第10話 見えない舵
東京湾は、冬の気配を含みはじめていた。
空は高く、海は鈍い鉛色をしている。
湾岸の埋立地には、まだ骨組みだけのビルが立ち並び、巨大なクレーンが無言で空を切り取っていた。
昼間は重機の音が絶えないその場所も、夕刻になると風の音だけが支配する。
高度経済成長を経て、日本は世界の頂点にいると誰もが信じていた。
地価は上がり続け、銀行は金を貸し、商社は世界を買いに行く。
だが、その足元で、潮の流れはわずかに変わり始めていた。
東都物産・第七会議室。
分厚いカーテンが閉じられ、空気は重い。
机の上には資料が乱雑に広げられ、灰皿は吸い殻で満杯だった。
「説明してもらおうか、神谷」
武田部長の声は低い。
恒一は席に座りながら、心臓の鼓動を押さえつけていた。
机の中央に置かれたのは、外資系ファンドとの覚書コピー。
湾岸区画の一部を、短期転売前提で押さえる別契約。
社を通さず、神谷が独自に動いた証拠だった。
神谷は椅子にもたれたまま、涼しい顔を崩さない。
「会社の利益になると判断しました」
「独断だ」
「機会損失を避けたまでです」
部屋の空気は張り詰めている。
窓の外では夕焼けがビル群を赤く染めているが、この部屋には光が届かない。
恒一は資料の数字を見つめた。
転売前提のスキーム。短期で大きな利益は出る。
だが、融資の条件が変われば一瞬で資金が詰まる構造だ。
(これは、崩壊前の典型的な形だ)
未来で見たニュースの映像が脳裏をよぎる。
焦げついた不動産。連鎖倒産。慌ただしい会見。
武田部長が言う。
「坂本、お前の意見は」
全員の視線が集まる。
恒一は一瞬目を閉じ、息を整えた。
「この契約は、利益は出ます」
神谷がわずかに笑う。
「だが」
恒一は続ける。
「融資条件が一段引き締まっただけで、資金回収が滞る。外資は即座に撤退するでしょう」
「仮定の話だ」
神谷が遮る。
「仮定ではありません」
恒一の声は静かだったが、確信があった。
「昨日、三菱系が融資審査基準を見直しました」
部屋がざわめく。
それは小さなニュースだった。
経済面の片隅に載る程度の変化。
だが恒一には、その意味が分かっていた。
潮目だ。
武田部長は長く煙を吐いた。
「神谷、契約は凍結だ」
神谷の目が初めて揺れる。
「部長、それでは——」
「会社の看板を背負っている自覚を持て」
低い声だった。
会議は終わったが、空気は重いままだった。
廊下に出たとき、神谷が背後から言った。
「坂本」
振り返る。
「未来を売る、だったか」
その声には嘲りと、わずかな苛立ちが混ざっていた。
「未来は読めない」
恒一は答える。
「だからこそ、読めない前提で動くべきです」
神谷はしばらく無言で見つめ、やがて言った。
「青いな」
だがその言葉は、以前ほど軽くなかった。
夜。
恒一は一人で湾岸へ向かった。
風が強い。海面は黒く、遠くの高層ビルの灯りが揺れている。
ここに、祖父がいる。
宗一地所。
静かに土地を抱え、動かない商人。
(会うべきか)
迷いながらも、恒一は資料にあった住所へ足を向けた。
小さな事務所ビル。豪奢でもなく、派手でもない。看板は控えめで、夜の街に溶け込んでいる。
入口のガラス越しに、明かりが見えた。
中では、スーツ姿の男が一人、図面を広げている。
横顔だけが見える。
年齢は五十前後。髪はまだ黒く、背筋が伸びている。派手さはないが、空気が違う。
周囲の喧騒とは無関係な、静かな重心。
男がペンを置き、ふと窓の外を見た。
その視線が、恒一と交わる。
一瞬。
時間が止まったように感じた。
血の奥がざわめく。
(この人だ)
言葉にできない確信。
だが、男はすぐに視線を戻し、灯りを消した。
事務所の扉は開かない。
恒一はその場に立ち尽くした。
声をかけることもできた。
「あなたは、坂本宗一郎ですか」と。
だが、それは越えてはいけない線のように思えた。
未来を知る自分が、祖父に何を言える。
風が強く吹く。
海の匂いがする。
宗一郎は、静かに舵を切っている。
派手な波に乗らず、流れを読む。
それは、今日の神谷との対比のようだった。
欲は加速する。
だが未来は、静かに選ぶ。
恒一は夜空を見上げた。
東京の光は強い。
だがその奥に、確実に冷たい気配が混ざっている。
会社では対立が始まり、銀行は慎重になり、神谷は引き下がらず、そして宗一郎は、まだ名乗らない。
事態は、収束ではなく、拡張している。
遠くで船の汽笛が鳴った。
その音は、警告のようにも、導きのようにも聞こえた。
恒一は静かに呟く。
「未来は、読めない。だからこそ——」
守る。
欲ではなく、未来を。
その決意はまだ小さい。
だが確実に、根を張り始めていた。




