幕間:曹操は雪辱を果たせない
俺の名は曹操 孟徳。
中原に覇を唱えんと日夜、奮闘する者だ。
とは言うものの、徐州で負けてからはいい所がない。
なにしろ3万を誇った軍勢を、半分以上も失ってしまったからな。
おかげで兗州の軍閥や賊徒どもが活気づき、足元さえ覚束なくなってしまう。
こうなったのも徐州牧の陶謙のせいだが、その陰には揚州勢の暗躍があったらしい。
帰還後に調べてみると、元長沙太守 孫堅の息子、孫策が援軍に駆けつけたそうだ。
しかもその背後には太傅 馬日磾や、廬江周家が付いているという。
道理で手強いわけだ。
この孫策の軍勢が曹仁の別働隊を破り、さらには本隊の背後を脅かしたおかげで、俺は敗走せざるを得なかった。
おのれ、孫策。
返す返すも忌々しい。
しかしこの程度でくじけたりはしない。
今までだってさんざん、困難な状況を乗り切ってきたのだ。
必ずや軍勢を立て直し、奴らに復讐してやる。
そう決意を固めると、俺は精力的に動き回った。
州内の結束を高めつつ、不穏分子を討伐していったのだ。
ある程度、武威を示すと、州内も落ち着いた。
思えば俺は、勝ちが続いて傲っていたのかもしれんな。
そこへ父の訃報が届いて激怒し、不用意に侵攻してしまった。
その結果がこれだ。
しかし幸いにも命は拾えたし、陣営内の結束も強まった。
これを良き教訓として、さらに精進するとしよう。
とりあえず、喫緊の課題としては軍勢の再編だな。
それには金や兵糧が足りないので、袁紹に借りることにした。
業腹だが仕方ない。
なんだかんだ言って袁紹も、俺が倒れればまずいことは分かっているのだろう。
意外に簡単に援助してくれた。
そうして州内の守りを固めていたのだが、嫌な噂が聞こえてきた。
「揚州から豫州へ援軍が出ただと? しかも汝南の平定に着手する?」
「はい、太傅 馬日磾の指示で、豫州刺史 郭貢に例の孫策が協力し、汝南郡を平定しているそうです。すでに黄巾残党の大物も倒したとか」
「チッ、また孫策か。余計なことを……しかし豫州は相当な混乱にあったはずだ。生半可な戦力では鎮圧できんだろう」
「それが揚州勢と合わせて、2万を超える兵力を投入しているようです。しかも相当、戦慣れした軍勢らしく、大した被害もなく黄巾残党を討伐したとか。おかげで沛国と汝南の東南部は、すでに落ち着きを取り戻している模様です」
「……そんな馬鹿な」
ちょっと信じがたかったので、さらに詳しく調べさせると、孫策はその後も快進撃を続けているとの連絡が入った。
やがて汝南郡は完全に平定され、今後は豫州の北部に取り掛かるとも。
俺は危機感を覚え、参謀の荀彧と程昱に相談する。
「荀彧よ、このままではまずいぞ。豫州が平定されれば、次はこの兗州だ」
「はい、曹操さま。馬日磾は上手く周辺勢力を取り込み、袁紹さまと曹操さまへの包囲網を形勢しつつあります。豫州が平定されれば、間違いなく兗州へ手を伸ばすことでしょう」
「うむ、なんとか事態を打開したいが、良い手はないか?」
そう問いかけたが、荀彧たちは厳しい顔で首を横に振る。
「敵側を切り崩せないかと探ってみたのですが、なかなか隙がありません。前回の徐州侵攻を撃退した件で、陶謙や公孫瓚は馬日磾に恭順しています。さらに公孫瓚と険悪だった劉虞さまも、馬日磾の仲介で和解したとか」
「くそっ、さらに豫州が平定されれば、郭貢もそこに加わるわけだな。馬日磾がそれほどに有能だったとは、思いもしなかったぞ」
しかし荀彧はそれを否定してきた。
