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密愛

エンジェルフィッシュ

作者: キワ

「えーと、次の角を右で、お願いします」


「右ね」


熟年と呼べる世代に差し掛かったらしいその運転手は、指示通りにハンドルを滑らかに右に切った。


指示を間違えないよう、私は息を詰めてフロントガラスに映る景色を見つめている。


授業が終わった後、何気なく研究室に顔を出したら、達哉さんはいなかった。


「里中先生は、今日は出張ですか?」


「いや、風邪で休んだんだよ。40℃近い熱が出たらしい」


部屋の主の谷田部教授に何気なく尋ねたら、思いもよらぬ言葉が返ってきた。


「鬼の霍乱、という奴だな。タフな里中くんもやられるくらいだから、君も注意しなさい。流行っているらしいぞ」


教授は冗談めかして言ったけれども、私はたちまち不安に襲われる。


教授の取り留めのない話に少し付き合い研究室を出た後、私はすぐ携帯を取り出した。


迷惑になるかなと思いつつ、達哉さんの携帯の番号を押す。


「留守番電話サービスセンターに、接続します」


やや沈黙があった後、無機質な音声が返ってくる。


携帯の電源、入っていないのだろうか。


一応は付き合っていると呼べる関係とは言え、私達はあまり密に連絡を取っていない。


会える時間はほとんど彼の傍で過ごし、研究室で顔を合わせているせいもあってか、改めて連絡を取る必要もない気がしていた。


出張などに出ている時は日に二、三度メールしたりもするけど、普段濃密な時間を共にしていると、メールや電話は無意味に思えてしまう。


だけど、今日はとてもそんな悠長なことを考えられない。


いても立ってもいられなくなり、学校近くのコンビニで冷却シートとスポーツドリンクを仕入れると、私はタクシーに飛び乗った。


達哉さんの家は、学校から車で15分程離れた、高台の閑静な住宅街にあった。


地元ではそこそこ高級住宅街と呼べる場所らしいと、親元住まいの友達に聞いたことがある。


古い石造りの塀越しに、頭を出す常緑樹の林が見えてきた。


そこが、達哉さんの家だ。


「あ、もう少し先で停めてください」


タクシーは指示通りに達哉さんの家の前で停まる。


二千円を超える運賃は、学生の身には痛いけどこの際そんなことは言ってられない。


呼び鈴を押すが、インターホンから応答はない。


もう一度押したが、やはり返事はなかった。


どうしよう。


勝手に入ってしまっていいものかどうか。


でも、やはり心配だ。


意を決してドアノブに手をかけると、ドアはあっけなく開いた。


「お邪魔します……」


私は恐る恐る玄関に上がりこんだ。


大きな家の中は、水を打ったようにしんと静まり返っていた。


達哉さんは何処にいるのだろう。


とりあえずいつもの部屋に行ってみよう。


普段はそこを寝室として使っていると言っていた事だし。


階段を上り、部屋のドアをそっと開ける。


思った通り、達哉さんはベッドで寝息を立てていた。


起こさないように、爪先立ちで私は彼の傍らに近づく。


眼鏡をかけていない達哉さんの顔、しかも寝顔を、こんなに見つめるのは初めてだった。


伏せられた長い睫毛と、鼻筋の通った整った顔立ちが、眼鏡をかけている時より鮮明に映り、わずかに開いた唇がどこか幼く見える。


ふと、眠り姫の童話を思い出した。


鬱蒼とした茨に囲まれたお城の中で、寝息を立てる眠り姫と、伝説に惹かれて彼女の元を尋ねた王子。


この状況が、何故か眠り姫の話とオーバーラップする。


木々に囲まれた静かな家の中に上がりこんで、達哉さんの寝顔を見つめている私。


性別があべこべで、可笑しいのはわかっているけど。


「ふぅ……っ……」


達哉さんの唇から、不意に漏れた溜め息に、私は引き戻された。


額に手を当てると、まだまだ熱い。


私は達哉さんの額の汗をそっと拭い、コンビニの袋から冷却シートを取り出すと、額に貼った。


「……ん」


達哉さんの瞼がゆっくりと開き、熱のせいかとろんとした眼差しが私に向けられる。


「あ、ごめんなさい……携帯繋がらなかったから、勝手に押しかけてしまって……」


「来てくれたんですか。ありがとうございます」


達哉さんは、額の冷却シートをなぞると弱々しく微笑んだ。


どこか儚ささえ感じさせる表情に、私の胸は締め付けられる。


「飲み物、持ってきました」


私はコンビニの袋からペットボトルを取り出した。


「ああ……すみません。頂きます」


達哉さんはペットボトルを受け取ると、喉を鳴らしてごくごくと飲み干す。


汗をかいていたせいか、相当喉が渇いていたのだろう。


「おかげで人心地つきましたよ」


あっという間に半分以上に減ったペットボトルが、チェストの上に置かれる。


