金貨を無限に作る錬金術師を処刑したら国が即死するので、元中央銀行員の私は紙きれ一枚で物価を立て直すことにした
パン一個が、金貨千枚だという。
手押し車に金貨を山と積んだ男が、私の横を駆け抜けていった。あれで、夕食のスープが買えるかどうか。
市場の張り紙には、昨日まで八百枚とあった。値が、追いつかない。
黄金の国エルドラ。そう呼ばれた街は、いま静かに死にかけていた。
通りに座り込んでいるのは、物乞いではない。金貨を抱えた男たちだ。金はある。買うものがない。
「異邦の役人どのか」
声をかけてきたのは、財務をあずかる老臣だった。痩せた頬に、疲れがこびりついている。
「あなたが、噂の。前世とやらの知恵を持つ……」
「三好と、お呼びください」
私は頭を下げた。チートはない。魔法もない。私が前の世で握っていたのは、紙と数字と、信用のことわりだけだ。
前の世で、私は中央銀行にいた。国じゅうのお金の、大元を見張る役所だ。潰れかけた地方の銀行へ派遣され、臨時の窓口に立ったこともある。あの行列が、私に教えた。お金とは、信じる心で立っている。
その私が、なぜ、こんな異郷の街に立っているのか。きっかけは、ひとりの、くたびれた神さまだった。
◇◇◇
前の世の最後は、あっけなかった。ある朝、駅の階段で、ふいに目の前が暗くなった。心臓が、急に止まったらしい。働きづめの、ありふれた末路だった。
気がつくと、白い部屋の窓口に、座らされていた。
向かいにいたのは、ずれたとんがり帽子に、星柄のマントをまとった青年だった。目の下に、濃いクマ。手にした杖には、「MAGIC」と安っぽい金文字が躍っている。
「転生管理局、凡人枠担当のツクヨと申します」と、彼は丁寧に頭を下げた。「この衣装は、上層部の指定でして……どうか、突っ込まないでください」
彼は、分厚い台帳を、けだるそうにめくった。
「三好さま。前の世では、お金の番人を、なさっていましたね」
「ええ。地味な役所で」
「ちょうど、あなた向きの国が、空いております」と、ツクヨは疲れた顔で微笑んだ。「金貨があふれかえって、滅びかけている国です。……お金の壊れたところへは、お金の分かる人を送る。それが、私どもの、ささやかな親切でして」
「ひとつ、伺っても」
「どうぞ」
「こういうとき、剣か魔法か、途方もない力を授かるものだと、聞いております」
「ええ。それが、お約束でして」と、ツクヨは深くうなずいた。「本来なら、ここでドンと、チートをお付けするところです。竜を薙ぐとか、国をひとつ生むとか」
「では、私にも」
「それが、今期は、予算が」
「予算」
「神界も、台所は火の車でして」と、彼は声を落とした。「お恥ずかしい話、お金を司る部署が、いちばん、お金に困っております」
「お金の神さまが、お金に」
「そこは、どうか、突っ込まないでください」
ツクヨは、帽子のつばを、そっと下げた。
「お付けできるのは、あなたが前の世で握っていたもの。それきりです。剣も、魔法も、ございません。……ですが、ご安心を。派手な力ほど、早く錆びます。地味な方のほうが、いつも、いちばん長く根を張るのです」
そうして私は、この黄金の国へ、静かに落とされた。
前世の知恵を持つ異邦の役人が来た――その噂だけが、私より先に、飢えた国を駆けめぐっていたらしい。おかげで、財務をあずかる老臣のほうから、私を見つけてくれた。
◇◇◇
老臣の、しわがれた声で、私は我に返った。
「正直に申し上げます」と老臣は言った。「この国は、もう長くありません」
声が、震えていた。
「金は、唸るほどあるのです。蔵にも、民の手にも。なのに、誰も飢えを止められない」
「買えるものが、ないからです」と私は言った。
「そのとおり。麦も、塩も、薪も、店先から姿を消しました」
老臣は、深く息を吐いた。
「いや……蔵にはあるのです。商人の倉にも、農家の納屋にも。だが、誰も売ろうとしない」
