春嵐
昌泰二年、春。
紫宸殿に朝の光が静かに差し込んでいた。
簾の向こう、梅の香がわずかに漂う。
除目の日。
新帝のニ度目の人事が宣下される日である。
文官たちは正装に身を包み、列を整えていた。表面上はいつもと同じに見えたが、誰もが、異常な緊張でその場に居並んでいた。それと言うのも今日の宣旨についてまことしやかに囁かれていた噂があったからだ。
宣旨が読み上げられる。
「左大臣に、藤原朝臣時平」
場に音にならないさざ波が立った。
左大臣。太政官の最高位。
時平は、ついにその座に就いた。
時平は、列の中方に控えていた。
その顔には、何の動きもなかった。ただ、静かに礼を取る。だが、その胸の奥では、確かな火が灯っていた。
勝った
道真は、列の前方にいた。右大臣として、政務の頂に立っていたが、今日の宣旨でそれを時平が飛び越えた。
異例の出来事と言っても良い。しかし、道真は静かに目を伏せるだけであった。
驚きも、動揺もなかった。ただ、深く一礼する。
これが、朝廷の選びし秩序。
道真はそれを受け止めた。
理は時には道を譲る。だが、それでも、理は沈まぬ。その思いがあるからだ。
だが、公卿たちは違う。
ざわめきを抑えながら、互いに目を交わした。
「……道真公を越えて、時平公が左大臣とは」
「家格の力か、それとも……」
「いや、これは政の流れが変わる兆だ。」
「右大臣は理を語るのみ。左大臣は我らが血筋。これは、これは……面白くなってきた」
その日、紫宸殿には、春の光とともに、見えぬ裂け目が走っていた。
時平は、静かに立ち上がった。
理は孤立し、血は群を成す
これは至極当然のことであり、結果である
もはや笑みを浮かべるほどのこともなし
変わらぬ表情が、そう物語っていた。
2025/11/22 初稿




