27.洛陽への帰還(地図あり)
興平2年(195年)9月 司隷 弘農郡 華陰
弘農郡西端で起きた李傕たちとの戦闘は、俺たちの大勝利に終わった。
本来、倍近い兵力を誇った敵が負けたのは、奴らに致命的な欠陥があったからだ。
「初めまして。鎮護将軍の孫策 伯符です」
「鎮東将軍の張済だ。今後はよろしく頼む」
なにしろ味方だったはずの張済が、密かに裏切っていたのだから。
元々、賈詡によって抱き込まれていた張済は、何食わぬ顔をして李傕側に立っていた。
そして戦が始まると、時期を見て反旗を翻したわけだ。
彼自身の手勢は2千人ほどと少勢だったが、後方から襲われてはたまらない。
大きく動揺した敵陣営に対し、俺たちが攻勢に出ると、奴らは脆くも崩れ去った。
さすがに李傕や郭汜の首は取れなかったが、多くの涼州兵が戦場の露と消えている。
今後、奴らは朝敵として糾弾されるので、その先行きは決して明るくないだろう。
そんな形で戦闘が決着すると、俺たちは揃って劉協陛下の下に参内し、その旨を報告した。
すると陛下は殊のほか喜び、俺たちをねぎらってくれる。
そしていくらかの調整を経たうえで、新たな将軍位が発表された。
段煨:驃騎将軍
張済:車騎将軍
孫策:衛将軍
董承:前将軍
表向きは今回の戦闘を主導した段煨が最上位となり、張済も勝利に貢献したとして次席になった。
そして俺は今までの功績をまとめて評価され、3席の衛将軍に就任だ。
董承は年齢的には俺よりだいぶ上だが、功績面から4席となった。
他の3人よりだいぶ若い俺が3席に収まったのは、政治的な意味合いが大きい。
なにしろ俺の他は全て、旧董卓軍の出身だ。
今は味方についているが、また李傕たちのように横暴を働く懸念は拭い去れない。
そこで太傅 馬日磾の下で忠勤に励んできた俺に、白羽の矢が立ったというわけだ。
さすがに驃騎将軍にするわけにはいかないが、衛将軍として他の将軍ににらみを利かせろってことだろう。
本来なら俺の功績が断トツなのだが、さすがに俺は若すぎる。
段煨らの面子を立てることもあって、俺は淡々とそれを受け入れた。
そして戦闘の翌々日には、頼もしい協力者も姿を見せた。
「初めまして、孫将軍。賈詡 文和と申します」
「やっと会えましたね、賈詡どの。孫策 伯符です」
「周瑜 公瑾です」
それは今回の東遷を実現した立役者、賈詡である。
李傕たちが天子を追ってから、彼も長安を抜け出したのだ。
そして少し迂回して李傕らを避けながら、この華陰にたどり着いたわけだ。
そんな賈詡は40過ぎの、目立たない人物だった。
しかし一見、おとなしそうな彼の頭脳には、並々ならないものがある。
おかげで李傕たちだけでなく、天子にも面倒を押し付けられ、苦労してきたと聞く。
しかし自身の権勢を強めるためでなく、他人のために能力を振るうその姿勢には、好感が持てる。
「李傕ら旧董卓軍の撃退、おめでとうございます。さすがは音に聞こえた孫軍団ですね」
「いえ、今回は大したことはしていません。むしろ賈詡どのが万事、筋道をつけてくれたからこその成功です」
「いえ、こちらこそ大したことはしておりません。将軍らの援助がなければ、とてもこうはいかなかったでしょう」
俺たちも謙虚な方だと思うが、賈詡も相当なものだ。
天子が長安を出られるよう根回しをしたのも彼ならば、張済の寝返りを説得したのも彼なのだ。
その能力は折り紙付きである。
そんな賈詡だからこそ、この先の協力は不可欠だ。
幸いにも彼の態度は好意的で、今後も上手くやれそうである。
俺たちはしばし歓談しながら、友好を深めていった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
興平2年(195年)10月 司隷 河南尹 洛陽
李傕らを退けた翌月には、天子一行を護衛しながら、洛陽にたどり着いた。
