序章『あの日』+第一章『見知らぬ世界』 第一話【俺とメイ】
序章『あの日』
数年前、俺の5つ年下の妹が行方不明になった。
当時俺は高校3年生で、妹は中学に上がったばかり。
だが小学生の頃から引っ込み思案だった妹は中学に馴染めず、すぐに不登校になってしまっていた。
家はそんな妹と俺、そして俺達を女手一つで育ててくれた母との3人暮らし。
俺は家計を少しでも楽にするため、毎日学校帰りにバイトをしていた。
妹はゲームが好きらしく、俺がバイトから帰るとすぐにゲームを抱えてよく俺の部屋に来ていた。
そんなある日。
俺がバイトから帰るといつもは真っ先に出迎えてくれる妹が、その日は珍しく来なかった。
不思議に思いながら、俺は妹の部屋の扉を叩く。だが返事は無い。
「もしかしてもう寝ているのか……?」
俺はそっと妹の部屋を覗き込む。
部屋の明かりはついていたが、どこにも妹の姿は見当たらない。
トイレにでも入っているのかと思ったが、違うらしい。
もう一度玄関に行って、妹の靴を確認した。
俺の靴の隣に、妹の小さな靴が並んでいる。どうやら外出したわけではないようだ。
それから十分程、俺は妹を探して家中を見て回った。
だが、妹は見つからなかった。
そんなに広くはない、アパートの一室。これだけ探し回って見つからないのはおかしい。
俺はそこで初めて、焦りを感じ始める。
行方不明、失踪、いや誘拐か?
警察に連絡しようか迷っていると、母が帰宅した。
俺は改めて母と一緒に探し回った。
家の中だけではなく他のアパートの住人にも訪ねてまわり、管理人に防犯カメラの映像も見せてもらう。
だがどこにも妹の姿は無く、目撃証言もゼロだった。
俺は狼狽える母を宥めながら、警察に連絡した。
それから、数ヶ月。
未だに妹は見つかっていなかった。
母は精神的な疲労から体調を崩し、ここのところずっと寝込んでいる。
俺は学校から帰ると毎日、妹の情報を乗せたビラを配りながら妹を探し回っていた。
来る日も来る日も、俺は妹を探し続けた。
そしてある日。
俺が学校から帰ると、今度は母が居なくなった。
だいぶ精神的に追い詰められていたのだろう。
机の上には大量のビールの空き缶と薬の包装シート、そして「ごめんなさい」と殴り書かれた1枚の書き置きがあった。
俺はそれでも、ひとりで妹を探し続けた。
あれから数年。
なんとか社会人になった俺は今日も遅くまで残業し、ふらふらになりながら自室のあるアパートへと向かっていた。
その帰路の途中の掲示板に、以前に俺が貼ったと思わしき妹の目撃情報を求めるビラが、色褪せた状態で残っているのを発見した。
妹がまだ生きていれば、もっと背も伸びているだろうか。
俺は疲れた頭で、自分が書いた妹の容姿の特徴などに目を通すと、その古いビラを乱暴に引き剥がした。
なんだか今日はとても疲れてしまった。結局アレから母とも再会していない。
就職してすぐの頃は、仕事が終わった後で同じように妹を探して回っていた。
だがそれも次第に仕事の多忙さに押され、時間を確保する事が難しくなっていた。
数年たっても、目撃情報はゼロのまま。
「だったら妹が部屋の中で、神隠しにでもあったっていうのかよ……。」
俺はなんだか無性に悔しくて、悲しくて泣きそうになる。
もう少しで家族3人で暮らしたアパートだ。
シャワーでも浴びて明日の激務に備えてもう寝よう。
そう思って路地を1歩踏み出した、次の瞬間。
俺の身体は宙を舞っていた。
頭の理解が追いつかないまま、一瞬遅れてやってくる大きな鈍痛。
身体が道路へと叩きつけられるまでの最中、俺を轢いてしまったと思わしき車のドライバーと目が合った。
ああ、くそ。ちゃんと左右を見ておくんだった。
地面へと叩きつけられる衝撃と共に、俺の意識はそこで途絶えた。
第一章『見知らぬ世界』
第一話【俺とメイ】
