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営業成績最下位の俺がバブル時代の商社にタイムスリップしたら、昭和の気合営業に現代マーケティングを持ち込んだら出世してしまった  作者: かーすけ


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第36話 音のしない崩れ

 朝は、いつも通りに始まった。

 電車は時間通りに走り、人は同じように改札を抜け、同じように会社へ向かう。

 空も、特別な色はしていない。

 ただの曇り空。

 それでも――

 どこか、重かった。


 オフィスに入ると、違和感はすぐにあった。

 静かすぎる。

 いつもなら聞こえる電話の音が、少ない。

 コピー機も、止まっている時間が長い。

 人はいる。

 だが、声が小さい。


「おはようございます」

 挨拶をすると、何人かが顔を上げる。

「ああ、おはよう」

 返事はある。

 だがどこか、間がある。


 席に着いた瞬間、部下が近づいてきた。

「坂本さん、ちょっと……」

 その声が、いつもより低い。

「どうした」

 部下は一瞬、周りを気にした。

 そして小さく言う。

「湾岸のB区画ですが……」

 嫌な予感が、すぐに走る。

「地権者の一人が、契約を保留にしたそうです」

 恒一は動きを止めた。

「理由は」

「……価格の見直しを求めてきています」


 ほんの一件。

 全体から見れば、小さな問題。

 これまでも、似たような交渉はあった。

 だが今回は違う。

 タイミングが。


「いつからだ」

「昨日の夜、連絡が」

 昨日。

 あの祝杯のあとだ。


 恒一は椅子に座り直した。

「他は」

「今のところは……」

 言いかけて、部下は口を閉じる。

「何だ」

「……問い合わせが増えています」

「どんな」

「“条件は変わらないか”とか、“今ならいくらになるのか”とか……」

 確認の電話。

 だがその本質は同じだ。

 様子を見ている。


 恒一はゆっくりと立ち上がった。

「神谷さんは」

「もう来ています」


 会議室のドアは閉まっていた。

 ノックをする。

「入れ」

 短い声。


 中に入ると、神谷はすでに資料を広げていた。

「来たか」

「はい」

 恒一はそのまま言う。

「B区画で動きがありました」

 神谷の手が、一瞬だけ止まる。

 だがすぐに戻る。

「聞いている」

「では」

「想定内だ」

 即答だった。


「ですが、他にも――」

「出るだろうな」

 言葉を被せる。

「一つ動けば、周りも揺れる」

 神谷は顔を上げた。

 その目は、いつも通り冷静だった。

「問題はそこじゃない」


 恒一は黙る。

 神谷は続けた。

「広がるかどうかだ」

 静かな声。

 だがその奥に、わずかな緊張があった。


「今は、まだ点だ」

 神谷は指で机を叩く。

「線になる前に押さえる」

「どうやって」

「決まってる」

 神谷は立ち上がる。

「金で止める」


 単純だった。

 だがそれが一番早い。

 そして――

 一番、深く踏み込む方法だった。


 その日の午後。

 調整が始まった。

 条件の再提示。

 追加のインセンティブ。

 裏での説得。

 電話が増える。

 人の出入りが激しくなる。

 止まっていたはずの空気が、一気に動き出す。

 だがその動きは、どこか荒い。


 廊下ですれ違う社員たちの表情も変わっていた。

 笑顔はある。

 だが短い。

 目が笑っていない。


 麻美はその様子を、少し離れた場所から見ていた。

 資料を抱えたまま、動かない。

 ――始まった。

 言葉にはしない。

 だが確信に近い感覚があった。


 その夕方。

 一本の連絡が入る。

「坂本さん、すみません」

 取引先の声だった。

「例の件ですが……」

 その後の言葉は、短かった。

「今回は見送らせてください」


 二件目だった。


 電話を切ったあと、恒一はしばらく動けなかった。

 頭では理解している。

 こういうことは、あり得る。

 だが――

 速い。

 あまりにも。


 窓の外を見る。

 空はさらに重くなっていた。

 今にも雨が降りそうだ。


「坂本」

 振り向くと神谷が立っていた。

「一件落ちたそうだな」

「はい」

 神谷は頷く。

 驚きはない。

「想定内だ」

 また、その言葉。


「ですが」

 恒一は思わず言う。

「このペースは……」

 神谷は静かに見た。

「怖いか」

 唐突だった。


 恒一は言葉を失う。

 数秒の沈黙。

 そして、正直に言う。

「……少し」


 神谷はわずかに笑った。

「正常だ」

 その一言が、妙に重い。


「だがな」

 神谷はゆっくりと言う。

「ここで引いたら、全部終わる」

 窓の外を一瞥する。

「進めば、まだ拾える」

 その言葉には、確かな現実があった。

 どちらも正しい。

 だからこそ――

 選べない。


 夜。

 雨が降り始めた。

 最初は静かに。

 やがて少しずつ強くなる。

 アスファルトを打つ音が、単調に続く。


 オフィスの明かりは、まだ消えない。

 誰も帰ろうとしない。

 帰れないのかもしれない。


 恒一は机に向かいながら、ふと手を止めた。

 昼からの出来事。

 たった数時間で、何かが変わった。

 目には見えない。

 だが確実に。


 点が、増え始めている。

 まだ線ではない。

 だが、このままいけば――


 遠くで雷が鳴った。

 今度ははっきりと。

 光が一瞬、窓を照らす。

 その白い光の中で、街の輪郭が浮かび上がる。

 どこか歪んで見えた。


 その頃。

 山本は静かな部屋で、一人茶を飲んでいた。

 外の雨音を聞きながら。

「……始まったか」

 誰に言うでもなく呟く。

 その声には、驚きはなかった。


 崩壊は、音を立てない。

 気づいたときには、すでに中に入り込んでいる。

 そして少しずつ、確実に――

 逃げ場を奪っていく。

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