第1話 バブル東京の洗礼
冷たい風が頬を打った。
坂本恒一は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ネオンがまぶしい。
街は人で溢れている。
笑い声、クラクション、タクシーの呼び声。
さっきまでコンビニにいたはずなのに――
「……なんだこれ」
通りを歩く男たちは、肩パッドの入ったダブルスーツ。
女たちは、ぴったりした派手な服を着ている。いわゆるボディコンだ。
そして何よりおかしいのは、手にしている電話だった。
「……でかすぎるだろ」
まるで弁当箱みたいな携帯電話。
テレビでしか見たことがない。
恒一は通りの売店に駆け寄った。
新聞を掴む。
日付を見た。
1988年10月12日
「……」
「……は?」
頭が真っ白になった。
1988年。
つまり――
バブル時代。
テレビの特集で何度も見た、あの狂った時代だ。
「いやいやいや……」
そんなことあるわけない。
だが、周囲の景色はどう見ても昭和だった。
タクシーの前では男たちが叫んでいる。
「銀座! 一万円出すから先に乗せてくれ!」
運転手が窓を開けて怒鳴る。
「順番だよ!」
別の男が財布から札束を取り出した。
「二万出す!」
恒一は思わずつぶやいた。
「……マジかよ」
テレビで聞いたことがある。
バブル期はタクシーが足りなくて、一万円札を振ってタクシーを止めたらしい。
都市伝説だと思っていた。
だが――
今、目の前で起きている。
「夢じゃないのか……?」
そのときだった。
目の前に巨大なビルが現れた。
看板が光っている。
東都物産株式会社
恒一は凍りついた。
胸ポケットから、あの名刺を取り出す。
そこに書かれている会社名。
東都物産
「……同じだ」
心臓がドクンと鳴った。
吸い寄せられるように、ビルに入った。
エレベーターを降りた瞬間、むせ返るような煙が広がった。
「ゲホッ!」
オフィスの中は、まるで喫煙所だった。
男たちがデスクでタバコを吸いながら電話をかけている。
「はい東都物産です! ええ、今夜銀座で!」
別の机では、灰皿が山のようになっている。
「コピーまだか!?」
「FAX詰まってます!」
「課長、会議です!」
怒鳴り声が飛び交う。
恒一は呆然とした。
「……昭和だ」
そのとき。
「ちょっと、あなた」
声をかけられた。
振り向くと――
そこにいたのは、信じられないほど華やかな女性だった。
肩まで伸びた髪。
ブランドらしいスーツ。
整った顔立ち。
受付嬢だった。
「ここ営業フロアですけど?」
恒一は慌てて答えた。
「あ、いや、その……」
彼女は少し首をかしげた。
「あなた、新人?」
「え?」
「坂本さんでしょ?」
恒一の背中に冷たい汗が流れた。
「……はい?」
彼女はにっこり笑った。
「やっと来た。遅いですよ」
そして手を差し出した。
「受付の高橋麻美です」
恒一は思った。
かわいい。
いや、それどころじゃない。
だが頭がついていかない。
「さあ、営業部ですよ」
麻美は歩き出した。
恒一は、夢の中みたいな気分でついていった。
営業フロアの奥から怒鳴り声が聞こえた。
「だから言っただろ!」
机を叩く音。
「こんなワイン誰が買うんだ!」
怒鳴っているのは、体格のいい男だった。
部長らしい。
デスクの前には段ボールが積まれている。
ラベルを見ると――
輸入ワイン
若い営業マンが頭を下げていた。
「すみません武田部長……」
「すみませんで済むか!」
武田部長は怒鳴った。
「500ケースだぞ!」
恒一は心の中でつぶやいた。
在庫の押し付けだな。
よくある商社の失敗。
そのとき。
恒一の頭の中に、マーケティングの知識が浮かんだ。
ワイン。
1988年。
バブル。
「……売れる」
気づいたら口に出していた。
「売れますよ、それ」
フロアが静まり返った。
武田部長が振り向く。
「誰だお前」
恒一は言った。
「レストランに売ればいいんです」
「は?」
「フレンチとかイタリアンです。バブル期は外食ブームですから」
部長は黙った。
恒一は続けた。
「あとコピーを変えましょう」
段ボールを指差す。
「“高級輸入ワイン”じゃ弱いです」
そして言った。
「“バブルの夜を飾る一本”」
一瞬、沈黙。
そのあと。
後ろで誰かが吹き出した。
「ははは!」
派手なネクタイの男が笑った。
「面白いじゃん新人!」
武田部長は腕を組んだ。
「……坂本だったな」
そしてニヤリと笑った。
「じゃあお前が売ってこい」
恒一は思った。
やっちまった。
しかし――
これが。
営業成績最下位だった男の人生を、大きく変える最初の一歩になることを、まだ誰も知らなかった。




