春霞
昌泰元年、春。
体を壊した宇多天皇が譲位し、若き敦仁親王が即位した。醍醐朝の始まりである。
朝廷は新帝のご意向を静かに、そして固唾を飲んで見守っていた。
紫宸殿には、朝の光が差し込んでいた。
文官たちは正装に身を包み、列を整えている。
除目。
新帝による人事の宣下が行われる。
宣旨が読み上げられる。
「右大臣に、菅原朝臣道真」
その名が響いた瞬間、列の後方でわずかなざわめきが走った。
間のそこかしこで、顔を見合わせる者、意味ありげに目配せする者たちが見受けられた。
「……右大臣、か」
「左大臣は空席のまま。つまり、あの人が最上位」
「学者の家から、右大臣とは……」
「法皇のご威光が、ここまで及ぶとはな」
「だが、帝はまだ十一。これからは、誰が耳元に立つかで決まる」
続いて、宣旨が響く。
「大納言に、藤原朝臣時平」
今度は、誰も驚かなかった。藤原氏の嫡流、当然の任と誰もが思っていた。
だが、誰もが気づいていた。
右大臣に道真。大納言に時平。
この並びは、ただの序列ではない。理と家格、学と血統。二つの力が、並び立つことを命じられた瞬間だった。
宣下が終わると、帝は静かに言葉を添えた。
「政は、理をもって行うべし。徳をもって、民を養うべし」
その声は幼く、しかし澄んでいた。
恭しく平伏しながら時平は微かに呟く。あまりに小さいので隣にいる者にさえ聞こえない小さな小さな呟きだった。
「理か……はてさてどなたの入れ知恵であろうか。
法皇かはたまた右大臣か……
理は天に通じるかもしれん。だが、地に根を張るのは、血だ。
帝もいずれそれに気づく」
そのための仕込みは既に終えている
いずれ、それを思い知らせてやる
時平の口元が僅かに引きつれ不敵な笑みが浮かび上がる。勿論その表情を見るものは誰もいない。
その日、朝廷には、春の光とともに、目に見えぬ緊張が満ちていた。
2025/11/22 初稿