「いえ、馬日磾が単独でそれを成せたとは到底、思えません。彼自身は戦力を持たず、朝廷の権威も地に落ちているのですから」
「ではなんだと言うのだ?」
「おそらく孫策、さらにはその裏に居る廬江周家が、真の仕掛け人でしょう。この者たちの動向には、今後も注意が必要です」
「……たしかに。揚州で袁術を追い出し、徐州でも俺の邪魔をした男だからな。しかしヤツは、まだ成人もしていないのだろう?」
「若くとも武勇だけは、確かなものがあるのでしょう。足りないところを周家が補っていると考えれば、合点も行きます」
「……そういうことか。いずれにしろ、軍勢の増強を急がねばな」
「はい、今はそれに集中しましょう」
その後も軍勢の再建に注力していると、意外な訪問者があった。
「呂布 奉先だ。袁紹どののところで世話になっていたのだが、こちらで必要だと言われてな。騎兵の指揮は得意だから、使ってくれ」
まるで雇われるのが当然という顔で、呂布がやってきた。
どうやら袁紹の下で働いていたらしいが、あいつも持て余したのだろう。
援助の一部という体裁で、こちらへ寄こしてきた。
正直、丁原や董卓という主を裏切ってきた男など、とても信用できない。
しかしヤツは数百人の配下を連れているし、騎兵が欲しいのも事実だ。
ここは危険を承知で、使ってみるか。
結局、俺はヤツを客将という形で雇い、騎兵の編成や訓練を任せた。
その手腕は確かなもので、我が陣営は確実に強化されている。
しかしこの男、何かにつけて要求が多いのが困りものだ。
やれ人員が足りない、兵糧が足りない、武具が足りないなどと、いつも何かを要求している。
なまじ優秀であるだけに断りにくいのが、また厄介だった。
おそらく袁紹もこれに嫌気が差して、厄介払いしたのであろうな。
しかし今の俺には、必要な力だ。
ここは不満を飲みこんで、せいぜいこき使ってやろう。
やがて興平元年の末には、豫州が平定されたとの報告があった。
あれほど混乱していた豫州を、1年余りで鎮めるとはな。
そこには馬日磾の指導力もあろうが、やはり孫策が大きく貢献したと聞く。
ますます侮れん存在になってきた。
幸いにも奴らは、すぐに兗州へ押し寄せる余裕はないらしい。
この間に少しでも多く、戦力を積み増しておこう。
また袁紹に援助を頼まねばな。
なに、どうせ俺とあいつは、一蓮托生だ。
このうえは遠慮なく引き出してやる。
最終的に生き残っていればいいのだ。
そして徐州での屈辱を、今度こそ雪いでやろう。
そして年が明けると、周辺に動きがあった。
どうやら豫州、徐州、青州、幽州、そして司隷との州境に、敵の軍勢が集結しつつあるらしい。
予想していたとはいえ、俺たちの状況は厳しい。
最大の問題は、敵の主攻方面がどこかだ。
「敵の主力は、どれだと思う?」
「は、徐州だという噂がありますが、これは陽動でしょう。実際には豫州の梁国に、大軍が集結しつつあるようです」
「やはりか。そうすると敵は、最短距離でこの鄄城を狙いに来るのだろうな」
「おそらくは」
「うむ、それで敵の主将はやはり、孫策か?」
「ええ、十中八九、間違いないでしょう」
「そうだろうな。しかし今度はこちらが守る番だ。徐州での借りを、たっぷりと返してやろうではないか」
「はい」
そして春になると、奴らは攻めてきた。
敵の主力は、こちらの読み通りに豫州の梁国だ。
この時のために俺は、この済陰郡に大軍を集めていた。
その半分近くは新兵だが、熟練兵と有力武将のほとんどをかき集めた。
他の州境など、兵とは名ばかりの農民ばかりだからな。
もし攻められでもしたら、ひとたまりもないだろう。
