第二話【ベレノ】
第二話【ベレノ】
誰かが部屋の扉をノックする音で、目が覚める。
ベッドへと飛び込んだ俺は、いつのまにか眠っていたらしい。
俺はもそもそとベッドから這い出て、ふらふらと叩かれた扉の方へと向かう。
「ふぁぁ……はーい……。」
眠たげに目をこすりながら扉を開けると、綺麗な紫の瞳と目が合った。
幻想的で鮮やか、それでどこか爬虫類っぽい瞳。
まるで宝石みたいだと思った。
「……あの、いいでしょうか?」
じっと見つめてくる俺から、気恥ずかしそうに目をそらすベレノ。
俺はそこでハッとして、改めてベレノの方を見る。
「夜まで眠っていたようですが……具合はどうですか?少しは良くなりましたか?」
ベレノは俺を心配して、わざわざ部屋まで訪ねて来てくれたらしい。
そう言われて窓の外を見ると、確かにもう外は真っ暗になっていた。
「先程の葉っぱを煮出したハーブティーを入れてもらってきました……良かったらどうぞ」
そう言ってベレノは、ハーブティーが入っているらしい、陶器製のポットを俺に差し出してくる。
「ありがとうございます……良かったら一緒に飲みません?」
俺は昼間のお礼も改めて言おうと、ベレノをお茶に誘う。
ベレノは少し戸惑うような仕草を見せたが、静かに頷いた。
もしかして迷惑だっただろうか。
俺は早速ベレノを部屋へと招き入れようとするが、部屋の中はお茶を飲むには暗い。
つい癖で扉の側の壁あたりをぺたぺたと触り、明かりのスイッチを探すように手を動かす。
「……何を、しているんですか?」
そんな俺を、不審がるような目で見るベレノ。
そしてベレノが軽く指を鳴らすと部屋の中の明かりが一斉に灯った。
なるほど、この世界の明かりはこうやってつけるのか。
後で練習をしておいたほうがいいかもしれない。
「本当に、大丈夫ですか……?やはり頭を怪我した影響が……」
小さな丸テーブルを挟んで向かい合うように席に着くと、ベレノのひんやりとした手が俺の額へと当てられる。
俺はどう説明すべきか迷って咄嗟に、ベレノのその言葉に便乗する事にした。
「じ、実は……そうな、のよ!あの時からちょっと、記憶が……曖昧、というか、その……。」
あまりにもぎこちない出だしに、俺は内心でも焦りまくる。
半ばパニック状態になりかける俺の手を、ベレノが優しく握ってくれる。
「落ち着いて……ゆっくり、深呼吸……すぅ……はぁ……。」
俺はベレノの誘導に従って、一緒にゆっくりと深呼吸をして気を落ち着かせる。
そのおかげもあって、少し落ち着くことができたように思う。
「……すいません。おかげで落ち着きました、わ……。……ありがとうございます。」
俺はベレノに感謝の言葉を述べながら、握ってくれたベレノの手をそっと握り返す。
「……そう、なら良かったです。」
ベレノはまた少し目をそらすものの、俺の手を振り払ったりすることはなくそのまま握ってくれている。
「……。」
「……、……。」
そして互いに手を握ったまま、謎の気まずい沈黙の時間が訪れる。
俺はその空気に耐えきれなくなって、先に口を開く。
「あ、あーえっと……ハーブティー、入れてくださったんです、わよね?飲みましょう飲みましょう……!」
そう言って俺は一旦席を離れるとさっき部屋を物色してる間に見つけた、ティーセットからカップと皿を2つ持って席へと戻る。
そしてポットでハーブティー注ごうとしたのだが、緊張からかうっかりとこぼしてしまう。
「あ、ああっ!ごめんなさい!すぐに拭きますね!」
そう言って俺は咄嗟に、服の袖でこぼしたお茶を拭う。
そんな俺の行動に、目を疑うような表情をするベレノ。
しまった。今のも完全にお嬢様っぽく無い行動だった。
「ふっ……ふふっ、ふふふっ……!」
すると突然、ベレノが吹き出すように笑い始める。
突然笑い始めたベレノに今度は俺が困惑していると、ベレノは腹を抱えるほどしばらく笑った後で顔を上げる。
「ふふっ……変な人ですね、あなた。」
聞きようによっては罵倒にも聞こえるセリフを、笑いながら言われてしまう俺。
しかしそんなベレノの笑顔に、俺も思わず釣られて笑ってしまう。
「ふ、ふふっ!すいません、ほんと……ふふ……っ。」
妙なツボに入ってしまい、謝りながらも笑ってしまう。
今度は笑いで震える手を必死に抑えながら、俺はなんとか二人分のハーブティーをカップに注ぐ。
「はぁ……本当変な人……。」
少し目に涙を浮かべるほど笑った後で、ベレノは小さくため息をつきながら注がれたハーブティーを口にする。
「……あ、美味い……。」
