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藤梅合戦  作者: 風風風虱
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溶鉛

 白く焼けた石畳の向こう、庭の木々は陽に灼け、葉の先がわずかに丸まっていた。  

 簾の向こうから、かすかに蝉の声が聞こえる。まだ朝のうちだというのに、空気はすでに重く、湿り気を帯びていた。

 紫宸殿の朝議。

 右大臣、菅原道真が奏上したのは、国司任用における新たな基準案だった。

 学識と徳を第一とし、家柄や縁故によらず、人物本位で登用すべしという内容である。

 その提案が読み上げられると、しばし沈黙が落ちた。やがて、列の一角から声が上がる。


「右大臣殿のご意見、確かに理は通っております。しかし、地方の実情を鑑みれば、地縁を持つ者の方が民の信を得やすいのでは?」


 その声の主は中納言、藤原時平だ。

 声は落ち着いていたが、その語句にはわずかな硬さがあった。

 蝉が遠くで一匹鳴いた。

 道真は、静かに応じた。


「地縁は私情を生みます。政に私を持ち込めば、法は曲がり、民は苦しむ。学と徳を備えた者こそ、遠地にあっても信を得るものです」

 

 時平は、眉をひそめ、次の言葉を発する。


「しかし、理ばかりを追えば、人の情が置き去りになります。政とは、民の心を汲むことでもあるはず。」


 その言葉に、列の端からひとりの参議が頷き、声を上げた。


「中納言殿の仰る通り。地方の実情を知らぬ者が、書の理だけで政を司るのは危うい」


 もう一人が続いた。


「実務に通じた者こそ、任にふさわしいのでは。学識は尊いが、それだけでは……」


 外では蝉の声がいつの間にか増えていた。簾の向こう、庭の木々が震えるように、蝉の鳴き声が重なり合い、響きを増していた。


「右大臣殿のご提案は、あまりに理想に過ぎましょう」

「現実を見ねば、政は成り立ちませぬ」


 声が次々と上がり、議場はざわめきに包まれた。

 時平はその騒乱を黙って眺めていた、と言うのは表面上の話だ。内心はしてやったりと思っていた。何故ならば、今のこの状態は誰でもない時平が画策したものだったからだ。


 小人、同すれど和せず


 時平はその言葉を腹の中で転がす。

 内でいくら和すれずとも表面上で結束すれば、朝議の場では十分。むしろ小人であれば目先の利をちらつかせてやれば簡単に同ずることになる。

 所詮、理だ、礼だ、君子だなどと言っている道真などにこの状況を収めることなど出来はしない。時平は無表情でざわめく場を眺めていた。

 蝉の声も、まるで呼応するかのように、激しさを増していく。

 耳をつんざくような合唱。

 熱気と喧騒が、道真の言葉をかき消そうとしていた。

 だが、道真は動かなかった。

 泰山のごとく、ただ静かに座していた。


 そして……


「よい」

 

 突如、帝の声が簾の奥から響いた。

 高くもなく、低くもない、ただ一つの音。


「右大臣の奏、これを用いる」


 その瞬間、議場が凍りついた。

 蝉の声が、ぴたりと止んだ。

さきほどまで時平に同調していた者たちも、手のひらを返したように黙り込んだ。

 誰もが視線を伏せ、何事もなかったかのように沈黙を守る。


 たくさんの声が、たしかにあったはずだ。道真を負かせると、そう思っていた。


 だが今、同調していた者たちは、誰一人として口を開かない。


 小人は同じて和せず


 表面上だけ繕っているから 風向きが変わればたちまちのうちに行き先が変わる。


 そういうことか


 視線を落とす。顔がわずかに紅潮し、手のひらに汗が滲んでいた。

 

 あれほどの声が集まっても、帝の一言で消えるのか

 あの男が、理を語るだけで、すべてが決まるのか

 いや違う。菅原道真など、天皇さえいなければ紙切れのような存在なのだ

 帝さえいなければ……


 時平は唇を噛み締め、煮えたぎる鉛のような感情を一身に腹の中に飲み込むのだった。


2025/11/22 初稿

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