「なぜです」
「今日受け取った金貨が、明日には値打ちを失うかもしれない。そんな金で、誰が大事な麦を手放しますか」
老臣は、私を見た。
「だから、あの男を吊るすのです。すべての元凶を」
あの男。黄金の救世主と呼ばれ、いまは罪人と呼ばれる、ひとりの錬金術師。名を、レオといった。
「会わせてください」と、私は言った。「責めるためでは、ありません」
「責めずに、何をなさる」
「まず、見ます」と私は答えた。「役人の仕事は、いつもそこから始まります」
◇◇◇
独房は、地下の奥にあった。
鉄格子の向こうに、痩せた少年がひとり、膝を抱えていた。十六か、十七か。陽に灼けたことのない、白い顔をしていた。
これが、国を傾けた救世主か。
レオ。その名が、胸の奥を、かすかに掻いた。前の世で、一度だけ聞いた響きだ。どこでだったか。――いや、いまは、いい。
「あんたも、俺を罵りに来たのか」
レオは顔も上げなかった。
「みんなそうだ。パンが買えないのは、お前のせいだって。……間違っちゃいない」
「いいえ」
私は、格子の前にしゃがんだ。彼と目の高さを合わせて。
「あなたの作った金を、見せていただきたいのです」
「見て、どうする」と、レオは吐き捨てた。「笑うのか。それとも、もっと作れって言うのか」
「どちらも、しません」
「役人なんて、みんな同じだ」
彼は、膝に顔を埋めた。
「来るやつ、来るやつ、口だけは立派だ。で、最後はこう言う。――もっと作れ、もっと配れって」
「私は、数を確かめに来ました」と私は言った。「それだけです」
しばらく、沈黙があった。
レオが、ゆっくりと顔を上げた。値踏みするような目で、私を見ていた。
「……変なやつだな、あんた」
彼は懐から、一枚の金貨を取り出した。汚れた手のなかで、それは不思議なほど澄んだ光を放っていた。
「これが、最初の一枚だ」
受け取って、私は息を呑んだ。
金貨の面に、小さな文字が刻まれている。花の名のような、やわらかな響き。
「……ニナ、と」
「妹だ」
レオの声が、急に幼くなった。
「死んだよ。飢えで。俺が十二の冬に」
私は、何も言わなかった。ただ、続きを待った。
「最後まで、パンが食いたいって言ってた」と、レオは言った。「でも、なくてさ。雪の日だった。俺、屋根の氷を舐めさせたんだ。せめて、口を湿らせてやりたくて」
彼の指が、金貨の縁をなぞった。
「あいつ、笑ったんだよ。冷たいねって。甘いねって。氷なのに、甘いって言ったんだ」
私の喉が、詰まった。
「だから誓った」と、レオは言った。「二度と、誰も飢えさせない。金を作れるなら、いくらでも作る。腹いっぱい食わせてやるって」
「それで、作り続けた」
「……ああ」
レオの声が、かすれた。
「作って、作って、配って。最初は、みんな泣いて喜んだ。神様だって、俺を拝んだ」
彼は、両手を見つめた。
「なのに、なんでだ。金は山ほどあるのに、みんな前より飢えてる。俺は、何を間違えた」
私は、答えなかった。
代わりに、手のなかの金貨をじっと見ていた。重い。本物の金の重さだ。けれど、指先に、かすかな違和感があった。
砂粒のような、ざらつき。
「なあ、答えてくれよ」と、レオが言った。
「いまは、まだ」と私は言った。「確かめてからにします。当てずっぽうで物を言うのは、役人の恥です」
◇◇◇
翌日から、私は金貨を調べた。
炉を借り、秤を据え、何十枚も並べて記録を取る。地味な作業だ。誰も手伝わない。役人とは、本来こういうものだ。
牢番が、あきれ顔で覗きにきた。
「あんた、金貨の山を前に、よく飽きないな」
「役人は、金貨を見ると、つい枚数を数えたくなるのです」と私は言った。「悲しい、さがでして」
三日目に、私は気づいた。
レオから遠い金ほど、軽い。
彼の独房に近い蔵の金貨は、磨きたてのように澄んでいる。だが、何度も人手を渡り、彼の元を遠く離れた金ほど、表面がざらついていた。
