第34話 踏み込む者
夜の会議室は、昼とは別の顔をしていた。
照明は少し落とされ、窓の外には東京の光が広がっている。
街はまだ動いている。
だがその動きは、どこかざらついて見えた。
神谷は一人、資料に目を通していた。
机の上には、いくつもの数字。
資金計画。
地価推移。
銀行の融資条件。
どれも“問題なし”とされている。
だが神谷は、その奥を見ていた。
――締め始めているな。
銀行の動きは読めていた。
表向きは維持。
だが内側では、確実に慎重になっている。
担保評価。
審査のスピード。
条件の微妙な変化。
どれも小さい。
だが積み重なれば、流れは変わる。
「……遅いな」
神谷は小さく呟いた。
予想よりも、変化が遅い。
つまり――
まだ間に合う。
ドアが開く。
「失礼します」
入ってきたのは、外資の担当者だった。
スーツの仕立てが違う。
空気のまとい方も違う。
「お待たせしました」
神谷は軽く手を上げた。
「いや、ちょうどいい」
二人は向かい合って座る。
テーブルの上には、分厚い契約書。
「状況は把握しています」
外資の男が言う。
「日本の銀行が、少し慎重になっている」
「そうだな」
神谷は頷いた。
「だが問題はない」
即答だった。
男はわずかに笑う。
「自信がおありですね」
神谷は資料を指で叩いた。
「流れはまだ生きている」
「人も、金も、動いている」
一拍置く。
「止まる理由がない」
外資の男は、しばらく神谷を見ていた。
探るように。
「もし、流れが変わったら?」
静かな問い。
だが、その中身は重い。
神谷は少しだけ口元を緩めた。
「変わる前に終わらせる」
その言葉に、迷いはなかった。
沈黙。
やがて男は頷く。
「分かりました」
契約書に手を伸ばす。
「こちらも、予定通り進めましょう」
ペンが走る音。
それは、小さな音だった。
だが――
何かが決定づけられる音でもあった。
その頃。
別の会議室では、恒一が資料を見つめていた。
同じ案件。
同じ数字。
だが見え方が違う。
「……」
昼間に見つけたズレ。
それが、頭から離れない。
修正はできる。
調整も可能だ。
だが――
「根本は変わらないな……」
小さく呟く。
その瞬間、ドアが開いた。
神谷だった。
「まだやってるのか」
「ええ、少し気になる点が」
恒一は資料を差し出す。
「資金の流れですが、この部分――」
神谷は一瞥した。
ほんの数秒。
そして言った。
「問題ない」
短い。
あまりにも短い。
「ですが、ここが遅れると全体に――」
「遅れない」
言葉を被せるように。
神谷の声は低かった。
視線がぶつかる。
空気が張り詰める。
神谷はゆっくりと言った。
「坂本」
その呼び方は、これまでと少し違っていた。
「全部を疑ってたら、何も進まない」
恒一は何も言えない。
「この仕事はな」
神谷は一歩近づく。
「“行く”と決めたやつだけが形にできる」
その言葉は、正しかった。
だからこそ、重い。
神谷は資料を机に置いた。
「もう一度言う」
静かな声。
「問題ない」
そして背を向ける。
「進めろ」
ドアが閉まる。
残された恒一は、しばらく動けなかった。
頭では分かっている。
このまま進めば、大きな成果になる。
評価も、地位も手に入る。
だが――
胸の奥の違和感が、消えない。
むしろ、少しだけ強くなっている。
夜。
神谷は一人、ビルの屋上にいた。
風が強い。
ネオンが遠くで揺れている。
街を見下ろしながら、タバコに火をつける。
煙が風に流される。
「……来るなら来い」
誰に向けた言葉でもない。
だが、その声には確かな意思があった。
逃げる気はない。
止まる気もない。
むしろ――
来る前に取り切る。
それが神谷のやり方だった。




