第5話 古い名刺
金曜の夜。
赤坂のネオンは、いつもより少し派手に見えた。
1988年。
バブルの東京は、金曜になると別の街になる。
タクシーはつかまらない。
居酒屋は満席。
スーツ姿の男たちが、景気のいい声で未来を語る。
そして——
「坂本くん!」
後ろから声がした。
振り向くと、麻美がいた。
紺のワンピースに薄いカーディガン。
昼間の会社とは少し違う、柔らかい雰囲気だった。
「偶然ですね」
「嘘つけ。待ってただろ」
麻美は笑った。
「ばれました?」
その笑顔を見ると、なぜか営業で負けた気がする。
「今日は接待終わり?」
「そう。取引先のおじさんたちが六本木に消えていったところ」
「バブルだねえ」
「ほんとに」
二人は赤坂通りを並んで歩いた。
少し風が冷たい。
麻美が言った。
「坂本くんってさ」
「うん?」
「商社の営業、向いてるよね」
「いきなりだな」
「だって今日、うちの部長が言ってた」
「何を?」
「“あいつはバブル向きの営業だ”って」
俺は苦笑した。
「褒めてんのか、それ」
「褒めてるよ」
麻美は少しだけ真面目な顔になった。
「怖いくらい交渉強いって」
「怖いのは部長だよ」
「でも」
麻美は続けた。
「坂本くん、普通の営業と違うよね」
「どう違う?」
「焦ってない」
俺は少しだけ黙った。
——それは。
祖父の教えだった。
商売は
急ぐな。焦るな。だが引くな。
昔から言われてきた言葉だ。
麻美が聞いた。
「誰かに教わった?」
俺は少し迷ってから言った。
「まあ…じいさんかな」
「おじいちゃん?」
「昔、商売やってた人」
「へえ」
麻美は興味ありそうに笑った。
「どんな商売?」
「さあな」
俺は肩をすくめた。
「本人、あんまり話さないんだよ」
「ふーん」
その時。
麻美が足を止めた。
「ねえ」
「ん?」
「ちょっと寄り道しない?」
「どこに?」
麻美が指さした。
小さなバーだった。
看板は古い。
BAR SAKURAI
いかにも昭和の匂いがする店だ。
「ここ、好きなの?」
「うん。落ち着く」
二人で中に入る。
カウンターだけの小さな店。
ジャズが流れていた。
マスターが軽く会釈する。
「いらっしゃい」
麻美が言った。
「ジントニック」
俺は言う。
「ウイスキー」
グラスが置かれる。
氷の音が小さく響く。
麻美が聞いた。
「坂本くんってさ」
「うん」
「東京の人?」
「いや」
「どこ?」
「鹿児島」
「へえ!」
麻美が目を丸くする。
「遠いじゃん」
「そうでもない」
「上京組なんだ」
「そう」
麻美は少し嬉しそうに言った。
「なんか安心した」
「何が?」
「東京の人って、怖そうじゃん」
「それ偏見」
「だって商社だよ?」
「むしろ地方出身多いぞ」
「そうなの?」
「ハングリーだから」
麻美は笑った。
「坂本くん、確かにハングリーそう」
「見た目?」
「うん」
俺も笑った。
その時だった。
カウンターの隅に、古い額があるのに気づいた。
そこには色あせた名刺が飾ってあった。
何枚かある。
戦後の商人の名刺らしい。
ふと、目が止まった。
そこに書いてあった名前。
——坂本 宗一郎
俺は思わず立ち上がった。
「……え?」
麻美が驚く。
「どうしたの?」
俺は額を指差した。
「この名前」
「うん?」
「俺のじいさんだ」
麻美は一瞬、ぽかんとした。
「え?」
マスターが静かに言った。
「知ってるのかい?」
俺は聞いた。
「この人、ここに来てたんですか?」
マスターは少し懐かしそうに笑った。
「昔ね」
「どんな人でした?」
マスターはウイスキーグラスを磨きながら言った。
「商売人だったよ」
少し間を置いて。
「…とんでもないな」
麻美が小さく言った。
「坂本くん」
「ん?」
「おじいちゃん、ただの商売人じゃないんじゃない?」
俺も同じことを思っていた。
バブルの東京。
俺が働く商社。
そして——
祖父の名前が残るバー。
何かが、少しだけつながり始めていた。
グラスの氷が、小さく鳴った。




