焔焔
春の風が、紫宸殿の几帳を揺らしていた。
若き天皇は御簾の奥で文机を前にしていた。机上には、仁和寺から届いた文が広げられている。
「春の祭儀にて、神前の詞は、寛平の式に倣うべし」
宇多法皇の筆による指示だった。
それは、祭儀の詞の文言にまで及ぶ、細やかな干渉だった。
帝の表情は険しい。
「父上は、法皇となられたはず。
灌頂を受け、俗を離れ、仏の道を歩まれると宣言された。
ならば、政も儀も、朕に任せていただきたい」
仁和寺からは、毎日のように文が届いていた。
祭儀の次第、詔の語句、果ては歌会の題まで……
父の理は、新帝の政に染み込んでくる。
「寛平の治は、父上の御代の名である。
だが、今は昌泰。朕の御代だ。」
帝は立ち上がり、几帳の外を見やった。
庭には若葉が揺れていた。
その緑は、仁和寺の庭にも同じように揺れているのだろうか
帝は自分の心も同じように揺れているのを感じていた。苛立ち、とでも言うべきか。
そして、ふと気づく。
祭儀の詞を整えるのは、右大臣、菅原道真。
詔の文言を起草するのも、道真。
歌会の題を選ぶのも、道真。
「道真が詞を整えれば、父の語が響く。
道真が詔を起草すれば、父の意が潜む。
道真が歌の題を選べば、父の理が香る。」
道真は誰よりも忠実だった。
理を重んじ、礼を守り、政を正そうとした。
ただそれだけだろう。他意はないだろう。
だが……
「忠実すぎるのだ、あの者は」
道真は、父上の理の器である
その筆は、父の理を写し、父の声を響かせた
自分の政において、道真は父そのものなのだ
父は仏となったはずだった
だが、自分の政には、なお父の影が差していた
そしてその影は、道真の筆として、声として、自分の前に立ちはだかる。
帝の心の苛立ちはぶすぶすとくすぶり続け、少しずつ別のものになっていく。
帳の向こう、静かな闇の中で、ふと脳裏に浮かんだのは大納言、藤原時平の面ざしだった。
未だ東宮であった頃、礼を語らず、理を説かず、ただ「御心のままに」と言った男。
その言葉が、今夜ほど胸に響いたことはなかった。
2025/11/22 初稿