二度目の変人認定を受けながら、俺もハーブティーを一口。
先程直接葉っぱを鼻の下につけて吸った時のような草っぽさは全く無い、軽やかで爽やかな香りがした。
俺とベレノのは、しばしのまったりとしたティータイムを過ごす。
「……あなた、普段からそんな感じなんですか?」
やがてカップを置いたベレノが、俺へと質問を投げかける。
「あー、あーいや……えっと……そう、といえばそう……かも?」
断片的な記憶からしかメイとしての人物像を把握できていない俺は、またもや言葉に詰まってしまう。
ベレノのじとーっとした疑うような目が、俺に向けられる。
ここで目をそらしたら、何か負けるような気がして俺はそのベレノの目を見つめ返す。
「……私、ラミアだからわからないのですけれど、人間の女性ってそんな風に脚を開いて座るものなのですか?」
またしても俺の見つめ攻撃に目をそらすベレノだったが、カウンターに鋭い質問をぶつけてくる。
俺はハッとして無意識に大股開きになっていた自分の脚を閉じる。
たしかに前世の俺は股の間に荷物を抱えていた都合上、脚を開いて座るのが自然だった。
だが今の俺の身体は女性。つまり股の間に荷物は無いのだ。
俺はベレノに何かを試されている気がする。
「い、いやっ……それは、人による……と思います、わ。」
女性でも開く人もいれば閉じる人もいる。間違いは言っていないはずだ。
俺は気を抜くと開いてしまいそうになる脚を必死に閉じながら、平静を装ってハーブティーを飲む。
「ふぅん……そうなんですね……。」
注がれたハーブティーを飲み終えたベレノは、カップを皿の上へと戻すと部屋の中を見回し始める。
なんだ、何か変な物でも置いてあるのか?
もし置いてあったとしてもそれは俺のせいでは……いや、俺のせいになるのか?
などと考えていると、不意に俺の脚に何かが触れる。
「ぅおっ……!?」
小さな声でお嬢様らしからぬリアクションをしてしまう俺。
テーブルの下を見れば、俺の右足首にベレノの尻尾の先が巻き付いている。
俺はすぐにベレノの方を見るが、ベレノは素知らぬ顔で部屋の中を見回していて、こちらに目を向けようとはしない。
どういうつもりだろうか。
何かベレノの癇に障るような事をしてしまったか?
かといって命の恩人の尻尾を蹴っ飛ばすわけにもいかない。
「あのー……ベレノ、さん?」
俺は恐る恐るベレノへ声をかけてみる。
「……何でしょうか?」
呼ばれる声に反応して、ベレノはちらりとこちらへ目を向ける。
「えっと、その……足の、これは……。」
俺は苦笑いを浮かべながら、自身の右足を指さす。
するとベレノは一瞬不思議そうな顔をした後、ちらりとテーブル下で俺の右足首に絡みついている自分の尻尾を確認する。
そして少し恥ずかしそう目をそらしながらに、おずおずとその尻尾を引っ込めた。
何だったんだろうか。
ますます理解できないベレノの行動に、俺は思い切って聞いてみる事にした。
「あの、どうしておr……じゃない。私の足首に尻尾を?」
危うく俺と言ってしまいそうになるのを慌てて回避しながら、俺はベレノに尋ねる。
するとベレノは言葉に迷った様に、口を開いたり閉じたりを数度繰り返す。
「……ま、間違えました……テーブルの足と。」
そして少し恥ずかしそうに俯きながら、そう答えた。
なるほど。確かにテーブルの足も今の俺の足もどちらも細いから、間違えたのなら仕方がない。
きっとラミアには尻尾を何かに巻きつける癖みたいなものがあるのだろう。
俺は勝手にそう納得する。
「なるほど。まぁベレノさんになら、巻き付かれても困りませんけどね!」
その尻尾に命を救ってもらったのもあるし、と冗談混じりに言う俺。
しかしそれに対するベレノの反応は俺の予想もしないものだった。
「なっ、何を……ほ、本気ですか……?」
ベレノは俺の言葉にかなり驚いたような表情を見せたかと思うと、何故だか頬を赤らめながらまた俯いてしまう。
また何か不用意な事を言ってしまっただろうか。
思えば、妹も時々こんな反応をする事があった。女心は難しい。
「でも……私達会ったばかりですから、その……まずはお友達から、よろしくお願いします……」
そう言って手を差し伸べてくるベレノの手を、俺はよくわからないまましっかりと握り返す。
「わかりました!お……私の事は気軽に、メイと呼んでください!」
流石にテンセイと呼んでもらうわけにもいかないので、俺はそう言いながらベレノの手を握り上下にぶんぶんと振る。
「あ、ええ……じゃあ私の事はベレノと呼んでください……」
