春雷
仁和三年、春
清涼殿の灯火が揺れる夜、若き宇多朝の天皇の決断が静かに形をとり始めていた。
天皇は几帳の奥に座している。
即位して間もない彼の眼差しは、文机に広げられた草案に注がれていた。
書いたのは左大弁、橘広相。傍らには文章博士、菅原道真。少し離れた位置に息を潜めるように蔵人頭、時平が控えていた。
天皇は静かに言葉を発した。
「政の形を改めたい。太政大臣には長く朝廷を支えていただいた。朕はその功を忘れぬ。だが、これよりは、朕自らが政を執りたい」
太政大臣とは藤原基経、時平の実父の事だった。
先の光孝天皇の御代では基経は天皇の代わりに政務を司る権限を有していた。
つまり先の政権は実質基経が動かしていたと言って良かった。
しかし、若き天皇はそれを良しとはしない。
『これよりは、朕自らが政を執りたい』、それが天皇の思いであった。
さりとていきなり基経を排斥することもできない。天皇はまだ若く、基経の力は強かった。故に基経の機嫌を損ねないように職務を減じたい。
その詔の作成を橘広相に依頼したのだ。
広相は筆を止め、一歩進み出た。
「陛下。
太政大臣の職務を見直すに当たりなにか新たに名誉を保つ称号が必要かと存じます。
『阿衡』、殷の伊尹が就いた官。高位にして政務を執らず。この古典に倣えば、陛下の御意に沿うかと」
「阿衡……。それは、我が国にはない官ではないか?」
天皇は道真に目を向けた。
「はい。ですが、漢籍に通じた者には意味は通じます。太政大臣も、必ずや理解されるはずです」
道真の言葉に天皇は大きく頷いた。場の空気が決まろうとしたその時、時平が口を開いた。
「お待ちください」
その声は震えていた。若輩のものが口を挟むことへの躊躇いとその後に起こるであろう混乱を未然に防がねばと言う使命感に心が揺れていた。
「阿衡とは……政務を執らぬ官でございます。我が父は、太政大臣として長年政を担ってまいりました。その父に政務はとるなと仰せですか?」
広相が眉をひそめ、道真は静かに時平を見つめた。
静寂が辺りを包む。
遥か彼方で微かに鳴る春雷が聞こえた。やがてパラパラと廂を打つ雨音が聞こえてきた。
「文言の意味は明白です。官位は保たれ、政務は退く。そもそもそれが陛下のご意向なのです。そして、これは侮辱ではなく、礼です」
道真の声は穏やかで、分からぬ弟子に言い聞かせるような響きがあった。
「礼……?」
「わざわざ新たに官を作り、迎えたいという陛下の礼です」
時平は言葉を探すように、視線を宙に泳がせた。
「父はこれまで命を削って政を執ってきました。名誉だけを与えて、務めを奪うことが、礼だと……?」
その瞬間、道真の胸に若き日の記憶がよぎった。
貞観の末、京の北の小川のほとり。
論語をめぐって語り合った春の日。
『君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず』、その言葉の意味に時平は悩んでいた。
そして、自分は『君子は異なる意見を持ちながらも礼をもって和を保つ』と答えてみせた。
君子たる者、たとえ異なる考えがあろうと礼を尽くせば理解し必ずや納得してくれる。まして礼を尽くすのは帝なのだ
道真は刹那時平を見つめ、静かに目を伏せた。
彼の者には理解できぬか
どれほど言葉を尽くしても、届かぬ者がいる
学問とは、心を鍛える術であり、感情に溺れる者には決して届かぬ領域
道真は、冷ややかな思いに囚われた。
この者は、学びの門を叩いたが、決してその奥には入れない。
小人なのだ
哀れだとも思った。
だが、同時に浅い情に溺れる凡庸さが滑稽でもあった。
「……陛下の御意は、太政大臣の功を讃えるものです。政の形が変わることは、礼を欠くことではありません」
道真の言葉に時平は何かを言いかけたが、それが口から発せられることはなかった。2人の後を継いだのは広目であった。
「『太政大臣にして、阿衡の任にあたらしむ』――これにて、詔といたしましょう」
天皇は頷いた。
道真は恭しく頭を垂れる。
聖断は下されたのだ。何人ももはや口を挟むことはできない。
時平はそのやり取りを見つめながら、父がどのような反応を示すか、恐れ、震えた。
2025/11/22 初稿




