第8話 波は、静かに重なる
湾岸再開発プロジェクトは、表向きは順調だった。
新聞の経済面には「外資との大型提携」と小さく載り、社内では武田部長の評価が上がった。
営業部の空気は明らかに変わっていた。
電話は増え、接待の席も増え、会議室には常に甘い煙草の匂いが漂っていた。
1988年の東京は、上へ上へと伸びる都市だった。
赤坂の再開発、六本木のディスコ、銀座のブランド店。
タクシーは捕まらず、深夜でもネオンは昼のように明るい。銀行は競うように融資を出し、「土地は絶対に下がらない」という言葉はもはや空気のように共有されていた。
だが、恒一の胸の奥には、説明できない重さがあった。
未来を知っているという事実は、時に祝福ではなく、呪いになる。
ある朝、社内会議で神谷が資料を机に叩きつけた。
「坂本の提案は理想論だ」
静まり返る会議室。
「未来を売る? 結構だ。だが我々は商社だ。利益を最大化するのが使命だろう」
恒一は黙って聞いていた。
神谷は続ける。
「物流だの企業誘致だの、時間がかかりすぎる。今は転売益を確保するタイミングだ」
部屋の空気は神谷に傾きかける。
彼は営業トップ。数字がすべてを証明している男だ。
恒一はゆっくりと立ち上がった。
「神谷さんの案なら、短期利益は出ます」
「なら問題ないだろう」
「ただし」
恒一は資料をめくった。
「地価上昇はすでに実需を超えています。ここで投機を加速させれば、崩れた時の損失は指数関数的に広がる」
「崩れる?」
神谷の目が細くなる。
「いつだ」
恒一は言葉を飲み込んだ。
(言えない。言えるはずがない)
「……市場は永遠ではありません」
武田部長が低く言う。
「坂本。お前は、怖いのか?」
その問いは核心だった。
怖い。
崩壊を知っているから。
だが恒一は首を振った。
「違います。守りたいんです」
「何をだ」
「会社の信用と——」
一瞬、麻美の顔が浮かぶ。
「関わる人の未来を」
沈黙。
神谷はふっと笑った。
「青いな」
だがその目は、わずかに揺れていた。
会議は持ち越しになった。
その夜、麻美から電話が来た。
声が、少し硬い。
「ねえ、今日会える?」
銀座の喫茶店。
いつもの明るい麻美ではなかった。
カップの縁を指でなぞりながら、ゆっくり言う。
「お見合いの話が来たの」
恒一の胸が、強く鳴った。
「相手は?」
「銀行の人。三つ年上。安定してるって」
バブルの時代、銀行員は一種のブランドだった。
融資を握る側の人間。親世代から見れば理想的な縁談だ。
「どう思ってる?」
問いかけながら、恒一は自分の立場を思い知る。
自分は未来の人間だ。
この時代の人間ではない。
「分からない」
麻美は正直に言った。
「安心はすると思う。でも」
視線が合う。
「ときめかない」
言葉は小さいのに、重かった。
店の外では、ブランドの紙袋を持った若者たちが笑いながら通り過ぎていく。
豊かさが当たり前の顔をして歩いている。
「坂本くんは?」
「俺は——」
言いかけて、止まる。
(俺がここにいていいのか)
未来では、麻美は祖母になる。
宗一郎と出会い、家庭を築き、あの写真の笑顔になる。
それを知っている自分が、今ここで、何を言える?
「俺は」
ようやく出た言葉は、驚くほど静かだった。
「未来を一緒に考えられる人がいいと思う」
麻美は目を瞬かせた。
「未来?」
「安心も大事。でも、その先を話せる人」
麻美はしばらく黙り、そして小さく笑った。
「それ、プロポーズみたい」
恒一の心臓が跳ねる。
「違う、そういう意味じゃ」
慌てる姿に、麻美はくすっと笑った。
その笑顔が、胸に刺さる。
(この笑顔が、未来に続く)
だがその未来は、自分とではないかもしれない。
帰り道、銀座のネオンが揺れていた。
バブルの光は強い。
だが海の向こうでは、すでにアメリカ市場が不安定だというニュースが流れている。
小さな波は、まだ誰も気づかない速度で近づいている。
会社では、神谷が水面下で動いていた。
短期転売の提案書を外資に直接持ち込み、別ルートの契約を狙っているという噂が流れる。
波は、重なり始めていた。
仕事の対立。
恋の揺らぎ。
そして、まだ姿を見せない“伝説の商人”。
恒一は夜の東京湾を見つめる。
高層ビルの灯りが水面に揺れる。
(未来は、変えられるのか)
それとも——
(すべては、決まっているのか)
遠くで船の汽笛が鳴った。
その音は、どこか懐かしく、そして不安を含んでいた。
波は、まだ穏やかだ。
だが確実に、深くなっている。