その夜、私は遠い街で集めた一枚を布の上に置いて、見張った。蝋燭の火を、ひとつ。
夜半を過ぎたころ、それは起きた。
金貨の縁が、さらさらと崩れた。金色の砂になって、布を滑り落ちていく。朝には、ひと握りの砂だけが残っていた。
私は、しばらく動けなかった。
貨幣数量説。金が増えれば、物の値は上がる。それは知っていた。だが、これは違う。もっと、おそろしい話だ。
この金は、レオの届く範囲でしか、形を保てない。
では、消えないものは、何だ。金属は崩れる。魔法も、いつか尽きる。ならば、時を超えて残るものは、いったい何だ。
その問いの底から、ふいに、遠い記憶が浮かんだ。
前の世で一度だけ、ハワイへ出張したことがある。国際会議の帰り、半日だけ足を伸ばした、古い漁村でのことだ。年老いた漁師が、別れぎわ、私にひとつの言葉を教えてくれた。「レオ」。あの島の古い言葉で、それは「声」を意味するという。ただの音ではない。口にした以上は、守り抜く。その人の言葉。交わした、約束。人と人のあいだにだけ結ばれる、消えない結び目を、島の人はそう呼んでいた。
私は、独房の少年の名を、思い返した。
偶然だ。あの子の親が、遠い島の言葉を知るはずもない。それでも――金の救世主と呼ばれた少年が、よりにもよって「約束」という名を負っている。
金では、この国は救えない。救えるのは、約束だけだ。少年の名が、そう告げている気がした。
◇◇◇
「レオの作った金は、本物ではありません」
王の間で、私は報告した。ざわめきが起きる。
「時が経てば、砂に還ります。すべて。例外なく」
「ならば、なおさら処刑だ」と、誰かが叫んだ。「偽の金で国を欺いた。死罪は当然」
「そうだ、吊るせ」と、別の声が続いた。「民の怒りは、もう抑えられん」
「お待ちください」
私は、卓に調べた数字を並べた。一語ずつ、置くように続ける。
「あの金は、レオの力が届くあいだだけ、形を保ちます。レオは、知らぬまに、自分の作った金へ、力を送り続けているのです」
私は、指で卓に線を引いた。
「近い金ほど濃く、遠い金ほど薄い。だから、遠い金から崩れる」
私は王を見据えた。
「彼の命が尽きれば、その糸は、一斉に切れます。国じゅうに出回るレオの金が、その日のうちに、砂へ還る」
間を置いた。
「いま市場に流れる金の、九割がレオの金。商人の蓄えも、蔵の財も、明日のパン代も。すべて消えます。この国は、即死します」
王の顔が、青ざめた。
「では、どうしろと」と、王は言った。「あの男を生かせば、いずれ国は腐る。殺せば、その日に死ぬ。我らは、詰んでおるのか」
「いいえ」と私は言った。「猶予は、あります。その猶予で、別のものに乗り換えるのです」
「別の、もの」
「彼は、罪人ではありません」
静まりかえった王の間に、私の声だけが響いた。
「いまのこの国の信用を、その身ひとつで支える――最後の支柱なのです」
王は、長いあいだ黙っていた。
それから、低く言った。
「……試す時を、与えよう。だが、長くは待てぬ」
◇◇◇
処刑は、止まった。
ただし、自由になったわけではない。レオは独房から、監視つきの作業部屋へ移された。
けれど、それは猶予にすぎない。砂になる金で、国は買えない。時間との戦いが、始まっていた。
私は、その作業部屋に通った。今度は、解決のために。
「あんた、俺を助けようとしてるのか」
レオが、信じられないという顔をした。
「みんな、俺を吊るしたがってるのに」
「助けるのは、あなたではありません」と、私は言った。「この国の、明日のパンです。そのために、あなたの手を借ります」
「……俺に、何ができる」
「もう一度、錬金してください。崩れない、本物の金を」
レオの目に、光が戻った。
「できる。今度こそ、ちゃんと作る」と、彼は言った。「失敗したのは、急いでたからだ。落ち着いてやれば、崩れない金が――」
