ニセモノ
二月の午後、倫理の授業中の話である。
「あなたが自分自身だと思っている存在は、本当にあなたなのか?」
先生に問われた際、私は首をかしげながら頷いていた。そこに考察・逡巡用の時間は費やされず、ただ本能的な直感により突き動かされたのだった。一瞬、その考え無さに「しまった」と感じた。だが、彼の口元が緩んでいく様を見て、意味のない安心を覚えた。
「その認識で当然だね。我々の自覚が確かであるか否かを、観察する仕組みはない。では仮に、あまりに不可解な前提をつけて語ってみようじゃないか。これはあくまで戯れであって、現実へと適用できるものではない。そのことは覚えておいてくれ」
先生はそう言うと、真新しいチョークを手に取り、これまた真新しい黒板に乱れた字を綴り始めた。その字はどれも水平方向にひしゃげて、中には文脈からしか察せられない代物もあった。しかし、その無秩序さがかえって、続く彼の言を待ち望ませるようであった。
『あなたの身体を、隣の席の人が動かしていたら?』
彼はそこまで書くと、生徒たちの方を向き直った。
「おかしな話だね。もちろん、こちらとしても真剣ではない。読書していてもいいし、早弁にも目を瞑る。テストにも出しやしない……個人的な思索に過ぎないからね。それでもし、あなたの身体を、隣の席の人が動かしていたら?」
ちらほらと短い笑いが起こった。ふと周りを見れば、彼らはいずれも薄らとした嘲りを浮かべているように思えた。私だけが、ぽかりとした穴の中にいる気分だった。黒板の文字と、今しがた発せられた声とが、微妙にずれて重なり合い、自分の何かを薄く歪めた気がした。
誰も真面目には答えやしなかった。隣の席に座る少女の肘が、机に触れている。さっきから、やけに近い。私は自分の右手が膝の上にあることを確認した。指は揃っている。震えてはいない。少なくとも、そう見えた。
「仮定の話だよ」と先生は付け加えた。
「神経も筋肉も、あなたのものだ。ただ、命令だけが別の場所から来ている。さあ、そのとき『あなた』はどこにいる?」
先程よりわずかに大きな笑いが起きた。一方で、その軽さは増していた。誰かが「操り人形みたいだ」と言い、別の誰かが「気持ち悪い」と呟いた。先生はそれらを拾い上げることも、否定することもせず、ただ教卓にもたれた。
私は、ノートを取ろうとして鉛筆を持ち上げた。持ち上がった。思った通りに。だが、その一致が、なぜか疑わしく思えてしまう。もし今の動きが、私の思考の直前に既に決められていたとしたら? 私の「書こう」という意識は、ただの実況中継に過ぎないのではないか。
隣の席の彼女が、欠伸をした。肘が動く。その瞬間、私の右足が小さく揺れた。偶然だ。そう言い聞かせるのは容易だったが、一度芽生えた疑念は、簡単には枯れなかった。
「大切なのはね」と先生は言った。
「ニセモノかどうかじゃない。確かめられない、という点だ。自分が本物であるという感覚は、証明ではなく、習慣なんだよ」
チャイムが鳴った。救済の音のはずなのに、今日はやけに唐突だった。生徒たちは一斉に立ち上がり、鞄を掴む。椅子が引かれ、足音が重なる。その雑多な動きの中で、私は席を立つタイミングを失った。
立ち上がろう、と考えた。身体は動かなかった。いや、正確には、動かなかった「気がした」。次の瞬間、私は立っていた。周囲はもう空き始めている。
「考えすぎだよ」
隣の席の彼女が、くすりと笑ってそう言った。こちらを見るでもなく、ただ教室を出ていく。その背中を見送りながら、私は自分の足に力を込めた。床の感触が、靴底を通して伝わってくる。
この感覚が本物である保証はない。それでも、歩き出すことはできる。廊下に出て、窓から差し込む光に目を細める。その一連の動作を、私は「自分がしている」と感じている。
もしこれが偽物だとしても――。
私は、少なくとも、今日一日を生きるには十分だと思った。その考えが誰のものかは、もう考えないことにした。




