第2話 すれ違う献身
公爵邸というものは、本当に死ににくい場所だと、エリカは三日目に気がついた。
建物は堅牢で、魔物が出るような場所もなく、使用人は全員礼儀正しく、危険なものが何一つない。強いて言えば刃物が台所にあるが、それで自分を傷つけても聖女の回復力でどうせ瞬時に治ってしまう。
(困った。完全な安全地帯に軟禁されてしまいました)
と言っても、公爵は別に監禁しているわけではない。「ゆっくり静養してほしい」と部屋を用意してくれただけだ。むしろ気遣いが細やかで、食事は豪華で、本棚には娯楽書が並べてある。
問題は、そんな居心地の良い空間の中で、エリカの「帰りたい」メーターが急上昇しているという点だ。
(居心地が良すぎると、逆に帰れない気がしてくる。これは罠だ。籠の鳥戦略ですよ)
エリカは朝食の卓の前で、銀製のカトラリーを手に、真剣な表情でリスクを分析していた。
そこへ、公爵が入室してきた。
「おはよう、エリカ殿。今朝の調子は?」
「おはようございます。すこぶる元気です」
(あなたに心配されると困るんですよね。なんか、守ろうとしてくるから)
キリアスは向かいの席に座り、食事を始めた。普段は執務があるため朝食は執務室で取ると使用人から聞いていたのに、ここ三日、毎朝食堂に現れる。
(完全にわたしを見張っていますよね。なぜそんなに察しがいいんですか)
と思いながらエリカがスープに口をつけたとき、ふと気づいた。
(このスープ……なんか変な味がしませんか?)
表情には出さず、舌の上で転がす。ほんのわずかに、花のような甘さの奥に苦みがある。
(あっ。もしかしてこれ、毒入りじゃないですか)
心臓が跳ねた。今度は嬉しい方向で。
(誰かが公爵を狙って毒を盛ったんですね! ということは、このスープを全部飲み干せば——)
エリカは素早く公爵のカップを見た。まだ口をつけていない。
(よしっ。公爵の分まで飲んで死ぬ。完璧な自己犠牲プランです)
「あの、公爵。そのスープは、わたしが……」
「どうした?」
「いただいていいですか。とても美味しくて、もう一杯欲しいくらいで」
エリカは公爵のカップを自分の前に引き寄せ、一気に飲み干した。
次の瞬間、喉の奥で何かが反応した。——ああ、やっぱり毒だ。しかも、かなり強力な。
全身に痺れが広がろうとして、
消えた。
(……え?)
浄化魔法が、自動発動した。体内の毒素を感知して、反射的に無効化してしまったらしい。
(なんでそんな、自動でやってくれるんですか! 余計なことしないでほしいです!)
エリカは恨みがましく自分の体を見下ろした。
一方のキリアスは、口元に拳を当て、静かに俯いていた。
「……エリカ殿」
「はい」
「今のは、わかっていてやったのか」
「え?」
「スープに、毒が混入していた。検知魔法で今確認した」
(バレましたか)
「あなたは、私が口にする前に、それに気づいて……」
「あ、ええ、まあ……」
「私の代わりに飲んだのか」
エリカは内心「違うそうじゃない」と悲鳴を上げながら、表情には出さずに「……そういうことになりますかね」と答えた。
キリアスの金色の目が、複雑な光を湛えた。
「なぜ、そこまでする」
「大したことじゃ……」
「大したことだ」
公爵の声は低く、震えを帯びていた。
「毒を、自ら飲んだのだぞ。あなたは」
(だから帰れると思ったんですが、またしても帰れなかったんですけどね)
「聖女の体質で大丈夫でしたから。お気になさらず」
「お気になさらず、などと——」
キリアスは立ち上がり、エリカの前に歩み寄った。そして片膝をついて、目線を合わせた。整った顔が、間近にある。
(近い近い近い)
「……あなたの体を大事にしてくれ」
「は、はあ」
「あなたが傷つくことを、私は望まない」
その言葉は、驚くほど真剣だった。嘘偽りが一切なかった。
(あなたが望もうと望まなかろうと、わたしは帰るんですが)