しかしそこは董卓に破壊され、その後も放置されていたので、ひどい状況だった。
「……ううむ、これは聞きしに勝る荒廃ぶりだな」
「はい、陛下。残念ながら我らにこれをただちに整える力はなく、再び居を構えることは当面、見送るべきかと」
「……そうだな。今回は祖先の墓を修復し、祭祀を行うにとどめよう」
「ご英断であられます」
元より洛陽の惨状は皆の知るところであり、そのまま留まるのは難しいと進言してあった。
しかし劉協陛下は、一度は状況を確認したいと望み、足を運んだわけだ。
実際に洛陽の荒廃ぶりを目の当たりにして、ようやくふんぎりがついたのであろう。
そして陛下は俺たちに、墳墓の修復を命じた。
洛陽にある歴代皇帝や公卿たちの墓は、董卓の命令で暴かれ、副葬品などが略奪されていた。
噂では俺の親父(孫堅)がいくらか修復したらしいが、しょせん応急処置である。
そんな乱れた皇帝の墳墓を、俺たちはできるだけ修復して、周辺を清めた。
そのうえで陛下が祭祀を行い、祖先に報告したわけだ。
いくら董卓のやったこととはいえ、洛陽を捨てざるを得なかったことを、内心で侘びているのであろう。
まだ少年と言っていい劉協陛下の心中は、いかばかりか。
それから俺たちは最寄りの都市である、平県へ移動した。
この都市は洛陽に近いうえに、四方を山河に囲まれて守りやすいという利点がある。
もちろん洛陽には比べるべくもない小都市だが、荒廃した洛陽よりはよほどマシだ。
俺たちは協議のうえ、ここを仮の住居として、漢王朝の立て直しを図ることにしたのだ。
しかし陛下の取り巻きたちには、ずいぶんと渋られた。
なにしろ天子さまをお迎えするような設備に乏しいからだ。
陛下にふさわしい権威や格が足りないなどと、やかましいことこのうえない。
王朝の権威が大きく揺らいでいるこのご時世に、のんきなものである。
幸いにも陛下自身が理解を示してくれたため、平への移動は実現した。
あくまで仮の住居ということで、洛陽を首都とする予定である。
取り急ぎ腰を落ち着けて、中華全土に号令を掛け、洛陽の修復も並行して進める形だ。
しかしようやく天子を擁立できたとはいえ、内外に問題は山積みだ。
はたして漢王朝は再建できるのだろうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
建安元年(196年)1月 司隷 河南尹 平
年が明けて年号を建安とし、洛陽を再び首都とする旨を、中華全土に宣言した。
それに合わせて地方に割拠する群雄に対し、朝廷に帰順するよう促してもいる。
現状、俺が平定に協力した揚州、徐州、豫州、兗州は、すんなりと朝廷に従った。
加えて公孫瓚の治める幽州、青州も同様だ。
最大の懸案は袁紹が治める冀州であり、賊徒の跳梁する并州である。
さらに司隷の西側には旧董卓軍がまだのさばっているし、涼州も韓遂や馬騰の支配下だ。
ちょっと微妙なのが、荊州と益州である。
一応、荊州は劉表、益州は劉璋と、有力な漢の宗族が治める形になっている。
ところがどちらも朝廷に協力的でないのだ。
一方の劉表は荊州の混乱が収まらないと言って、兵も金も出そうとはしない。
実際にはそれほど混乱していないのに、朝廷とは距離を置きたがっているようだ。
もう一方の劉璋は、実際に州内が混乱していて、連絡を取るのもままならなかった。
特に漢中には五斗米道という妖賊(宗教関係の賊)が居座り、朝廷との連絡を遮断している有様である。
こちらは協力的でないというより、州を統治する能力がないと言うのが正しいだろう。
そんな中、朝廷は最大の懸念である冀州に対し、改めて詔勅を下した。
袁紹と曹操は朝廷に帰順し、冀州を明け渡すようにという命令だ。
おとなしく降れば、朝廷に背いた罪は不問にするとしている。
しかし袁紹たちが、はたしておとなしく降伏するだろうか。