力強い握手に、やや引き気味なベレノ。
俺はそんなベレノの手を離すと、気になっていた事を聞いてみる事にした。
「ベレノ……さんは、歳はおいくつなんですか?」
呼び方に少し迷いながら、俺はベレノに年齢を尋ねる。
見た感じ俺と同じくらいに見えるが、見知らぬ種族のラミアの年齢が見た目相応とは限らない。
年上に失礼があってはいけないので、念のためだ。
「と、歳は……。」
ベレノは少し言いづらそうに口籠る。
しまった、いきなり女性に年齢を聞くのは失礼だったか。
「わ、私は2……17です!あ、でも無理に答えなくても大丈夫ですよ!」
慌ててフォローを入れようとして、咄嗟に前世での年齢を答えそうになる。
違う、こっちでの俺はまだ17歳だ。高校で言えば2,3年生くらい。
ベレノは見た感じ、20代前半くらいだろうか。
「……結構、若いんですね。……私は人間の年齢で言うと22くらいです。」
22歳、という事はやはり俺と同じくらいの歳だ。
とはいえここはどう見ても俺が元居た世界とは違う。
定番の同世代トークなんてしても伝わらないだろう。
「私、ラミアって初めて見ました!この辺りには多いんですか?」
なにか話題を振ろうと思って質問をするが、少し質問の仕方を間違えた気がする。
「え、いや……それはわかりませんけど、ラミアは基本的に里から出ないから……あまり外で見かけることは少ないかもしれませんね……。」
俺の奇妙な質問にも困惑気味に答えてくれるベレノ。
このあたりの領主の娘なら俺のほうが詳しくなければおかしいのだから、今の質問は失敗だった。
俺はまだ、こっちの世界の事を知らなさすぎる。
この機会に色々とベレノに質問して探ってみようか、と考える。
「……そういえばベレノさんは、どうして助けに来てくれたんですか?」
馬車が襲撃を受けたあの道は街からも少し離れていたし、あまり人通りが多いような道でも無いように見えた。
偶然通りかかったのだとしたら、かなりの奇跡だろう。
「どうしてって……あなた方が救難信号を出したからでは?」
また変なことを言い出したなこいつは、というような目で俺を見るベレノ。
救難信号?そんなもの出しただろうか。
「あ。赤い光の……?」
そういえばあの時、化け物に向かって打とうとした短銃みたいな道具があったのを思い出した。
どうやらあれは銃ではなく、救難信号を発射するための道具だったらしい。
「そうです……あの近くで薬草を採取していた時に赤い光が見えたから、急いで駆けつけたんです。」
ベレノは追加のハーブティーを、自分と俺のカップに注ぎながら語る。
必死だったとはいえ、結果的にあの行動が俺とアルバートの命を救ったわけだ。
「そうだったんです、のね……いや、本当にありがとうございました!本当、あの時ばかりは死ぬかと……。」
あの時の事を思い出すと、今でも手が震えてしまう。
俺は生きている事を実感するように自分の胸に手を当てる。
「……でも、あのゴブリン2匹はあなたが倒したんですよね?」
ベレノはハーブティーを少し口にして、カップ越しに俺へと目を向ける。
あの時は自分でも何であんな事ができたのかわからない。
ただ必死で、ただ身体が勝手に動くような感覚に任せた行動だった。
もう一度同じことがやれるかと言われると、正直言って自信が無い。
「えっ?いやあれは、その……本当にまぐれで……。」
俺は誤魔化すように苦笑いを浮かべながら、ハーブティーを口へ含む。
「嘘ですよね。」
俺の言い訳をあっさり見抜いたような冷静な指摘に、思わず口に含んだハーブティーを吹き出しそうになる。
「げほっ!げほ!……な、なんでそう思うんです?」
俺は図星を指され、軽くむせながらベレノへ理由を問い返す。
「あのゴブリンは2匹とも的確に目、心臓、頭などの急所を貫かれて死んでいました……ただの領主の娘に、そんな芸当ができますか?」
ベレノの言葉に、苦しいところを責められる。
確かに普通のお嬢様には到底できないだろう。
だが、この家はただの領主の家系では無いのだ。
「それはー……あの、あれです。ウチ、先代勇者?の血を引く家系なので……」
俺はメイとしての記憶を頼りに、考えうる限りで一番納得できそうな言い訳をひねり出す。
ふわっとした俺の返答にベレノはまたじとーっとした目を向けてくる。
そんな目で見られても、俺にだってわからないよ。
「……そう言われれば、あなたそっくりですものね。」
ベレノのそんな言葉に俺は小首をかしげる。
そっくり?誰に?何が?