とは言えず、エリカは無難に「ありがとうございます」と頷いた。
その夜、毒を盛った犯人が捕まった。公爵派の政敵から雇われた料理人の一人で、本来のターゲットはキリアスだったらしい。
しかしエリカにとって本当に厄介だったのは、その翌日に起きた出来事だった。
邸の庭を散歩していたエリカは、茂みの向こうに人影を見つけた。黒ずくめの服装、腰に剣、明らかに暗殺者の類だった。
(来た! 暗殺者だ! これは公爵を狙っているはず! 公爵より先に対峙して、刺してもらえば——)
エリカはひそかにガッツポーズし、颯爽と茂みへ向かった。
「あの、もしかして人を探してますか」
暗殺者の男は、声をかけられた瞬間、目を丸くして剣を抜いた。
「お前は……聖女か?」
「そうです。公爵を探しているなら場所を教えますよ。あ、でもその前に少しだけ時間いいですか」
男は剣を構えながら、明らかに困惑した様子を見せた。
「なんで逃げない」
「逃げる理由がないので」
(むしろ、来てほしいくらいなんですよね。というか刺してください。すごくお願いしたいんですが)
男はじりじりと間合いを詰めながら、しかしエリカが一歩も引かないのを見て、奇妙な表情になった。
「……怖くないのか」
「はい、全然」
(死にたいと思っている人間に、死をちらつかせても怖くないのは当然です)
「なんで、そんなに……」
「どうしてあなたは暗殺者になったんですか」
エリカが唐突に問うと、男の動きが止まった。
「……は?」
「お金のためですか。それとも、誰かに脅されてる?」
男は目を瞬かせた。エリカは続けた。
「顔色が悪いし、手が震えてる。慣れていないんでしょう、こういうこと。それに、その傷……左腕のやつ、最近負ったやつじゃないですか。治してあげますよ」
気づけばエリカは男の腕を取っていた。
治癒魔法が流れ込む。古い傷が、見る見るうちに塞がっていった。
男は呆然とした顔で、自分の腕を見下ろした。
「なんで……」
「ほっとけないだけです。ところで、事情を話してくれませんか。出来る限りのことはしますから」
その後の顛末は、エリカの予想から大きく外れた。男の名はルッツといい、故郷の弟が病に倒れて金が必要だった。悪人に騙されてここまで来た。剣は素人同然だった。エリカは彼の話を全部聞いて、屋敷の薬師に弟の薬を調合させ、ルッツを王都の仕事紹介所に繋いだ。
事の顛末を報告を受けたキリアスは、長い沈黙の後、窓の外を見ながら言った。
「……暗殺者を、更生させたのか」
「なんか流れで」
(全然死ねませんでした。本当に。毎回こうなる)
「あなたは」
公爵の声が、かすかに掠れた。
「私のためなら何でもやってのけるのか」
「いや、そこまでは……」
「あの男が剣を向けてきても、逃げなかった。毒も飲んだ。自らの命を、まるで惜しまないかのように」
(惜しんでないんじゃなくて、むしろ使い切りたいと思ってるんですが)
「キリアス様」
「なんだ」
「本当に大したことしてないので、そんな目で見ないでほしいです」
「……どんな目をしている」
「なんか、すごく重たい目」
キリアスはわずかに目を見開き、そして小さく笑った。かすかな、しかし確かな笑みだった。
(えっ、笑った。冷徹公爵が笑った)
「重たい目か」
「はい」
「……自覚がなかった」
公爵はまた窓の外に視線を戻した。その横顔が、最初に会った時よりも、わずかに柔らかいように見えた。
エリカは密かに思った。
(この人、笑うと普通にかっこいいですね。……いや、そんなこと考えてどうするんですか自分。帰るんですよ、日本に。早く死に場所を探さないと)
しかしその夜、エリカは布団の中で少し長く目を開けたまま天井を見つめた。
(カレーうどんが、最近あんまり夢に出てこなくなったな)
それがどういう意味なのかを、エリカはあえて考えないことにした。