彼は両手をかざした。空中で、金属が渦を巻く。光が集まり、一枚の金貨が生まれる。見事な錬成だった。
「ほら、見ろよ。これは消えない。今度こそ――」
言い終わらぬうちに、彼の手のひらから、さらさらと音がした。
砂が、こぼれ落ちていく。
「……なんで」
レオは、もう一枚作った。また砂になった。
三枚、四枚。作る端から、砂に還る。
「なんでだよ!」
レオが、できたばかりの金貨を壁に叩きつけた。砕けて、砂になって、足もとに散らばる。彼はそこに膝をついて、両手で砂をすくった。指のあいだから、こぼれていく。
「消えるんだ。何を作っても。俺の作るものは、ぜんぶ……」
その背中を、私はしばらく見ていた。
国じゅうに出回ったレオの金を支えるだけで、彼の力は、もう限界に近い。新しく生まれた金貨に結ぶ糸は、もう残っていないのだ。
それから、静かに言った。
「消えない価値は、金属では作れません」
レオが、振り向いた。
「どういう、意味だ」
「あなたの力は、本物です」と私は言った。「ただ、その力で作れるのは、金属だけなのです。金属には、寿命がある」
「じゃあ、何なら消えないんだよ」
「それは、ひとつしかないのです」と私は言った。「みんなが信じる、という約束。人と人のあいだにしかない、信用というものだけが――時を超えます」
「信用なんて……目に見えない」と、レオは言った。「触れもしない。重さもない」
「ええ。だから、私のような者が要る」
私は、机に一枚の紙を置いた。何も書かれていない、ただの紙だ。
「これに価値を持たせます。この紙でしか税を納められない、と国が定める。だから、みんながこれを欲しがる。だから、これでパンが買える」
レオは、紙を見て、私を見た。
「そんな、紙きれが……金より重いってのか」
「人が信じれば」と、私は言った。
「人なんて、信じられるかよ」と、レオは言った。「あいつら、昨日まで俺を拝んでた。今日は、俺を吊るしたがってる」
「ええ。人は、移ろいます」と私は言った。「だから、ひとりの心には託しません。みんなの心に、託すのです。税という、約束の杭を一本打って」
レオは、しばらく黙っていた。
それから、私を見て、ぽつりと言った。
「あんた、前は何をやってたんだ。その、前世ってやつで」
「中央銀行に、おりました」と私は言った。「国じゅうのお金の、大元を見張る役所です」
「ふうん。偉いんだな」
「いいえ。地味な役所です」と私は言った。「一度、潰れかけた地方の銀行へ、派遣されました。みんなが、預けた金を返せと、列をなして押し寄せていた」
私は、当時を思い出した。
「朝から晩まで、私は頭を下げ続けました。大丈夫です、お返しします、と。一人ずつ、目を見て。――嘘ではなかった。金は、ちゃんとあったのです」
「なら、なんで列ができたんだ」
「みんなが、信じられなくなったからです」と私は言った。「金があっても、信用がなくなれば、行列はできる。信用さえあれば、金が見えなくても、誰も慌てない」
私は、紙を指で押さえた。
「あの行列が、私に教えました。お金とは、金属ではない。信じる心の、別の名なのだと」
「……それで、頭を下げ続けたのか」と、レオは言った。「一日中」
「ええ。それで、列は止まりました。銀行は、生き延びた」
私は、少し黙った。
「ただ――ひとりだけ、間に合いませんでした」
レオが、顔を上げた。
「列の、いちばん後ろにいた老婆でした。私は、その人にも言ったのです。大丈夫です、と。……その夜、あの人は、家を失いました」
「金は、なかったのか」
「ありました。制度も、ありました」と私は言った。「ただ、届くのが、遅かった。それだけです」
私は、顔を上げた。
「だから、私は急ぎます。数えるのは地味だが、遅れれば、人が死ぬ。あなたが、妹さんを喪ったように」
レオは、何も言わなかった。ただ、私の顔を、長いこと見ていた。