酷く痛む頭を抱えながら、目を覚ます。
そこは狭い個室のような場所で、奇妙な形の長椅子らしきものが縦に2つ付いている。
頭上に備え付けられている割れた天窓から、光が差し込んでいる。
そして外からは、獣が叫ぶような恐ろしい声が聞こえてくる。
朦朧としながら触れた自分の頭にぬるりとした感触を覚えて、俺の意識はそこでようやくはっきりとする。
「血が……。」
恐らく自分の物であろう、手についた血を見た後で周囲の状況を再度確認する。
どうやらここは、馬車の中らしかった。
それもテレビで見たどこかの国の王室が乗るような、綺羅びやかな装飾が施された馬車だ。
だがその豪華な馬車は横転し、斜めになっているようだった。
俺は出口を探して、先程まで天窓だと思っていた頭上の扉へと目を向ける。
だがよじ登るには長椅子の表面はワックスのかけられた木机のようでツルツルとしており、少し厳しいようだった。
続いて俺はその反対側、今地面になっている壁面へと目を向けた。
そこには衝撃で形がひしゃげてはいるものの、僅かに開いた扉が見える。
あそこから地面を這っていけば、外に出られそうだ。
俺はとにかくここから脱出しようという事だけを考えて、頭からそこへ入り込む。
かなり狭いように見えた馬車と地面の隙間だったが、意外にもすんなりと進むことができた。
「はぁ……一体どうなってるんだ……。」
なんとか脱出に成功した俺が手についた砂を払いながら立ち上がると、そこには目を疑うような光景が広がっていた。
今俺が脱出してきた、岩に乗り上げ横転した馬車と、その運転手らしき初老の男性。
そしてその男性に今にも襲いかからんとしている、緑の肌をした2匹の化け物。
俺が言葉を失っていると、こちらに気づいた男性が俺に声をかけてくる。
「お、お逃げくださいお嬢様ッ!」
緑の化け物に白髪交じりの髪を掴まれながら、叫ぶ男性。
お嬢様?誰に言ってるんだ。
俺は素早く後ろを振り返るが、誰も居ない。
「お早く!!」
それでも必死に声を張り上げる男性に、居ても立っても居られず
俺はいつのまにか男性と化け物の方へと駆け出していた。
「ッオラァ!!」
男性の髪を掴んでいた化け物の頭目掛けて、俺は渾身の膝蹴りを御見舞する。
俺はこれでもガタイはかなり良い方で、身長だってクラスで数えても後ろの方に……。
なんて考えていたら、俺の渾身の膝蹴りが全然効いていない様子の化け物に、俺はスカートを掴まれスカートを引き裂かれた。
「え。」
俺はそこで初めて、自分が奇妙な格好をしている事に気がつく。
赤色のパーティドレスのようなひらひらの服。もちろん女物の。
「お嬢様!?ご無茶をっ……!」
自分の格好に驚く俺よりも驚いた様子の男性が、なんとか立ち上がる。
そのさっきからお嬢様って呼んでるのはもしかして。
俺は確かめるように自分の身体をあちこち触る。
手足も指も細い。まるで女の子みたいだ。
どういうわけかはわからないが、俺は今女の子になっているらしい。
それもフリフリのドレスを着たまさしくお嬢様って奴に。
「お嬢様の身は、私がこの身に代えてもお守りしますぞ……!」
男性はそう言いながら、腰に下げた細い剣らしきものを震える手で抜く。
その刀身の輝きを見るに、安いパーティグッズなどでは無さそうだった。
俺は男性へ加勢するべくして、周囲に武器になりそうな物が無いかを探す。
そこでふと、奇妙な短銃のような形をした物体が目につく。
俺は素早くそれを拾い上げると、化け物へと向ける。
「お嬢様!?それは!」
男性の声も聞かず、俺は思い切って化け物目掛け引き金を引く。
その瞬間、銃口から赤い光が放たれそのまま化け物へ……向かっていく事はなく、
光は上空へと登ると、花火のように弾けた。
俺も化け物共も、呆気にとられて上を見上げている。
攻撃用の武器じゃないのか?!でも、化物も上を見てる今がチャンスだ!
