第14話 静かな舵取り
冷たい雨が、東京を鈍く濡らしていた。
湾岸の空は低く垂れこめ、建設途中のビル群が灰色の幕の中に沈んでいる。
重機の音もどこか湿り、風は海の匂いを強く運んでいた。
新聞の経済欄には、また小さな記事が載っていた。
――都内地価、伸び率に減速傾向。
まだ誰も慌てない。
テレビでは相変わらずディスコの特集が流れ、ボディコン姿の女性が笑い、タクシーは深夜までつかまらない。
だが、空気は静かに変わり始めている。
東都物産では、神谷が再び動いていた。
「今ならまだ間に合う」
会議室で彼は言う。
「融資は完全には締まっていない。今のうちに追加取得だ」
資料は精緻だった。リスクヘッジも盛り込まれている。
だが恒一には分かる。
(これは、潮が引き始めた海に、さらに出ていく船だ)
「段階投入のはずでした」
恒一が静かに言う。
「状況が変わった」
神谷の声は鋭い。
「市場は強気だ。坂本、怖いなら降りろ」
会議室の蛍光灯が白く光る。灰皿の煙が揺れる。
昭和の営業部は、理屈よりも気迫で動く。
だが今は、理屈と気迫がぶつかっている。
武田部長は長く沈黙し、やがて言った。
「坂本。対案を出せ」
神谷の視線が突き刺さる。
恒一は立ち上がった。
「宗一地所が押さえている区画を共同開発提案します」
ざわめき。
「なぜあそこだ」
「彼らは転売していない。長期保有前提です」
神谷が笑う。
「弱腰の連中だ」
「違います」
恒一ははっきりと言った。
「波を読んでいる」
その瞬間、空気が止まる。
武田部長が言う。
「接触できるのか」
「やってみます」
自分で言ってから、鼓動が速くなる。
宗一郎に、会う。
逃げ続けてきた対面が、現実になる。
その夜。
赤坂の路地裏には、まだネオンがにじんでいた。
スナックからは中森明菜の曲が流れ、酔ったサラリーマンが肩を組んで笑っている。
恒一は、公衆電話の前に立った。
硬貨を入れ、番号を押す。
宗一地所。
呼び出し音が、やけに長く感じる。
「……はい」
低い声。
胸が締まる。
「東都物産の坂本と申します。御社代表にお取次ぎ願えますか」
間。
「少々お待ちください」
保留音の代わりに、静かな空白が流れる。
やがて、あの声が受話器越しに届いた。
「坂本だ」
短い。
無駄がない。
「東都物産の坂本です。湾岸の件で、お話を——」
「君が“未来を売る”と言っている若者か」
息が止まる。
なぜ知っている。
「どこで……」
「波は音を立てる」
意味が分からない。
だが、見透かされている。
「明日、午前十時。来なさい」
一方的に、電話は切れた。
受話器を持つ手が震えている。
翌朝。
宗一地所の事務所は、思ったより質素だった。
応接室には古い木の机と、革張りの椅子。壁には東京湾の古い写真。埋立前の海岸線。
昭和の匂いがする。
やがて、扉が開いた。
坂本宗一郎。
グレーのスーツ。派手さはない。だが立ち姿に揺るぎがない。
「座りなさい」
低い声。
恒一は座る。
宗一郎は資料を開き、目を通す。
沈黙が長い。
時計の秒針が響く。
「神谷とは違うな」
唐突に言う。
「彼は速い。君は……重い」
重い。
その言葉が胸に残る。
「なぜ、転売しないのですか」
恒一は思い切って問う。
宗一郎は窓の外を見る。
遠くに湾岸のクレーンが見える。
「土地はな」
ゆっくりとした声。
「人の欲を映す鏡だ」
その言葉に、背筋が震える。
知っている。
だが今、初めて“本人”の口から聞く。
「欲が膨らんだときは、触るな」
「では、いつ触るのですか」
宗一郎は恒一を見る。
鋭く、しかし静かに。
「誰も見向きもしなくなったときだ」
外では雨が降り始めている。
静かな、冷たい雨。
「共同開発を提案したい」
恒一は言う。
「短期ではなく、十年単位で」
宗一郎は微動だにしない。
「なぜだ」
「未来を売りたいからです」
しばらくの沈黙。
やがて、宗一郎の口元がわずかに動く。
「面白い」
それだけ。
だが、その一言は重い。
「君は、誰に学んだ」
恒一は答えられない。
あなたです、と。
「自分で考えました」
宗一郎は小さく頷く。
「考え続けろ。欲に引かれるな」
立ち上がる。
面談はそれだけだった。
握手もない。
約束もない。
だが確実に、何かが動いた。
外に出ると、雨は本降りになっていた。
湾岸の海は灰色に揺れ、クレーンが霞む。
神谷は攻める。
市場は揺れる。
麻美は選んだ。
そして宗一郎は、静かに舵を切る。
恒一は空を見上げる。
未来はまだ決まっていない。
だが、必然へ向かって流れている。
遠くで、カセットテープの音が漏れるトラックが走り去る。
昭和の街はまだ熱を残している。
だが、その熱は永遠ではない。
波は、確実に形を変えつつある。