「……さっき、この屋敷を少し案内してもらいました。その時に、先代の勇者……つまりあなたの家のご先祖様とされる人物の絵画を見ました。」
そう言いながらベレノはゆっくりと俺の顔を指差す。
「こうして見てみると、確かにそっくり……というかまるで生き写しのようですね。先代の勇者は何百年も前の人らしいですが。」
ベレノはそう言って小さく息を吐きながら、カップを皿に置く。
そしてまた、俺へと疑いの目を向けてくる。
「……あなたは何者?ただの変な人?それとも……」
「っ私は!ベレノさんの友達……ですよ!」
怪しむベレノの言葉の続きを聞くのが何だか怖くて、俺は
ベレノの言葉を遮るように食い気味に返事をしてベレノの手を握る。
「……ふふっ。本当に変な人ですね、あなた……。」
必死な様子の俺を見てベレノは、小さくほくそ笑む。
そしてベレノは自分の手を握る俺の手の上にそっと、また手を重ねてくる。。
俺はベレノのそんな仕草に、少しドキっとしてしまう。
「……友達なら、さん付けじゃなくて……呼び捨てで呼んでもらえますか?」
ベレノの宝石のような紫の瞳が、俺をじっと見つめる。
俺は何故か蛇に睨まれた蛙のように動けなくなってしまう。
「で、でもベレノさんは年上の方ですし……。」
俺は挙動不審になりながら言い訳をする。
「嫌ですか……?」
言い訳する俺に、ベレノは少し拗ねたような声で問い返す。
そんな目で見られたら、嫌と言えるはずも無い。
「うぐっ……嫌というわけでは、ないんです、けれど……。」
正直言って、妹以外の女性を呼び捨てにした事は無い。
異性とそこまでの関係になった事も無いと言えば、わかるだろうか。
「それとも、何か言えない理由でもあるんですか……?」
すりすりと俺の手を指先でなぞるようにしながら囁くベレノ。
俺はそんなベレノの圧に耐えきれず、やがてゆっくりと口を開く。
「ベ……ベ、レノ……。」
何かものすごい辱めを受けているような羞恥心を覚えながら、俺はベレノの名前を呼んだ。
ベレノは少し満足したような顔を見せると、そっと俺の手を離した。
「ああ、そういえば言い忘れていたのですが……。」
ベレノが思い出したように、おもむろに話を切り出す。
俺は初めて妹以外の女性を呼び捨てにしてしまった奇妙なドキドキに胸を押さえる。
それから気を落ち着かせるためにハーブティーを口にしつつ、ベレノの話に耳を傾ける。
「私、しばらくここに滞在する事になりましたので……。」
衝撃的なベレノの言葉に俺は今度は口に含んだハーブティーを思い切り吹き出した。
「ぶふっ!……え、な、何故です……?」
俺は服の袖で、吹き出してしまったハーブティーを拭いながら慌てて問い返す。
「あなたが寝ている間に、あなたのご両親から是非助けたお礼をさせて欲しいという話になりまして。」
ティーカップを片手に、淡々と話し始めるベレノ。
そういえばアルバートも後ほどちゃんとしたお礼を、と言っていた。
その事に関しては俺も何かお礼をするつもりだったから、納得できる。
「それで聞いたところによれば、メイ……あなた勇者としての鍛錬を良くサボっているらしいですね。」
怪訝な瞳を向けられ、俺は目を泳がせる。
確かに流れ込んだ記憶によれば、俺は鍛錬をまともにやっていない。
何故サボっていたのかは、今の俺には知る由もないが。
