黄落
宇治川のほとりに、いつの間にか秋の風が吹いていた。
芒が揺れ、川面はちらちらと陽の光を反射していた。
その岸辺に、二人の男が立っていた。
1人は右大臣、菅原道真。
もう1人は左大臣、藤原時平。
それはほんの偶然であった。御所を退出し屋敷に戻ろうとしていた時平が牛車から外を見た時、宇治川のほとりに一人佇む姿を見かけたのだ。そのいでたちから道真と一目で分かった。
牛車を止めると時平は1人道真の傍らに立った。
道真は見返すことなくただじっと水面を見つめていた。
かつて、この場所で出会ったことがあった、と時平はかの日のことを思い出していた。
貞観の末の春の日、若き学徒として、論語を語り合ったあの日。
道真は川の流れから目をそらさずにぽつりと呟いた。
「川は理に似ています。曲がらず、ただ進む。
たとえ、どこへ流されようとも」
時平もまた川面に目を落とし、静かに言葉を返した。
「理はしょせん、身を任せるだけのもの。
私は流れを作る者になったのです」
その言葉には、勝者の余韻があった。
参議たちへの発言力、帝の信任、そして今では官位もすべては時平が道真を上回っていた。時平は、今や政の流れを操る立場にあった。
道真は黙し、しばらく川を見つめていた。だが、ゆっくりと口を開いた。
「流れを作る、とは。
水をせき止め、形を変え、己の都合に合わせることですか」
時平は目を細めた。
道真は続ける。
「それは理ではありません。
それは、策です。
策は人を動かすが、心を動かすことはありません」
その声は静かだった。
だが、どこか遠く、冷ややかで、時平の言葉を正面から受け止めていない。
むしろ、その勝利宣言を、幼いものとして見下しているような響きがあった。
「かつて、私はここである若者と話したことがありました」
時平の胸がカチリと音を立てた。
この男も憶えていたか
時平は傍らの道真へと顔を向けた。
胸の内に熱いものが込み上がるのを感じる。あの頃の情熱が蘇る思いがした。
「若者は学問の門を叩き、学びたいと申しておりました。が、未だに門の辺りで戸惑っているようで……
かの者が学問の真髄を知ることはないかもしれません」
時平の顔色がみるみる白くなった。
「学問の真髄を知る者。君子ですか?
君子などにどれほどの力があると言うのですか?
『君子は和して同ぜず』と誇ってみても、ただ1人であれば和すことも同することもできないでしょう。それはただの孤立というものです。たった1人では何もできはしない。今のあなたにはそれがわかるはずです。あなたがその頑なさを捨て、同するというならば、共に歩くこともできると思いますが?」
道真は返さなかった。
風が吹き、芒が揺れ、川面は相変わらずきらめいていた。
道真は、時平に一礼し、何も言わずに背を向けた。
その歩みは静かで、揺るぎなかった。
川の流れのように、ただ前へ進んでいく。
時平は、その背を見送った。
そして、誰にも見られぬように、歯を噛みしめた。
勝ったのは自分のはずだった。
地位も、言葉も、政の流れも、すべて掌にある。
なのに、なぜ……
この胸に残る敗北感は何故なのか?
道真の沈黙は敗者のものではなかった
何故認めようとしない?
何故ここに歩み寄ろうとしない?
時平は、拳を握った。
秋の風が、一際大きく芒を揺らした。
目にものを見せてやる
あの沈黙を、あの超然を、打ち砕いてやる
今、政の、いや世の流れを作っているのが誰であるのか思い知らせてやる
必ず……
宇治川のほとり。そこは今も昔も変わらない。しかし、離れゆく二人の間には、言葉では埋まらぬ溝ができていた。
2025/11/22 初稿




