芒種
昌泰三年、春。
紫宸殿の奥、御帳台の間。天皇は、文を伏せ、静かに思案していた。十五の帝にとって、政はまだ遠い。しかし耳元には日々、さまざまな声が届いては天皇を悩ましていた。
その日、控えていたのは蔵人、藤原某。
「御上。近頃、内裏の外にて、少々気がかりな噂が立っております。」
天皇は顔を上げた。
「噂とは。」
「斉世親王の御名が、民の間に囁かれていると申します。」
斉世親王。宇多法皇の第一皇子。かつて皇太子に立てられながら、病を理由に退けられた人物。今の帝が即位する以前、正統の継承者と見なされていた者である。
「……斉世親王は、すでに出家しておられる。」
「はい。されど、かつての御立太子の経緯もあり、いまだに一部の者の間では、真の帝と崇める声があるようにございます」
天皇は、しばし黙した。
蔵人は、言葉を選びながら続けた。
「しかも、その声の中に右大臣の御名が添えられていることがあると……」
「右大臣だと? 道真が、何か関わっていると申すか」
「いえ、決してそのようなことを申すつもりはございません。とは言え……右大臣は理を重んじる御方。
理は、時に情を越え忠をも越えることがございましょう」
その言葉は、あくまで控えめだったが、その控えめさこそが、かえって疑念を深めることになった。
「陛下の御代は、すでに始まっております。されど、かの御心が、いまだ院の御方に向いておられるのではと、そう申す者もございます」
それは、明確な断定ではなかった。だが、若き帝の胸に、ひとつの影を落とすには十分だった。
道真は、法皇の寵臣であり、学問の師であり、政の片腕でもあった。
故に今もその忠誠の矢印が、法皇に向いていたとしても……
帝の胸の内にそんな疑念の芽が生まれた。そして生まれた疑念は枯れることなくじわじわ成長を始めた。
2025/11/22 初稿