「先代の勇者は剣技だけではなく、魔法にも長けていたと言います……そこで私を、これから1年間に渡ってあなたの魔法の先生として雇いたい、という話になったのです。」
理解できましたか?というような目で俺の方を見るベレノ。
俺は理解はしつつも、とんでもない事になってきたなと内心で焦り倒す。
「……というわけですから、私は今日からあなたの友達で先生です。どうぞよろしく。」
「……ヨ、ヨロシクオネガイシマス……。」
ほくそ笑みながら差し伸べてくるベレノの手を、俺は震える手で握り返した。
◆◆◆
ベレノと出会い、ベレノが俺の魔法の先生になってから数ヶ月が経った頃。
俺は今日もベレノの下で厳しい修行に励んでいた。
「ベレノ……っ!っはぁ……!はぁっ……!キツい……っ!」
俺は何故か魔法の修行と言いながら、ベレノを背中に乗せた状態で腕立て伏せをさせられていた。
夏のような暑い日差しが照りつける中、屋敷の庭での修行。
俺は汗だくになりながら、修行開始前より少しはたくましくなった手足で必死に腕立て伏せを繰り返す。
長い金の髪が汗ではりついて余計に暑い。
「あと10回です。頑張ってください。」
ベレノは俺の上で日傘なんて差しながら、時折俺の脇腹を尻尾で叩いてくる。
こんな運動部みたいなキツい筋トレが、どう魔法の修行に繋がるのだろうか。
「っふ!っふー……!う、ぐ、あああっ!!」
俺はとてもお嬢様とは言えないような雄叫びを上げながら、必死に腕立て伏せを続ける。
「はい……それではその状態で魔法の基礎訓練を開始してください。」
なんとか腕立て伏せのノルマを達成し疲労困憊状態の俺に、ベレノは背中から退くと急かすように手拍子をしながら言う。
少しは休ませてはもらえないだろうか。
俺はヤケクソ気味になりながら立ち上がり、胸の前で両手を向かい合わせるようなポーズを取る。
そして手の中にボールを作るようなイメージで、力を込めていく。
曰く、これが魔法を使うための基礎訓練の1つ。
魔力を練り上げる、という工程らしい。
しばらくすると、俺の両手の中にぼやっとした渦のような物が見え始める。
これが魔力の流れというものだそうだ。
修行を開始してすぐの頃は、これを見ることも俺はできなかったのを考えると、少しは成長しているだろうか。
「最低でも拳大くらいのサイズを1分維持してください。」
必死に頑張る俺の横で、冷たい飲み物なんかを飲みながら言ってくるベレノ。
くそう。羨ましい。
俺は必死に集中して魔力の渦を球体状に形成しようと試みるが、どうにも渦がブレてうまくまとまらない。
そうこうしている間にも俺の体力は暑さにどんどん奪われていく。
やがて魔力の渦が渦を保てなくなり、弾け飛ぶように霧散してしまう。失敗だ。
「……はぁ。失敗ですね。……極限状態でも、そのくらいの事ができないと勇者は名乗れませんよ。」
やれやれとため息をつきながら、俺が必死に汗水垂らしてもできない事をベレノは息をするように指先でやってのける。
先生と呼ぶにふさわしいと言うべきか、やはり魔法使いとしては格が違うようだった。
「あ゛ー……!」
俺は何だか嫌になってしまって、叫びながら芝生の上へと仰向けに倒れ込む。
照りつける日差しの他に、やはり鬱陶しい長い金髪が暑さを加速させている。
こんなに暑いのなら切ってしまおうか。
でもメイに申し訳がない。いやでも俺がメイなんだから俺がどうしようと自由なのでは?
