第12話 それでも、未来へ
見合いから三日後の東京は、妙に静かだった。
空は高く、雲は薄く伸び、街の喧騒はどこか上滑りしている。
新聞の経済面には小さな記事が並んでいた。
――地価上昇率、やや鈍化。
――一部銀行、融資枠見直し。
どれも大きな見出しではない。
だが、数字の端に、わずかな翳りが混ざり始めていた。
東都物産の社内もまた、見えない緊張に包まれていた。
神谷は沈黙しているようで、確実に動いていた。
湾岸の別区画。
外資とは別の国内ファンド。
短期回収型のスキーム。
「会社としての承認は得ています」
会議室で神谷は淡々と言った。
資料は完璧だった。
リスク分散、担保強化、出口戦略。
前回の失敗を踏まえた“より洗練された投機”。
武田部長も、即座には否定できない。
「坂本、お前はどう見る」
恒一は資料をじっと見つめた。
数字は整っている。だが、整いすぎている。
(熱が高すぎる)
市場はすでに冷え始めているのに、資料はまだ真夏のままだ。
「リスクは前回より小さいです」
神谷が薄く笑う。
「当然だ」
「ただ」
恒一は続けた。
「出口戦略が“価格維持前提”になっています。もし三%下がれば、利幅は消える」
「三%も下がる根拠は?」
神谷の視線が鋭くなる。
(言えない。未来を知っているなんて)
「市場は心理で動きます」
恒一はゆっくり言葉を選ぶ。
「今は“上がる”前提の心理です。でも一度揺れれば、逆に加速する」
会議室は静まり返る。
武田部長は煙草を揉み消した。
「慎重にいく。着手はするが、資金は段階投入だ」
神谷の表情は読めない。
だが、その目の奥に、対抗心が燃えているのは明らかだった。
同じ頃、麻美は一人で東京湾を歩いていた。
風が冷たい。コートの裾が揺れる。
見合い相手からは丁寧な手紙が届いていた。
「前向きにご検討いただければ幸いです」と、整った文字で。
安心。安定。予測可能な未来。
だが彼女の胸に浮かぶのは、あの言葉。
“未来を一緒に考えられる人がいい”
麻美は足を止める。
湾岸の埋立地はまだ未完成で、鉄骨が空を切り取っている。遠くにクレーンが動き、重機の音が響く。
その中に、恒一の姿を探してしまう。
(私は、誰と歩きたいんだろう)
守られる未来か。
一緒に揺れる未来か。
波が岸に当たる音がする。
彼女はポケットから手紙を取り出し、しばらく見つめ、そしてそっと折りたたんだ。
「ごめんなさい」
小さく呟く。
選んだのは、安定ではなかった。
まだ形のない未来。
夜。
恒一はBAR SAKURAIにいた。
店内はいつもより静かで、ジャズが低く流れている。
「顔が険しいね」
マスターが言う。
「神谷が攻めてきてます」
グラスの氷が、かすかに鳴る。
「攻めるのは若さだ」
「でも、波が変わってる」
恒一は視線を落とす。
「俺は、未来を守れるんでしょうか」
マスターはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「守るんじゃない。選ぶんだ」
そのとき、扉が開いた。
冷たい風が流れ込む。
入ってきたのは、落ち着いたスーツ姿の男。
背筋が伸び、目は静かに周囲を見渡す。
空気が、変わる。
マスターが一瞬だけ姿勢を正す。
男はカウンターに座り、短く言った。
「いつものを」
低く、澄んだ声。
恒一の背中に、緊張が走る。
横顔が、はっきりと見える。
あの日、宗一地所の窓越しに見た顔。
坂本宗一郎。
鼓動が速くなる。
(ここで、声をかけるのか)
だが宗一郎は、ただ静かにグラスを傾けている。
派手さはない。
だが、存在感が圧倒的だ。
神谷の攻勢のような鋭さではない。
もっと深い、重い、地にしっかり足のついた静けさ。
マスターが言う。
「今日は冷えますね」
宗一郎は頷く。
「冷えると、地盤が締まる」
何気ない言葉。
だが恒一の胸に刺さる。
地盤。
基礎。
未来を支えるもの。
宗一郎はふと、恒一の方を見た。
視線が合った。
ほんの一瞬。
「若いな」
それだけ言い、またグラスに視線を落とす。
恒一は何も言えない。
名乗るべきか。
“あなたは、俺の祖父になる人です”と?
言えるはずがない。
だが確信する。
この人が、あの写真の男だ。
静かに未来を選び続けた商人。
店を出る宗一郎の背中は、小さくはなかった。
派手な勝負をせず、波を読んで進む背中。
恒一は深く息を吐く。
神谷は勢いで進む。
宗一郎は静かに選ぶ。
そして麻美は、揺れながら選んだ。
未来は一本ではない。
だが、選んだ道が未来になる。
東京の夜は、まだ輝いている。
ネオンは強く、街は浮かれている。
だがその足元で、波は確実に形を変えつつある。
恒一は呟く。
「俺は、どの未来を選ぶ」
神谷との対決は避けられない。
麻美の決断は、まだ自分に伝えられていない。
宗一郎は、もうすぐ手の届く場所にいる。
波は高くなっている。
もう、戻れない。