そして次の瞬間。俺は男性の細剣を奪い取ると、化け物の眼球目掛けて迷いなく突き刺していた。
「ギィッ……!?」
不意を突かれた化け物が、怒りの形相でこちらを睨みつける。
一瞬、死を覚悟した。
だが俺の身体はすぐに次の行動を取り、素早い動きで化け物のもう片方の目を潰す。
両目を抑えてのたうち回る化け物。
そこへすかさず止めの一撃を胸部へと突き刺し、心臓を刺し貫き確実に絶命させる。
流れるように出た自分の動きに、俺は少し手が震える。
何故自分でもそんな事ができたのかが、わからないからだ。
仲間をやられ怒ったのか、もう1匹の化け物がこちらへと襲いかかってくる。
その手には粗雑な木製の棍棒のような物を握っていた。
俺は一瞬、隣の男性をちらりと横目で確認する。
男性もまた俺の動きに唖然としているようだった。
そして俺はまたしても感覚に身を任せ、小さく息を吐いて踏み込む。
「はぁッ!!」
俺の放った踏み込み突きが、化け物の脳天へと突き刺さる。
不思議と頭蓋骨などの固さは感じなかった。
頭をやられ、一撃で絶命したと思わしき化け物が握っていた棍棒を落とす。
それを見て俺は突き刺した細剣をゆっくりと引き抜いた。
化け物の紫色の血液らしき物が、剣先から滴り落ちる。
それを見て俺はようやく自分に戻ったようで、緊張の糸が切れたように力が抜けて剣を落としてしまう。
「お嬢様……!」
膝から崩れ落ちそうになる俺を、男性が素早く支えてくれる。
俺は男性に支えられながら、そこに転がる2匹の化け物の死体を見る。
これを俺が?本当に?
悪い夢なら覚めて欲しい、そう思いながら息を整えようとしたその時。
馬車の向こう側から、今倒した化け物の倍以上はあろうかという大きな化け物が姿を現した。
「ッ……!?」
その化け物とばっちり目が合い、俺は硬直する。
どう見たって強そうだ、背丈も倒れた馬車と同じかそれ以上はある。
それに加えて、手には錆びた長剣が握られていた。
「ホ、ホブゴブリン……!?」
突然現れた3匹目の化け物に、男性は驚きたじろぐ。
俺は咄嗟に落とした細剣を拾い上げようと手を伸ばす。
だがしかしそのとき既に、化け物の大振りな攻撃が繰り出されようとしていた。
訳も分からないままにまた死ぬのかと、俺は咄嗟に目を閉じその現実から顔を背ける。
「──ブラック・スモッグ!」
その時、俺の後方から誰かの声が聞こえた。
それと同時に、化け物がうめき声を上げながら体勢を崩す。
見れば、化け物の頭には黒い煙のような物がまとわりつき、化け物の視界を塞いでいる。
俺は考えるよりも早く落とした剣の柄頭をつま先ですくうと、そのまま化け物の喉元目掛けて蹴り上げる。
蹴りの勢いを乗せて放たれた細剣が、化け物の喉へ深々と突き刺さった。
「やったか!?」
俺は咄嗟にフラグのようなセリフを吐いてしまう。
案の定化け物はまだ死んでおらず、視界を奪われても関係ないというように我武者羅に剣を振り回し始める。
俺は腰が抜けてしまったらしい男性を引きずるようにしながら、後ろへと下がろうとする。
だがその時、俺は壊れた馬車の窓ガラスの破片を踏みつけ大きな音を立ててしまう。
即座にその音に反応した化け物の長剣が、俺達目掛けて振り下ろされる。
今度こそ本当に死んだ……!
