邂逅
貞観の末。
春の風が京の北山を撫でる頃。
清らかな宇治川のほとりに、ひとりの若者が書を広げていた。
名は藤原時平。名家の出自ながらまだ中務少丞として大学寮に通う身であった。
その日、彼は『論語』の一節に思い悩んでいた。
「『君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず』とは、いかなる意味なのか……」
眉を寄せて考え込んでいると、背後から声がした。
「もしよければ、少しだけ意見を述べても?」
声の方へと振り返ると、そこには直衣姿の青年が1人。穏やかながら、どこか鋭い眼差しをしていた。
時平は少し照れたように笑った。
「ええ、ぜひ。僕はまだまだ未熟でして……中務少丞を仰せつかっております。」
青年は軽く頭を下げた。
「それはご立派です。私は文章生、菅家の者です」
「菅家……文章博士のご子息ですね。お噂はかねがね。いや、こんなところでお会いできるとは」
時平は目の前の青年がその才で名高い菅原道真である事を知り、少し身を固くした。それを認めつつ道真はにこやかな笑顔で答える。
「いえ、私もただの学徒です。学問を愛する者として、こうして語らえるのは嬉しいことです」
時平は手に持った書を差し出しながら言った。
「この句がどうにも腑に落ちなくて。君子が“同ぜず”というのは、どういうことなんでしょう。」
道真は差し出された書を一瞥すると
「子曰、君子和而不同、小人同而不和」と、小さくつぶやいた。
彼にしてみれば論語をそらんじることなど、春の陽の下、微かに薫る梅の香を含む風を吸い、吐き出すのに等しいかのようだった。
「……“和”は心の調和、“同”は表面の一致。君子はたとえ意見が違っても、礼をもって接すれば、その意を理解し和を保ちます。しかるに小人は形だけ合わせて、内には争いを抱える。小人は自分と異なる意見のものを許さず排斥しようとする。
そういうことかと」
時平は目を見開き、しばらく黙ってから、ぽつりと呟いた。
「なるほど……そうか。
僕は『同ぜず』を、孤立することだと思っていた。でも、違うんですね。礼があれば、違っていても和がある」
道真は、時平の素直な反応に少し驚きながらも、どこか嬉しそうに微笑んだ。
こんなことも分からぬのか……いや、でも、まっすぐだ。こういう人となら、話していても悪くない
「中務少丞殿は、学に真摯でいらっしゃる。私も、学問を語る友が欲しかったところです」
「それなら、これからも文を交わせたら嬉しいです。僕、もっと学びたいですから」
「ええ、こちらこそ」
これを機会に2人は顔を合わせると、親しく学問について語り合う友となった。
2025/11/22 初稿