「作る者がいて、数える者がいます」と私は言った。「あなたは、作った。これからは、私が数えます」
「数えるだけで、国が立つのか」
「数えることが、いちばん難しいのです」と私は言った。「作るのは、力さえあればいい。数えるのは、信じてもらわねば、できません」
◇◇◇
ここからは、時間との戦いだった。
レオの金は、裏づけではない。時間稼ぎだった。
砂に還る前に、人々の手を、新しい約束へ移す。そのための、短い橋だった。
私は不眠で働いた。
新通貨の発行量を、人口と物の量から割り出す。そして、紙だけを刷ったのではない。
王城の麦倉を開かせた。港の商人には、新札で払う買付証を出した。飢えた家には、金ではなく、パン券を配った。
市場に流す紙の量と、明日焼けるパンの数を、同じ机の上で数えた。
机に向かう私の肩を、レオが揺すった。
「もっと刷れよ。たくさん配れば、みんな腹いっぱいだ」
「いいえ」
私は、手を止めなかった。
「増やせば、また値が上がります。前と、同じです。お金は、配るほど軽くなる」
「でも、足りてないやつがいる」と、レオは言った。「今日も、路地で子どもが泣いてた。腹が減ったって」
私は、ペンを置いた。
「分かります。私も、配ってやりたい」と私は言った。「でも、それをやれば、明日、その子のパンが、二倍の値になります」
レオが、口をつぐんだ。
「やさしさは、足し算ではありません」と私は言った。「ちょうどの数だけ刷る。それを見極めるのが、数える者の仕事です」
「……難しいんだな」と、レオは言った。「ただ作るより、ずっと」
それから、彼は、少しだけ意地悪な顔をした。
「なあ、三好。あんた、友だち、いないだろ」
「……失礼な。二人ほど、おりました」と私は言った。「前の世に」
「二人か」
「ええ。数えられる程度には」
レオが、噴き出した。年相応の、幼い笑い方だった。この国に来て、はじめて見る顔だった。
◇◇◇
新通貨と古い金貨の交換所を、街じゅうに置いた。崩れる前の金を、確かな紙に換える。新しいお金への、引っ越しだ。
最初は、誰も信じなかった。
「こんな紙きれ……」
市場の女が、新札を突き返した。
「金貨のほうが、よっぽど確かじゃないか。重みがある。光ってる。紙なんて、火がつきゃ消える」
「その金貨も、いずれ消えます」と私は言った。
「馬鹿言うんじゃないよ」
彼女は、笑って行ってしまった。
◇◇◇
それでも、レオは、こらえきれなかった。
ある晩、レオは支援用に預けられていた新札を、予定より多く、路地の子どもたちに渡してしまった。
翌朝、その界隈のパンが、二倍の値をつけていた。
商人が、売り惜しみを始めたのだ。札がだぶつけば、もっと高く売れる。
レオが、青い顔で私のところへ来た。
「三好。俺、また……やっちまった」
「知っています」と私は言った。
「配ったら、値が上がった。俺の……優しさは、また、誰かのパンを奪うのか」
私は、うなずいた。
「はい。でも、あなたはいま、自分の目で、見た」と私は言った。「だから、もう大丈夫です」
レオは、長いあいだ、黙っていた。
◇◇◇
潮目が変わったのは、王が布告を出した日だった。
「税は、この新札でしか納められぬ」
その朝、いちばん先に交換所へ走ってきたのは、太った商人だった。
「税を払わなきゃ、店を畳むことになる」と、彼は息を切らした。「この紙が要る。金貨は、もう要らん」
「ほう。昨日は、紙きれと笑っていたな」と、係の者が言った。
「背に腹は代えられん。税は、待っちゃくれん」
「税ってのは、たいした先生だ」と、係の者がつぶやいた。「役人が百ぺん頭を下げても動かん者を、たった一枚の布告で、走らせちまう」
彼は、麻袋いっぱいの金貨を、新札の束に換えた。
そして、店に戻ると、客にこう言った。
「うちは、これで払ってくれ。これでないと、困るんだ」