そう思った瞬間、俺は何かに腰を掴まれ後ろへ引っ張られるようにしてその攻撃を回避する。
バランスを崩し尻もちをつく俺の頭上を、何か黒くて細長いヒモみたいな物が駆けていくのが見えた。
「スネークバインド……チョーク!」
すぐ側から、さっき後方から聞こえたのと同じ声が聞こえた。
俺が咄嗟に振り返ると、そこには紺色のフード付きローブを身に纏った怪しげな女性が立っていた。
謎の女性に気を取られる俺を、化け物の苦しげな咆哮が注意を引き戻す。
そうだ、化け物はまだ生きている。
その女性からもう一度化け物の方へと目を向けると化け物の手足や首には、さっき見た黒いヒモみたいなものが蛇のように絡みつき、強く締め上げているようだった。
「今、ラクにしてあげます……。」
背筋も凍るような、女性の冷たい声に俺は思わず震える。
女性がその手にしている指揮棒のような杖を上へと振ると、化け物の全身から骨が砕けるような音が響く。
そしてすぐに、化け物の呻き声は聞こえなくなった。
「はぁ……大丈夫ですか?」
ため息混じりに女性はそう呟くとかぶっていたフードを外し、俺の方を見る。
するとあまり手入れのされていないようなボサっとした長い黒髪と、紫の瞳の下に深いクマを持つ色白な素顔があらわになる。
俺はハッとして立ち上がり、地面で汚れた手を自分のドレスで拭いながら女性へと手を差し伸ばす。
「ありがとう、助かっ……た?」
俺は命の恩人と言って差し支えないその女性に、感謝を込めた握手をしようとして異変に気がつく。
その女性をよく見てみれば、ローブから覗く下半身は蛇のようになっており明らかに人間では無い。
先程俺を後ろへと引っ張ってくれたのは、どうやらその長い尻尾らしかった。
女性は相手が人間では無い事に気がついた様子の俺を見て、一度握手に応じかけた手を遠慮がちに引っ込める。
だが俺は、その手をやや強引にでも握った。
「……ありがとう。アンタが来なかったら、間違いなく死んでた……本当に助かった。」
俺は握ったその手を両手でしっかり掴みながら、女性の綺麗な紫色の瞳をまっすぐ見て感謝の言葉を伝える。
女性は少し驚いたような表情をしていたが、やがて小さく微笑んでくれた。
「……こんな所でゴブリンと遭遇するなんて、運が悪かったですね。」
まっすぐ見つめる俺と目を合わせ続けるのが気恥ずかしいのか、女性は少し目をそらして化け物共の死体を見ながら呟く。
そう言われて俺は改めてあたりの様子を確認する。
なだらかな草原の真ん中に作られたらしい俺が立っている道からは、前方には森、後方遠くには街のような物が見えた。
この女性は一体どこから現れたのだろうか?
「……いやはや、お恥ずかしい。私が付いていながらこのような事に……。」
先程まで腰を抜かしていたらしい初老の男性が、腰をさすりながら立ち上がる。
そういえばこの人、俺の事をお嬢様って呼んでたけど……。
俺はその男性を上から下までじっくりと観察する。
血や土埃で汚れてはいるものの、気品溢れる紳士服姿にメガネと白いヒゲ。
見た感じお嬢様の、つまり俺の執事というところだろうか。
「先程は危ないところを助けて頂き、誠に感謝申し上げます。このお礼は後ほどしっかりと……ん?どうされましたかな、お嬢様?」
深々と女性へ頭を下げる推定執事の男性が、俺の観察するような視線に気がつきこちらへと顔を向ける。
「あ、いや、えっと……。」
お嬢様と呼ばれて、俺は何か返事をしようとして詰まってしまう。
ちょっと待て、俺はお嬢様として振る舞ったほうがいいのか?
