中央へ戻された。

エンジンの振動が靴底から脚へ上がってくる。

排気ガスの臭い。

熱。

鉄の味。

フロントグリルが迫る。

その直前、真帆は車体の下を見た。

道路がなかった。

トラックの下には、別の横断歩道が続いていた。

暗闇の中へ伸びる、終わりのない白線。

無数の人間が、その上に倒れている。

瀬田拓也がいた。

病室にあるはずの体が、若いころの姿で横たわっている。

車輪が脚へ乗り上げる。

骨盤。

胸。

頭部。

車輪が通過すると、拓也の体はゆっくりと元の形へ戻った。

治ったのではない。

次の車輪に備えて、並べ直されたのだ。

鈴木がいた。

潰れた顔が元へ戻り、真帆を見た。


「戻れ」


鈴木が言った。

手を伸ばす。

その腕を、次の車輪が踏んだ。

皮膚と骨が路面へ薄く広がる。

車輪が過ぎる。

腕が再び生え、また真帆へ伸びた。


その奥に、若い女がいた。

ファミリーレストランの制服。

佐伯澪。


澪の手には、コンビニの袋が握られていた。

中には、プリンが二つ入っていた。

車輪が通るたび、容器が破れ、黄色い中身が路面へ広がった。

体が元へ戻ると、袋も、二つのプリンも、また澪の手の中へ戻った。


澪は、遠くにいる母親を見ていた。

口が動く。

お母さん。


声はエンジン音に飲み込まれた。


真帆は理解した。


あれは澪ではない。

運転しているものは、澪ではない。

澪は、誰より長く、その下にいた。

最初の犠牲者だから最初の加害者になったのではない。

最初の犠牲者だからこそ、最初から轢かれ続けていた。


フロントバンパーが真帆の膝へ触れた。

痛みより先に、骨が折れたことがわかった。

体が浮く。

路面が近づく。

真帆は両手を突いた。

指が白線の上で滑る。

前輪が足首を噛み、ゆっくりと登ってきた。

圧力が足首から上へ進んでくる。

体の内側にあるものが、逃げ場を探して押し上がる。


息が出ない。

叫ぼうとした。

クラクションが鳴った。

それが自分の声だと、真帆は気づいた。

現実の交差点では、数秒しか経っていなかった。


だが、一つ目の車輪が過ぎてから、次の車輪が来るまでに、真帆は長い時間を待った。

暗闇の中で、方向指示器だけが鳴っている。


カチ。


一年。


カチ。


十年。


カチ。


どれほど待っても、次の車輪は必ず来た。

胸郭がたわみ、内側で細かい音が続いた。

頭蓋がアスファルトへ縫い止められた。

意識が暗くなった。

それでも終わらなかった。

体が元へ戻る。


折れた骨が立ち上がり、潰れた内臓が内側へ収まり、失われた顔が再び形を持つ。

真帆は起き上がることができなかった。

次の車輪が、遠くから近づいていた。


◆八◆


事故の翌朝。

佐藤真帆は、御影市立総合医療センターへ搬送された。


両脚、骨盤、胸郭、頭部に重度の損傷。

自発呼吸はなく、意識反応も確認できない。

それでも心拍だけは維持されていた。


真帆のベッドが運び込まれたのは、北棟の四階だった。

いちばん奥の病室の、一つ手前。

ナースコールの赤い表示灯には、隣室と同じ白いテープが、最初から三重に貼られていた。

この階で使用される病室は、二つになった。


病室の医療機器に赤い警告灯が点くと、真帆の右足がわずかに動いた。

何かを踏み込もうとするような動きだった。


医師は反射と判断した。

ブレーキを踏もうとしているのではないかと、口にする者はいなかった。


ベッド脇には、佐伯文江が座っていた。

膝の上には、真帆の取材ノートがあった。


文江は、警察にも、医師にも、取材に来た記者にも、同じことを繰り返した。


「この人は、私を助けるために赤へ出たんです」


十八年前、文江は澪について同じように説明し続けた。

一つの違反が、一人の人間のすべてにならないように。


今度は、真帆の前後を残そうとしていた。


だが、鈴木と真帆の事故映像は拡散し続けた。

文江を助けるために真帆が横断歩道へ入った場面は、ほとんどの動画で削除されていた。


最も高く評価されたコメントには、こう書かれていた。


『理由が何であれ、赤は赤。自業自得だ』


その文章は、何万人もの目に読まれた。

読む者が増えるたび、どこかで低いエンジン音が重くなった。


翌日の午前二時十三分。


塔ノ下交差点に、一人の男が立っていた。

歩行者用信号は赤。


男のスマートフォンが震えた。

画面には、短いメッセージが表示されていた。


『病院から連絡があった。母さんが危ない。すぐ来て』


監視カメラには、画面の光しか映らない。

後から映像を見る者には、男が何を読んだのかわからない。


男は右を見た。

左を見た。


車は一台もいない。


信号制御盤には、古い交通安全のシールが残っていた。


ルールをまもれば、こわくない。


笑顔の人型は、何度も爪で引っかかれていた。

傷は以前より一本増えていた。


男は腕時計を確認した。

肩を一度強く上げ、息を吐いた。

監視映像だけを見れば、小さく肩をすくめたように見えた。


男は横断歩道へ踏み出す。


一歩。


二歩。


トラックの下で、真帆は男の足音を聞いた。


止まって。


真帆は叫んだ。

声は地上へ届かない。

方向指示器の音に変わる。


カチ。

カチ。

カチ。


病室で、真帆の右足が強く動いた。

ブレーキを踏もうとするように、シーツの下で何度も痙攣した。

医療機器の赤い警告灯が点滅した。


トラックの運転席では、骸骨の手に真帆の手が重なっていた。

体は、いまも車輪の下に並べられている。

それでも、手だけが運転席にあった。

轢く側の言葉を一度でも書いた者は、車輪の下からでも、ハンドルに手が届いてしまう。

真帆はハンドルを左へ切ろうとした。

骨の腕は動かなかった。


エンジンの中から、女の声がした。


「四人はいずれも、自ら怪異の条件を満たしていた」


七年前、真帆自身が書いた文章だった。


違う。


真帆は叫んだ。


あれは事実の全部ではない。


クラクションが鳴った。

それが、真帆の声だった。


男が三歩目を出した。


02:14:33


歩行者用信号の赤い人型が、一瞬だけ両腕を上げた。

内側からガラスを叩いているように見えた。


男は見間違いだと思った。


三本目の白線に、靴底が触れた。


骸骨は正面を向いたまま、アクセルを踏んだ。

トラックが交差点へ進入した。


歩行者用信号は赤だった。

車両用信号は青だった。

異界からトラックが曲がってくる。


塔ノ下交差点では、その夜も、すべてが規則どおりに作動していた。

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