「金貨じゃ、駄目なのかい」と、客が言った。
「金貨は、税に使えん。俺が困る。だから、これで頼む」
その紙で税が払える。だから商人が欲しがる。だから、市場がそれを受け取る。
連鎖は、静かに広がった。蔵の麦が、店先に戻りはじめた。
例の市場の女も、いつのまにか新札を受け取っていた。
「あんた、前は突き返してたじゃないか」と、隣の店が言った。
「みんなが受け取るからさ。これで、麦が買える。金貨じゃ、もう誰も売っちゃくれない」
その帰り、彼女は、私を見つけて、ばつが悪そうに新札をひらひらと振ってみせた。
「役人さん。あんたの紙きれ、火はつけずに、とっといたよ」
「それが、いちばんの使い道です」と、私は頭を下げた。
ある朝、パン屋が、新札を一枚受け取った。
「……一斤で、これ一枚だ」
金貨千枚ではなく、紙一枚で。パンが、買えた。
「ずいぶん、安くなったもんだ」と、客が言った。
「安くなったんじゃない」と、パン屋は言った。「正気に、戻ったんだ」
その日、街の支払いのほとんどが、新札に変わっていた。
◇◇◇
その夜、私はレオの作業部屋に、最初の一枚を持って行った。妹の名を刻んだ、あの金貨を。
「これも、いずれ砂になります」と、私は言った。「あなたの力が尽きれば。例外は、ありません」
レオは、震える指でそれを受け取った。
「……ニナ」
「手放したく、ないでしょう」と私は言った。
「これだけは、残したかった」と、レオは言った。「他のは、ぜんぶ消えていい。でも、これは……あいつの名前が、刻んであるんだ」
「分かります」と私は言った。
私は、彼の隣に座った。
「だから、砂になる前に、意味だけを移します」
「意味……?」
「新しいお金に、刻むのです」
私は、刷り上がったばかりの新通貨を、一枚取り出した。紙の隅に、小さな活字を彫る場所がある。
「この紙の信用が、どこから始まったのか。それを、書き記します」と私は言った。「――ひとりの少年が、妹のために誓った約束から、このお金は始まった、と」
「俺の、誓いが」と、レオは言った。「こんな紙に、残るのか」
「残ります」と私は言った。「金属より、ずっと長く」
私は、ニナの金貨をかたわらに置き、由来を写し取った。一字ずつ、確かめながら。
書き終えて、私は新しいお金を、レオの手に乗せた。
レオは、片手にニナの金貨を、もう片手に紙を持った。
軽い紙だ。金の重みなど、どこにもない。
彼は、隅に刻まれた文字を、指でなぞった。
そして、言った。
「これは……金じゃない」
声が、震えていた。
「なのに……俺の作ったどの金より、重いな」
◇◇◇
次の日、レオが、私の前で、両手を下ろした。
「もう、錬金はしない」と、彼は言った。「古い金に、力を送るのを、やめる。……あれは、嘘だったから」
「止められるのですか」と、私は訊いた。「あなたも、知らぬまに送っていた力です」
「見えちまったからな」と、レオは言った。「知らずに握ってた手綱でも、見えちまえば、放せる。あんたが、数えて、見せてくれたから」
「いいのですか」と私は続けた。「あなたの作った、最初の世界が、消えます」
「いいんだ」と、レオは言った。「嘘で腹は、ふくれない。それが、やっと分かった」
彼は、手のなかのニナの金貨を、見た。
「これも、連れて行かせる。もう、砂でいい。……意味は、あんたが、残してくれたから」
その瞬間、レオの手から生まれた黄金が、一斉に砂へ還りはじめた。
蔵に積まれたレオの金貨が、崩れた。豪商の首飾りが、祭りのために作られた王冠の飾りが、さらさらと、金色の砂になって、風に乗った。
レオの手のなかで、ニナの金貨も、さらりと崩れた。
彼は、追わなかった。ただ、こぼれていく金色を、最後まで見ていた。妹を、見送るように。
手のひらには、砂も、残らなかった。
ただ、新しいお金が、一枚。
けれど、人々は飢えなかった。