そんな謎の自問自答を繰り返し、暑さでまともに回らない俺の頭は答えを導き出した。
「……髪、切る……!」
◆◆◆
その日の夕方。
日も沈み始め、少しは涼しくなった頃。
俺は使用人に頼んで、髪を短くしてもらう事にした。
「……本当に、よろしいのですか?お嬢様……。」
使用人の女性が、もったいなさそうな口ぶりで俺の長い髪を櫛で梳かしながら言う。
髪を短くしたとしても、いずれ伸びる。
それよりもこの暑さに負けて修行がまともにできない事のほうが問題だ。
俺は静かに頷き、まっすぐ自分が映る鏡を見つめる。
やがてその長い髪へハサミが入り、徐々に短く切りそろえられていく。
「……お嬢様。お嬢様?……終わりましたよ、お嬢様。」
散髪が終わったことを告げる使用人の女性の声で、俺は目を覚ます。
どうやらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。
どうして散髪ってこんなにも眠くなってしまうのだろうか。
床には結構な量の長い金髪が散乱している。
これだけの量が頭からぶら下がっていたのだから、そりゃ重いし暑いだろうなと改めて思う。
そして軽く頭を左右に振ると、頭が凄く軽く感じて感動さえ覚えた。
「ありがとう……とてもすっきりしたわ。」
俺はお嬢様っぽい口調に気をつけながら、使用人の女性へお礼を言って微笑む。
あとの掃除などを使用人に任せ、俺は一旦自分の部屋へと戻る事にした。
「これなら明日の修行はなんとかなりそうだな……。」
独り言を言いながら部屋の扉を開けると、ベッドの上にベレノが座っていた。
「あら、今日の修行は終わったなんて誰が言いましたか?」
当たり前のようにいるベレノに、俺はシンプルに驚く。
「ベ、ベレノ……!?なんでここに……!?」
俺はドッキリ系ホラーでも見たような速さで脈打つ胸に手を当てながら、中に入って扉を閉める。
「今日の分のノルマが終わるまでは、寝かせませんよ……?」
ベレノは俺のベッドを占領するように寝転がりながら、ほくそ笑む。
「はぁ……わかりましたよ、先生。」
俺はため息をついてベレノの前へと移動すると、昼間と同じ様に胸の前へ両手を持っていき集中し始める。
力を手の中心へ集めるようなイメージで。
渦ができたら今度はそれを固めて、球体を作っていく。
昼間のように疲弊した状態では無いおかげか、比較的スムーズに魔力を練り上げられている気がする。
渦のブレが徐々に収まり、やがて丸く形成されていく。
できた。と俺が油断したその瞬間。
「ひゃんっ!?」
ベレノの尻尾が俺の脇腹をつっつき、俺は自分でも驚くような可愛らしい悲鳴を上げながらバランスを崩し床に倒れる。
同時に集中が完全に途切れ、せっかくできていた魔力球が弾けて消える。
「ふっ……ふふっ。……集中が足りませんね。」
俺の悲鳴がそんなに面白かったのか、ベレノは吹き出すように笑いながら見下ろしている。
ベレノを恨みがましい目で見た後、仕方なく修行を再開する。
その後も何度かあったベレノの妨害を乗り越え、ノルマを達成する頃にはもう夜になっていた。
◆◆◆
「はぁ……はぁ……できた。ベレノ!でき……」
ようやく拳大の魔力球を1分間維持する事に成功した俺は報告しようとベレノを呼び、そちらを見る。
だがあろうことか、ベレノは俺のベッドの上で静かに寝息を立てているではないか。
俺が時間をかけすぎたせいで、待ちきれずに寝てしまったのだろうか。
小さくため息をついて魔力球を消すと、そっとベレノに布団をかける。
普段から寝不足なのだろうか。ベレノの顔には出会った時から、目の下に酷いクマがあった。
せっかく寝ているのだから起こすのも何だと思い、俺は静かにベッドから離れようとする。
「んっ?!」
しかしそんな俺の腰を何かが掴んだ。この感触は……ベレノの尻尾だ。
俺はそのまま、捕食されるようにベレノの眠るベッドへと引きずり込まれる。
そしてあれよあれよ言う間に、がっしりと全身に尻尾を巻き付けられてしまった。
「……ベレノ、ベレノさん……?」
俺はそっとベレノへ声をかけるが、返ってくるのはむにゃむにゃとした寝言と寝息だけ。
寝ぼけているのだろうか。
ここ数ヶ月で知った事だが、ラミアという種族は何かに尻尾を巻き付けていると落ち着く性質があるらしい。
そういえば初めてあった日にハーブティーを飲んでいた時も、俺の足首に尻尾を巻き付けてきていた。
きっとベレノなりに緊張していて、本人も言っていたようにテーブルの足と間違えて巻き付けてしまったのだろう。
あの時に比べれば、俺も少しはベレノにもこの世界にも慣れた気がする。
最初は名前を呼び捨てにする事に抵抗があったものの、呼び捨てにしないと返事をしてくれないというベレノの荒療治によってそれも克服できた。