しかし俺は賭けに勝った。
この軍勢でもって孫策を降し、豫州や徐州も手に入れてやろう。
そう意気込んで戦ったものの、やはり敵は手強い。
最初に大きな激突が起きてからは、守りに入られた。
かといって何もしないわけではなく、しばしばこちらを引きこんで叩く戦法を繰り返す。
おかげで味方に負傷兵が増え続け、戦力が漸減していた。
さらに厄介な事態が、追い打ちを掛ける。
「兵の士気が低下しているだと?」
「はい、こちらが援軍の当てがないのに比べ、敵はいくらでも補填されるなど、悲観的な噂が広まっています。加えて呂布どのの悪評も広まり、しばしば揉め事も起きている様子」
「むう……明らかに敵の工作だな。嫌らしい手を打ってくる」
「はい、しかし有効な手です。このままではいずれ……」
「皆まで言うな。噂を流す者を取り締まりつつ、食料や酒の配給を増やそう。それからこちらも密偵による扇動工作や、敵の補給妨害を強めるのだ」
「かしこまりました」
その後、妨害工作に手を焼きつつも、なんとか対処していると、新たな報告が上がってきた。
「敵も焦れてきたのか、全力攻勢に出る動きがあります」
「そうか、こちらの工作が効いたようだな」
「はい、本拠地を背後に抱える我らに比べ、あちらは兵站の維持にも苦労している様子。さらに兵士の不満を煽ったので、我慢できなくなったのでしょう」
「うむ。そして目立ちたがりの孫策は、必ず前に出てくる。そこを一気に仕留めるぞ」
「はい!」
クククッ、ようやく決着をつける時がきたようだな。
こちらも着々と手を打っていたのだ。
必ずや孫策の首を仕留め、豫州へ逆撃してやるわ。
そして決戦の当日は、朝から戦場がピリピリしていた。
そんな緊張感の中、軍鼓と銅鑼が鳴り響き、敵軍の侵攻が始まる。
1ヶ月以上も戦い続け、敵も疲弊しているはずなのに、その士気は高いようだ。
このままでは我が軍はジリ貧に陥るので、なんとしてもここで決着をつけてやる。
いよいよ前線で戦闘が始まり、俺も指揮に忙殺される。
そうしてなんとか戦線を維持していると、とうとう孫策が前に出てきた。
どうせ味方の損害を抑えるためとでも言って、出てきたのだろう。
その判断を後悔させてやるわ。
やがて孫策の部隊が突出したのを確認し、俺は全軍に指示した。
「全軍で孫策を包囲し、討ち取るのだ!」
「はっ、ただちに」
よ~し、これで勝ったも同然だな。
ヤツの首を取った暁には、どうしてくれようか。
ん? 思った以上に粘るな。
すぐに崩れるかと思っていたが、いまだに陣形を維持している。
んん? ひょっとして、こちらの方が押されていないか?
どういうことだ!
「伝令! 呂布どのの騎兵隊が壊滅した模様。さらに両翼の部隊も逆撃を受け、苦戦中。援軍を求めています!」
「な、なんだと! そんな馬鹿な」
俺は見張り櫓のひとつに昇って、戦況を確認した。
すると我が軍が劣勢に陥っているのが、遠目にも分かった。
それに比べ、敵軍の連携の見事なことよ。
まるで全体がひとつの生き物のようだ。
これほどの指揮を執れる者が、敵にはいるのか?
その後も敵軍の勢いは留まることがなく、味方の劣勢は強まるばかり。
俺が呆然として固まっていると、荀彧が進言してきた。
「曹操さま、ここは一時撤退し、雪辱を期しましょう。生きてさえいれば、やり直せます」
「……う、うむ、そうだな。て、撤退だ!」
「「「はっ」」」
しかしこれほど無様に負けて、はたして雪辱など果たせるのだろうか。
これでは兗州の維持すら、難しいかもしれんな。