手のなかには、紙があった。すり切れた、けれど確かな一枚が。それでパンが買えると、もう誰もが知っていた。
砂は、嘆きではなかった。古い嘘が消えて、新しい約束が残った。ただ、それだけのことだった。
妹の願いは、無限の黄金にはならなかった。たった一枚の、約束になった。
◇◇◇
レオの黄金は、消えた。
むろん、混乱がなかったわけではない。
両替に間に合わなかった者、最後まで金貨を手放さなかった者は、朝、寝床のかたわらに、ひと山の砂を見つけた。市場は、幾日か騒然とした。蔵を開けて、頭を抱える金貸しもいた。
それでも、大半の民は、すでに手のなかの金を、紙へ移し終えていた。街じゅうの交換所の行列が、ぎりぎりで間に合わせたのだ。
そして――金貨の山を抱えたまま、パン一個買えなかったあの日々に比べれば、ずっとよかった。砂を惜しむ声よりも、今日は食べられる、という声のほうが、大きかった。国は、傾いたまま、それでも倒れなかった。
いまレオは、交換所の片隅にいる。錬金術は、もう使わない。崩れないものは術では作れないと、彼が一番よく知っているから。
彼は毎日、新しいお金の数を、黙ってかぞえている。一枚、また一枚。指先で、約束を確かめるように。
いつだったか、彼に、打ち明けたことがある。
「あなたの名は――前の世の、遠い島の言葉で、『声』を意味するんです。口にした以上は、守り抜く。交わした約束、という意味の」
レオが、目をまるくした。
「この国を立て直す道を思いついたのは、あの晩、あなたの名を思い出したからでした。あなたのおかげですよ」
レオは、しばらく黙って、それから、ふっと笑った。
「顔も覚えてない親父とお袋が、いいもん、残してくれたんだな」
「ええ。いちばん、確かなものを」と、私は言った。
ふと、思うことがある。
あのくたびれた神さまは、いまごろ、どこかの窓口で、また誰かの台帳を、めくっているのだろうか。目の下のクマを、さらに濃くしながら。
次こそ、予算が下りるといい。派手なチートの、ひとつくらい。
いや――きっとまた、いちばん地味な力を、いちばん似合う誰かに、そっと手渡すのだろう。あの人は、そういう神さまだ。
「なあ、三好」と、ある日、彼が言った。「数えるのって、退屈だな」
「退屈ですよ」と私は言った。
「でも、腹はふくれるんだな。みんなの」
「ええ。そのための退屈です」
その背中を、私は隣で見ている。
数える者の仕事は、地味だ。けれど、明日のパンは、ここで支えられている。
それで、よかった。
(了)
お読みいただき、ありがとうございました。える・あーるです。
この話は、財布のなかの千円札を眺めていて、ふと怖くなったところから始まりました。
これ、ただの紙だよな、と。
原価は数十円。燃えれば灰。なのに、これでパンが買えます。誰もが、明日もこの紙に値打ちがあると、疑いもせずに信じている。
考えてみれば、すごいことだと思うのです。人類最大の魔法は、ファイアボールではなく、たぶんお金です。しかもその魔法は、竜を倒した勇者ではなく、名前も知らない無数の人たちの「信じる」で、今日も維持されている。
レオは、妹のために金を作りました。
三好は、間に合わなかった誰かのために、数え続けます。
派手な力は、いつか錆びます。でも、約束は――ちゃんと数えて、ちゃんと守れば、金属より長く残る。
そういう話が書きたくて、この短編を書きました。
あなたの財布のなかの一枚も、もとをたどれば、誰かの誓いから始まった約束かもしれません。今日それでパンが買えたなら、世界は今日も、約束を守ったということです。
ちなみに冒頭の窓口で、目の下のクマを濃くしていたツクヨは、「凡人枠」シリーズの常連です。今日もどこかの窓口で、予算のつかない台帳をめくっています。
★評価や感想をいただけると、数える者の退屈な毎日が、少しだけ報われます。
それでは――良いお買い物を。