それとも俺、穂村 天晴として──。
などと頭を巡らせていると、ぽたりと何かが俺の服へと滴り落ちた。
「あなた、頭から血が……。」
女性に言われ、俺は自分が頭から出血していた事を思い出す。
それを意識した途端、あっという間に血の気が引いて俺の意識は再び遠のいていった。
◆◆◆
俺が再び意識を取り戻すと、そこはまた馬車の中だった。
だが今回は横転していないようで、馬に引かれているような小刻みな振動が伝わってくる。
「お嬢様、気が付かれましたか。」
俺の隣に座っていた推定執事の男性が、心配そうに俺の顔を覗き込む。
そうだ、俺は頭から血を流して……。
そっと頭に触れると、俺の頭には包帯が巻かれていた。
どうやら俺が気を失っている間に、手当をしてくれたようだった。
「……しばらく安静にしてたほうがいいですよ。……そういえば、あなたのお名前は?」
向かい側の席には先程俺達を助けてくれた女性が座っている。
少し痛む頭を抱えながら、なんと答えるべきかを悩み目を閉じる。
すると不思議な事に、この身体で過ごしたであろう思い出や記憶のような物がじわじわと脳裏に浮かんできた。
そうだ、ここでの俺の名前は……。
「メイ……。メイ・デソルゾロット……。」
噛みしめるように、自分の名前を呟く。
途端、ぼんやりとしか見えていなかった記憶が一気に頭の中を駆け巡る。
俺はあの日の晩、車に轢かれて死んだと思ったら見知らぬ世界で女の子として生まれていた。
しかも俺はこのあたりの領主の娘で、その上……。
再び頭が痛みだす。
入り交じる前世の記憶と俺としての新しい記憶に脳が熱くなり、オーバーヒートしそうだった。
俺は流れ込む記憶に酔ったのか、それとも馬車の振動で酔ったのか軽い吐き気を感じて口を抑える。
「お、お嬢様!大丈夫ですか!?屋敷までは後少しですから、お気をしっかり!」
口を抑えて吐き気をこらえる俺の背中を、素早くさすってくれるこの執事風の男の名はアルバート。
流れ込んできた記憶によれば、祖母の代から我が家に仕える執事だ。
名前を思い出すと、それに釣られるようにアルバートとの思い出が俺の頭に流れ込んでくる。
どうやらこっちでの俺は結構なやんちゃ娘だったらしく、小さい頃から幾度となくこのアルバートに叱られていたらしい。
「だい、じょうぶ……アルバート、ありがとう……。」
俺はこみ上げるものを記憶と一緒に飲み込むようにしながら、アルバートのほうをちらりと見て無理に笑う。
「お、お嬢様が私めに感謝の言葉を!?やはりどこか強く打たれましたか!?頭ですかな!?」
そんな事を言いながら慌てた様子で狼狽えるアルバート。
こっちでの俺は本当にどれだけやんちゃな娘だったんだ?
俺は再びこみ上げる吐き気に、今度こそ吐きそうになる。
そこへ向かい側の女性から、1枚の葉っぱのような物が差し出される。
「これを鼻の下にあてて、ゆっくり呼吸してください。」
不思議そうに葉っぱを見つめる俺に、女性はそう言う。
俺は言われた通り、謎の葉っぱを鼻の下に当てながら静かに深呼吸をする。
すると、葉から香る爽やかな香りが込み上げていた吐き気を瞬時に沈静化させていく。
「気分を落ち着かせる効果のあるハーブです。……煮出してお茶にしたほうが効果は高いですが、直接嗅ぐだけでもマシなはずです。」
そう説明を受けながらも、俺は葉の香りを胸いっぱいに吸い込んで気分を落ち着かせる。
そのおかげか、段々と頭もすっきりしてきた気がする。
やがて馬車が森を抜けると、大きな屋敷へと辿り着いた。
俺の見た記憶によれば、ここがこの世界での俺の家らしい。
両脇にガーゴイル像のような物が並んだ立派な門が開かれ、馬車は屋敷へと近づいていく。
俺はその間に、この見知らぬ世界での俺のプロフィールを頭の中で復唱する。
俺……私の名前はメイ・デソルゾロット。年齢は17歳。
先代の勇者?の血を引く、由緒正しき家系のお嬢様。
家族構成は両親と弟。あとアルバート。
家はこのあたりの森や草原を管理する地主……領主であり、それなりに裕福な暮らしをしている。
いつ勇者として目覚めても良いように、日々厳しい鍛錬を……してはいなかったようだ。
思い出そうとする度に、鍛錬をサボりアルバートに怒られている記憶ばかりが出てくる。
俺は自分の記憶のことなのに、これ以上は思い出したくない気がした。
「お嬢様……お嬢様!着きましたよ。いつまで葉っぱを吸っていらっしゃるのですか?」
気がつけばアルバートが呆れたような顔で、こちらを見つめていた。