とはいえ、こんな風に同じベッドで共に眠るような事は流石に初めてで、俺はベレノの寝顔を見ながらどうすべきか考える。
やはりこのままそっと寝かせておくのが良いだろうか。
俺は妹とよく添い寝した事を思い出し、無意識にベレノのぼさっとした長い黒髪を撫でる。
「……あっ、しまっ……!」
勝手にベレノの髪に触ってしまったことに気がついて、俺は慌てて手を引っ込める。
だがしかし、ばっちりと目を覚ましたベレノと目が合ってしまい、緊迫した空気が流れる。
しばし無言のまま見つめ合う俺とベレノ。
「……すみません、いつのまにか寝てしまっていたようです。」
やがて状況を把握した様子のベレノは、俺の身体にからみつけた尻尾を外しながら上体を起こす。
「ああ、いや……結構時間かかりましたから、はは。」
俺は誤魔化すように苦笑しながら、ゆっくりとベレノから離れようとする。
だが、さっきベレノの髪に触れた俺の右手をベレノの尻尾が捕まえた。
「……そんなに触りたいのなら、少しなら触っても良いんですよ。」
手を捕まえられて硬直する俺に、ベレノがそんな事を言う。
それって……髪に?それとも尻尾?あるいは──。
俺が邪な事を考えそうになった瞬間、部屋の扉が開け放たれた。
「姉様!晩御飯の準備ができましたよ!早く一緒に……?」
元気よく扉を開けたのは俺の弟のライだった。
俺とベレノがベッドの上で近い距離で向かい合っているのを、ばっちりと目撃されてしまう。
「あっ……、……。」
ライは歳不相応なくらい大人っぽい愛想笑いをして、そっと扉を閉める。
いや待て、今追いかけて事情を説明しないと何か大変なことになる気がする。
「ごめんベレノ!先に行く!」
俺はベレノに一言断りを入れると、慌ててベッドを飛び出しライを追いかけた。
「……変な人。……ふふっ。」
◆◆◆
ライを捕まえなんとか誤解を解いた俺は遅れて来たベレノや、家族と共に夕食をとった。
途中、父親から魔法の修行の進捗について尋ねられたベレノは俺の方をちらりと見てからこう言った。
「……ええ、とても優秀ですよ、ね?メイさん?」
聞くまでもなく皮肉とわかるその視線に、俺は静かに悔しさとやる気を燃え上がらせた。
「ふう……。」
食事の後のまったりとした時間。
風呂の準備ができるまでの間、俺は自分の部屋でゆっくり過ごす事にした。
だが俺の隣には当たり前のようにベレノが座っている。
「今日のも美味しかったですね……。」
ぽつりと呟くようにベレノが夕飯の感想を述べる。
確かに美味しかった。
こっちでの食事に、最初は見慣れない食材に戸惑いもあったがすっかり慣れてしまった。
「……ところで、ベッドの上でこのような本を見つけたのですが。」
おもむろに俺の腰に尻尾を絡ませながら、一冊の本を取り出すベレノ。
それは俺がこの世界の事を知るために昨日寝る前読んでいた、様々な種族に関する特徴や文化が記された本だった。
しかもちょうど栞が挟まっている位置は、ラミアの種族に関する記述のページだ。
「いや、少し……興味本位で……。」
俺はえっちな本が見つかった時のような反応をして、目を泳がせる。
「……ラミアについて、何かわかりましたか?」
じーっと紫の瞳を向けてくるベレノ。
その目を一瞬だけちらりと見て、また目をそらす俺。
いつかの時の意趣返しのようだった。
やがてベレノは静かに栞が挟まったページを開くと、指で文をなぞりながら読み上げ始める。
「ラミアは、深い森や沼地の付近に生活圏を持つ事の多い種族であり──。」
ラミア種に関する記述を淡々と読み上げていくベレノの声を、俺は静かに聞いている。
「……──また、愛情表現の一種として自らの尻尾を相手に巻き付けて」
読み上げながら、ベレノは俺の腰に巻き付けた尻尾に力を入れる。
これって、そういう事?いや、早とちりするな俺。
それに俺とベレノは肉体的に言えば女の子同士、これもラブじゃなくてライクの方の愛情表現だろう。
だってほら、俺が通ってた学校の女子も何故かトイレに行くのに手を繋いで行ったりしてたし。
「……聞いてますか?」
頭の中で必死に考えているうちに上の空になっていたのか、ベレノが俺の顔を覗き込む。
「あ、ああ、うん。聞いてる聞いてる……」
俺は何故だか心臓をドキドキさせながら、ベレノの方をちらりと見る。
キョドるな。これはライクの愛情表現。
妹と母以外の女性と体育の授業以外でまともに触れ合った事など無いからって、こんなのでドキドキするんじゃない。
それに俺には最愛の妹がいる。
「……じゃあ、初めて出会ったあの日の夜。あなたが私に言った事の意味……理解できましたか?」
ベレノはそっと俺の頬へ手を当てると、じーっと見つめてくる。
初めて出会った日に俺がベレノに言ったこと?
何を言ったっけ?
