熾火
阿衡の詔が下されてから数か月。
朝廷は沈黙に包まれていた。太政大臣からの奏上が止まり、政務が滞っていた。
天皇から政務復帰の要請が何度かあったが基経は頑として拒み続けた。
その夜、天皇は、清涼殿の奥、几帳の向こうに座していた。
その前に控えるのは、文章博士、菅原道真。傍らには、蔵人頭、藤原時平。
阿衡の詔の夜から橘広相が欠けていたが、それは今回の騒動の端緒として追及され謹慎に追い込まれていたからだ。
天皇もまた、膠着する事態を打開するためには発布された詔を撤回するしか方法がないところまで追い詰められていた。
出した詔を撤回するとは宇多天皇が自らの間違いを認めることに他ならなかった。
天皇の目には怒りと屈辱が宿っていた。
「朕の言葉が、政を動かせぬとはな……」
くぐもった声が几帳の奥から響いた。
「太政大臣は、詔に従わず、政務を放棄した。これは、朕の威を否定するものだ。」
道真は深く頭を垂れた。
「陛下の御言葉は、礼に適っております。されど、太政大臣の反応は、礼を越えております」
「……礼を越えるか」
天皇は目を伏せた。
「ならば、やはり朕が折れるしかないということか」
しばしの沈黙の後、道真は静かに答えた。
「撤回の詔につきましては、文言を慎重に選ばねばなりません。太政大臣の面目を保ちつつ、陛下の威を損なわぬよう、言葉を練る時間をいただければと存じます」
天皇は道真を見つめた。その眼差しには屈辱と、道真へのわずかな信頼が混じっていた。
「よい。朕の恥辱を、筆にて包め。だが、誤れば朕は再び辱めを受ける。慎重にせよ」
道真は深く頭を下げた。
「二日ほど、お時間をいただければ。必ず、陛下の御意に適う文をお持ちいたします」
天皇は頷いた。
「待とう」
道真が几帳から下がろうとしたその瞬間、天皇の声が再び響いた。
荒々しいその声は時平に向けられていた。
「そなたは、太政大臣の子でありながら、何もできぬのか。詔の場にいて、何も言えず、何も止めず。ただ見ていただけ。
このような事態にも何の役にも立たぬとは!」
時平は息を呑んだ。理不尽な話ではある。しかし、その言葉は刃のように彼の胸を裂いた。
「太政大臣の怒り鎮めるための助言もせぬとは。そなたは本当に朕の蔵人であろうか?!」
「……申し訳ございません」
時平は深く頭を垂れ、一言言うことしかできなかった。
道真は振り返り、そっと一歩進み出た。
「陛下。此度のことは蔵人頭ではなく太政大臣の御心によるものかと思います。蔵人頭には罪はないでしょう」
天皇は道真を見つめ、しばし沈黙する。落ち着かぬげに体を揺すったがやがて、手を振って言った。
「よい。下がれ」
道真は時平に目を向け、ほんのわずかに微笑んだ。
助けになれた
そう思った。その昔、共に学ぼうと言ったあの時のことを道真は忘れていなかった。学究としては甚だ未熟者であるが学友であることには変わりない。その友を助けるために目上の者に異を唱えるのもまた礼である。
今の太政大臣は全くの俗物である。
文意を理解せず木っ端な言の葉に拘泥し我が意を押し通そうとする小人の典型であると道真は思っていた。
その子である時平もまた愚鈍ではあったが、それでもあの春の邂逅でみせた真っ直ぐな心根で励めば学問の門前ぐらいには辿り着けよう。それまで私が友として助け、導けば良い。
ひたすら平伏する時平を見下ろしながら道真はそう思うのであった。
だが、時平の胸には、別のものが渦巻いていた。
いらぬことを……。
なぜ、この者は口を挟む。
なぜ、父への怒りを受けるこの場に、この者が割って入る。
助けたつもりなのだろうが、私にはわかる
こいつが私を見下しているのが
時平は頭を下げたまま、血が滲むほど拳を握りしめた。
道真が清涼殿を後にする。
後には燻る炭のような怒りを含んだ宇多天皇と、息を殺し気配を消し、侍する時平のみとなった。
そして、時平の心の中にも帝や道真に対する言葉では言い表せぬ感情が熾火のように燃え始めていた。
2025/11/22 初稿