いくらか、気分がよくなってくれたようだ。


「お腹、空いてませんか?何か食べたい物あったら言って下さい」


私はずっと手にしていたバッグを床に置いた。


材料を買って来てないから、近所で何か買ってきた方がいいのだろうか。


「その前に、着替えがしたいですね。汗かきましたから」


達哉さんはパジャマの襟を軽く摘んで言った。


確かに、襟元から見える首筋には、うっすらと汗が浮かんでいる。


私は洗面所に降りると、清潔な乾いたタオルを取り出した。


少し考え、もう一枚タオルを取り出すと、熱めのお湯で蒸しタオルを作る。


部屋に戻ると、達哉さんにパジャマを脱いでもらった。


身体を蒸しタオルで拭い、身体を冷やさないようすぐ乾いたタオルで乾拭きしていく。


「ああ……気持ちがいいです」


達哉さんは目を細めて、なすがままにされている。


その表情と浅黒い肌、引き締まった身体。


まるで、従順な黒猫を撫でているようだ。


いつもはこの身体に抱かれて、彼の思うようにされているのだと考えると、妙な気分になってくる。


「八度三分、ですか……まだゆっくりしてないといけませんね」


体温計の数字を睨み、達哉さんは退屈そうに呟いた。


お粥を食べて、薬を飲んだせいもあってか、熱は高いもののかなり調子はよくなってきたようだ。


「折角貴女が来てくれたというのに……」


「無理は禁物ですよ」


私はやんわりとたしなめる。


熱のせいか、眼鏡をかけていないせいか、何だか今日の達哉さんは、いつもよりひどく幼く見える。


時計の針は8時20分を差していた。


急に押しかけたようなものだけど、独りにしておくわけにはいかないし、今日はこのまま泊まるしかないだろう。


「少し、眠りますか?」


まだ本調子じゃないようだし、早めに寝てもらった方がいいだろう。


私は水を向ける。


不意に、手首を掴まれた。


振り返ると、達哉さんが、すがりつくような目で私を見上げていた。


「添い寝して下さい」


「え?」


「貴女を、感じながら眠りたい」


「そ、そう言われても……」


「駄目ですか?」


ひどく弱々しいその声と、少年の瞳。


既に、いつもの彼ではなかった。


断るわけにもいかず、私は服のままおずおずとベッドに入り込む。


彼はたちまち、腕を私の背中に回し、甘えるように頭を摺り寄せてくる。


「ひんやりして、気持ちいいです」


言うが否や、唇がふわりと重なってくる。


「んっ……」


私の中を掻き回す舌は、いつもより高い熱を帯びていて。


やっぱり、熱が下がりきってないんだなと実感する。


無理をさせてはと思い、短めの口づけで唇を離した。


「……」


達哉さんの黒い瞳が、私を見つめる。


その瞳は熱のせいなのか、今でも泣き出すかと思わせるほど潤んでいた。


「……貴女は、僕を……僕だけを欲しがってくれますか」


眉根を寄せた、苦しげな表情。


息をするのを忘れ、水の中で溺れるような、そんなことさえ思わせる表情。


6


「達哉さん……あの、落ち着いてください」


突然に何を言い出すのだろう。


熱のせいなのだろうか。


「もう……他の誰かの代わりなんて、嫌です」


面食らう私に構うことなく、思いがけない言葉が、彼の唇からあふれ出す。


「貴女がもし……そのつもりで僕といるのなら、いっそ僕を捨てて下さい」


何故、こんなことを言い出すのだろう。


始まりこそあんな形とは言え、私は達哉さんに惹かれて、ここにいるというのに。


「……私は、達哉さんが好きで一緒にいるんです」


子供をなだめるように、私は達哉さんの背中を抱きしめてさする。


「本当に、ですか……」


「好きじゃなかったら、こうして押しかけたりしません。だから、安心して下さい」


私は一語一句、言い聞かせるようにゆっくりと告げた。


安心したのかどうかわからないが、しばらくの静寂の後、安らかな寝息が聞こえてきた。


私は安堵の溜息を漏らし、やがて同じように夢の中に引き込まれていった。


翌朝、目を覚ますと達哉さんはいつもの落ち着いた彼に戻っていた。


「おはようございます」


「熱、下がったんですね」


「貴女のお陰です」


「そんな……」


身体を起こそうとして、私は身体の異変に気づいた。


頭が熱くて、身体がだるい。


起き上がろうにも、力が入らない。


「……うつしてしまいましたか……申し訳ないです……」


達哉さんはすまなそうに目を伏せた。


「もう一日大学休みますから、後で病院行きましょう」


「はい……」


全身を覆う倦怠感に引きずられるように、私は再び目を閉じた。


しばらくして、私はあの言葉の意味を知ることとなる。


彼に影を落とす、苦い記憶を。


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