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死にたがりの聖女は、冷徹公爵に死ぬほど愛される 〜自爆特攻で現代に帰るつもりだったのに、なぜか救国の英雄として執着されています〜  作者: 九十九 文


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第3話 氷の公爵の融解



一週間が経った。


 エリカはまだ公爵邸にいた。帰れていない。日本にも異世界にも——否、異世界にはいるが、公爵邸から出られていないという意味で。


 死に場所の開拓は、現状ゼロ進捗だった。


(どうしてこんなことに……)


 バルコニーの椅子に座りながら、エリカはこの一週間を振り返った。


 暗殺者は懐いてしまい、毒は効かず、危険な場所に行こうとするたびに公爵か護衛に気づかれて阻止される。しかも護衛は一流の使い手ばかりで、むしろエリカが邸内を歩き回るたびに安全確保が強化されていく。


(完全にスパイラルが逆方向ですよ。死もうとすれば守られ、守られれば評価が上がり、評価が上がれば護衛が増える)


 頭を抱えていると、背後から足音がした。


「起きていたのか」


 キリアスだった。今日は珍しく、軍服ではなく濃紺のシャツ姿だ。肩の力が少し抜けた、私的な装いだった。


「眠れなくて。公爵こそ、こんな夜中に」


「少し、空気を吸おうと思って」


 キリアスはエリカの隣に腰を下ろした。夜の北の風は冷たく、星が無数に広がっている。


 しばらく沈黙が続いた。


(今日はどこか様子が違うな、この人)


 エリカは横目でキリアスを窺った。視線は星に向けられているが、どこか遠くを見ているような、泳ぐような目をしている。


「何かあったんですか?」


「……何が」


「顔が、いつもより疲れてますよ」


 キリアスは少しの間黙った後、静かに口を開いた。


「今日、昔の副官の命日だった」


「……そうですか」


「十二年前のことだ。私がまだ十五の頃、北の国境で戦があった。そのとき、私を庇って死んだ男がいた」


 エリカは静かに聞いていた。


(帰りたいとか死に場所とか、今はどうでもいい気がする。……いや、よくないんですが。ただ、聞かなきゃいけない気がする)


「ディームというやつで、豪快で豪放磊落な男だった。北の荒くれ者どもを束ね上げ、私を鍛え、戦場での判断を教えてくれた。あの男がいなければ今の私はない」


「どんな人でしたか」


「飯を大量に食うやつだった」


 意外な回答に、エリカは思わず笑いそうになった。


「食べることが一番の楽しみで、戦が終わったら港町に行って魚介を腹いっぱい食うのが夢だと言っていた。とうとう行けなかったが」


「……そうですか」


「守れなかった」


 キリアスの声は低かった。しかし静かで、感情を抑え込んだような静けさではなく、もう何度も繰り返した問いを、改めて口にしているような、そういう静けさだった。


「十五のガキが守ろうとしても無理だったかもしれない。あの状況では。それはわかっている。だが……あいつが死んで、私は変わった。感情を切って、判断だけで動くようになった。そうしなければ、また誰かを失う気がして」


 エリカは星を見上げながら、ゆっくりと言った。


「ディームさんは、あなたに感情を切り捨てた人間になってほしかったんですかね」


 キリアスが顔を向けた。


「……どういう意味だ」


「わからないですけど。誰かのために死ねる人って、その誰かに、ずっと笑っていてほしいんじゃないかなって。冷たくなってほしいわけじゃなくて」


 沈黙が落ちた。


 エリカとしては、特に深く考えたわけではなかった。ただ思ったことを言っただけだ。しかし言ってから、少し余計なことを言いすぎたかと思った。


(すみません、出過ぎた真似を……)


「……そうかもしれない」


 公爵の声は、かすかに揺れていた。


「あいつなら、確かに、そう言うかもしれない。「お前は飯を美味そうに食えるやつになれ」とでも言いながら」


 エリカは微かに笑った。


「素敵な人だったんですね」


「ああ」


 キリアスは目を閉じた。十二年分の記憶が、夜風に乗って流れていくように。


 そして目を開けたとき、その金色の瞳は、何かが変わっていた。


 エリカへ向けられた視線が、これまでとは違う質を帯びていた。護衛すべき存在を見る目でもなく、崇敬すべき聖女を見る目でもなく——もっと、ずっと、近いところから見る目。


「エリカ殿」


「はい」


「一つ、聞いていいか」


「どうぞ」


「なぜ、あなたはそれほど死を恐れないのだ」


 エリカは固まった。


(来たこの質問。どう答えますか。「帰りたいからです」は言えない。「死んでも帰れるという神の宣告があるんで」も重すぎる)


「……えっと」


「毒を飲んでも、刃を向けられても、魔物の前に立っても。あなたは一度も怯えた顔をしなかった」


(怯えてないんじゃなくて、死に場所を探してただけなんですが)


「怖くないのか? 本当に」


「……怖いですよ。痛いのは嫌だし」


「では、なぜ」


 エリカはしばらく考えた。


「なんか……帰るべき場所がある気がするんです。だからここで終わりじゃないって、どこかで信じてるのかもしれない」


 これは嘘ではなかった。ただ、「帰るべき場所」がキリアスの思う意味とはまったく違う場所だというだけで。


 しかしキリアスには、その言葉が全く別の意味に届いた。


(帰るべき場所がある——それは、誰かのそばに、ということではないのか?)


「あなたは……」


 公爵の声が、低く、しかし熱を帯びた。


「孤独でないのだな。心の中に、確かなものを持っている」


「まあ……そうですね」


(カレーうどんというか。帰ればなんとかなるというか)


「私にはそれがなかった。ずっと」


 エリカは公爵の横顔を見た。


 整った輪郭が夜の星明かりに浮かんでいる。強くて硬い顔のはずなのに、今夜だけは、どこか少年のような脆さが滲んでいた。


「……今はどうですか」


 エリカが何気なく聞くと、キリアスは少し間を置いてから言った。


「今は、ある」


 その答えが自分に向けられているとは、エリカは気づかなかった。


 翌朝、公爵邸の使用人の間で密かに噂が広まった。公爵様が昨夜、珍しく穏やかな顔で眠っておられた、と。


 エリカはそんなことを知る由もなく、朝食の目玉焼きを見ながら「今日こそ死に場所を開拓します」と心の中で拳を握っていた。


(きっと外に出る機会を作れる。王都に行く用事でも作ればいい。王都なら魔物が出る可能性もあるし、もっと危険な状況に持ち込めるかもしれない)


 しかし食堂に降りてきたキリアスが開口一番に言ったのは、「今朝は一緒に街を歩かないか」だった。


 エリカは一瞬固まってから、「……いいですね」と答えた。


(街ならむしろ都合がいい。何か危ない目に遭える可能性がある)


 ところが街歩きはまるでデートのような様相を呈してしまい、エリカが危険なものに近づこうとするたびにキリアスにさりげなくエスコートされ、気づけば市場でホットチョコレートを飲んでいた。


(全然死に場所が見つかりません!!)


 ただ、キリアスが見せた笑顔が、昨夜より一つ多かった気がして。


 エリカはそのことを、どうにも振り払えなかった。

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