そんな、とんでもない事を言ってしまった覚えは無いのだが。
「え、えーと……ごめんなさい、なんでしたっけ……?」
考えても答えが見つからない俺は、正直に謝罪してベレノに答えを尋ねる。
「はぁ……やっぱり難しいですね、異文化コミュニケーションは……。」
満足の行く答えを得られなかったベレノは、がっかりしたようにため息をついて俺の頬から手を離した。
かと思えば、急に俺の腰を尻尾で引き寄せるようにして引っ張る。
俺はベレノに膝枕されるような形で、横に倒される。
「……共通の文化でわかりやすく示しましょうか?」
ベレノは俺の頬へ再び手を触れさせると、ゆっくりと撫でるようにして俺の唇の輪郭を指でなぞる。
ヤバい……食われる!
助けて雪!兄ちゃん食われちゃう!
目を細めながら、蛇のように舌先の別れた細長い舌をちろりと見せるベレノ。
そしてベレノの顔がゆっくりと俺に……。
「まっ……待った!」
危うく雰囲気に流されそうになる俺だったが、最後の理性を働かせて顔の前に両手を交叉させガードの構えを取る。
雰囲気に飲まれてこういう事をしてしまうのはやはり、良くない。
俺に拒絶されたベレノは、少し寂しそうな顔をしながら頭を上げる。
「ベレノの気持ちは嬉しい……でも、その前にベレノにちゃんと伝えておかないといけない事があるんだ……。」
俺は身体を起こすと、真剣な表情でベレノに訴えかける。
ベレノは一瞬目を丸くして驚くが、静かに頷いた。
「実は私……いや、俺は……俺は男で、そして雪という最愛の妹がいるんだッ!だからっ!」
必死に説明をしようとした俺は、かなり言葉足らずなセリフを吐いてしまう。
「待って……ええと……何?一旦、整理させて欲しい……。」
いつも冷静なベレノも流石に困惑した様子で、俺の方を逆に心配そうな顔で見つめてくる。
「す、すまない……実は……。」
そうしてベレノに、俺は洗いざらいを話した。
俺には前世での記憶、穂村 天晴という男としての記憶がある事。
それをベレノに助けられたあの時に思い出した事。
前世の俺には最愛の妹、雪がいたが行方不明となった事。
そして前世の俺が車にはねられて死んだ事。
「……だいたい、わかりました。」
最初は信じられない様子のベレノだったが、俺の話を聞いているうちに
今まで感じていた違和感と合点がいったようで、やがて納得してくれる。
「簡単には信じられませんけど、そう考えれば納得が行きますね……あれも、そうか……そうだったんですね……。」
確認するように頷きながら、ある程度の状況を整理し終えた様子のベレノ。
俺は今までベレノを騙していたという罪悪感に、胸が締め付けられていた。
「だから……すまん、ベレノ。いや、ベレノさん。俺は俺だけどメイじゃないんだ……。」
俺は苦虫を噛み潰したような表情になりながら、俯いて自分の膝を爪の跡がつくほど強く握る。
しかしそんな俺の手にそっと自分の手を重ねてくるベレノに、俺は思わずそっちを向く。
「……別に、あなたが前世の記憶を持っていようと、前世が男性だろうと私にとっては関係ありません。……私と出会い、こうしているあなたは私にとってココにいるあなただけですから。」
そんな優しい言葉に、てっきり拒絶され糾弾される物と思いこんでいた俺は思わず泣いてしまいそうになる。
「……まぁ、いきなり女性の年齢を聞いたり、寝ている女性の髪を触るのは男性としてどうかと思いますけれど。」
うぐっ。
照れ隠しのように差し込まれた正論に、俺は一切反論できず自分の胸を抑える。
「ふふっ……変な人だとは思っていましたけど、やっぱり……あなたはとびっきりの変な人でしたね。」
そうして俺はベレノから何度目かわからない変人認定を受けながら、俺の話すことを受け入れてくれたベレノに深く感謝した。
「……これから、私の前でだけは、ありのままの自分で居ていいですよ。」
そう言いながらベレノは俺の腰に巻き付けた尻尾を、俺の背中を撫でるように動かす。
「っ……ありがとう。ありがとうベレノ……本当に……っ!」
自分を偽り続けるような心苦しさから一時的にでも解放された喜びで、俺は少し泣いてしまう。
そしてベレノの両手をしっかりと握り、拝むようにしながら何度も感謝の言葉を伝える。
ベレノは少し気恥ずかしそうにしながらも、俺が落ち着くまで尻尾で背中を擦り続けてくれた。