どうやら俺が頭の中で記憶を整理している間に、馬車はとっくに屋敷の前へと到着していたらしい。
「……ちゃんとした治療処置を終えたら、少し休んだほうが良いですね。」
心配そうな表情で、俺の方を見つめる女性。
そういえば名前を聞きそびれていた。
「そ、そう……ですわね。ええと……お名前は?」
俺はなるべくお嬢様っぽい口調を意識しながら、その女性に名前を尋ねる。
「……私はベレノ。ベレノ・マレディジオネ……見ての通りの、ラミアです。」
女性はベレノと名乗ると、フードを外しその美人ながら目の下のクマが目立つ顔を見せる。
そしてちらりとローブをめくると、蛇の鱗艶めく下半身を見せてくれた。
俺は初めて見る存在に、ついついその蛇体を食い入るように見つめてしまう。
「……見すぎです。」
ベレノは恥ずかしかったのか、さっとローブを戻すと先に馬車を降りていく。
俺はアルバートに支えられながら、続いて馬車を降りた。
そして両開きの大きな玄関ドアを開くと中には、左右に使用人らしき人たちがずらりと並んでいた。
正面には両親、そして弟と思わしき人たちが心配そうにこちらを見ている。
「メイ!ああ、そんな頭に怪我をして……!」
俺の母親らしき人が、今にも泣きそうな顔で狼狽えている。
「メイ……!良く生きて帰ってきたな……!」
俺の父親らしき人は、うんうんと頷きながら何やら感動している。
そして弟らしき10歳ほどの男の子が、その小さな脚で駆け寄ってくる。
俺はそれを見てふと、妹が家で出迎えてくれてた時の事を思い出してしまう。
「あの、姉様……ボク」
何か言いかけていたその弟を、俺はつい前世で妹へそうしていたように強くハグした。
その瞬間に使用人達が何やらざわざわと騒ぎ出す。
しまった。何か俺らしくない行動をしてしまったか。
「メイ様がライ様を……。」
「よほど怖い目にあったのかしら……。」
「抱きしめるなんて初めて見たわね……。」
ヒソヒソとしながらも、はっきりと聞こえてくる使用人達の反応。
ライと呼ばれたこの子と俺は、そんなに仲が良くなかったのだろうか。
俺は少し困惑した表情でこちらを見上げるライを、抱きかかえるように持ち上げる。
このサイズ感、やはり妹を思い出す。
そうしてライを見ている内に、ぼんやりとライとの記憶や思い出が浮かんできた。
「……おおっとぉ……。」
今、頭を駆け巡った数々の記憶。
具体的に言えば、”2人きりの時だけ弟をべたべたに甘やかす反面、それ以外の時はツンケンした態度を取るメイ”という記憶に俺は思わず声を漏らした。
ツンデレ……いや隠れブラコンだったのか?
気持ちが分からなくもない俺は、自分の事ながらメイに親近感を覚えた。
記憶に従って突き放すべきか?いや、俺にはこんな風に心配して泣いてくれる家族に冷たくするなんてできない。
「ただいま、ライ……心配かけた、わね。」
俺は弟のライをもう一度抱きしめ、優しく微笑みかける。
ライはいつもと少し違う様子の姉に、少し困惑しているようにも見えた。
このまま続けるとボロが出るかもしれない。
「……少し疲れたから休んでもいい、かしら?」
俺はライをそっと下ろすと、皆にそう尋ねる。
ざわついていた使用人達が一斉に慌てて、俺やアルバートの怪我の治療を開始する。
そして治療と着替えを終えた俺は、使用人に付き添われながら自分の部屋へと戻った。
「少し寝るから……誰も入れないで。」
付き添ってくれた使用人に俺はそう伝えると、そのまま寝るわけもなく部屋の中を物色し始める。
お嬢様らしい大きな天蓋付きベッドに、豪華絢爛な化粧台。
化粧台に備え付けられた大きな鏡には、長い金髪に青い瞳をした見知らぬ女性が映っていた。
本当に、これが今の俺なのか……?
自分の顔をペタペタと触って確かめてみた。
信じられない事だが、本当に俺は女の子になってしまっているようだ。
そして俺は部屋の中の探索を続けた。
部屋の壁沿いに並んだ本棚には、何か分厚い本がたくさん並んでいる。
どうやらこっちでの俺は結構読書家だったようだ。
俺の妹も本が好きで、漫画も小説もよく読んでいた。
そしてたまに、オリジナルの作品を俺に見せてくれてたっけ。
きっと妹がここに居たら、目を輝かせて喜んだだろう。
俺は妹のことを考えていると自然と顔が綻んでしまう。
でも結局二度と会えないまま、俺はこんな世界に……。
「雪……。」
俺は沈む気持ちを誤魔化すように、妹の名前を呟きながら大きなベッドへと飛び込んだ。