29.泥沼へようこそ?
………死ぬかと思いましたわ。
猪突猛進突っ走る王太子に引き摺られて、広大な王宮の廊下を、ドレス姿で駆け抜けたわたくし。
……うん。偉いですわ。
もう、ちょっと死にそうなぐらい息が切れて、淑女の仮面が片鱗も残っておりませんけれど。
やり切りましたわ。
まだ五歳でよかったですわぁ。ヒールの高い靴でしたら、転んで足をくじいてましたわね。
……あら?この場合、王太子を巻き込んでこけた方が良かったのかしら。
ようやく息が整ってきて、わたくしは顔を上げます。
雲のとけ込んだ青空から、柔らかな日差しが……。
え。青空?
予想外の景色に焦って見回すと、どうやら王宮の庭園のようです。
――なあに?さすがに、外に出ようとしたら門番に止められる?
そうね。
でも、王太子と公爵令嬢が、芝生の上に直に座っている現状も、充分どうかと思いますの。
付いてきた近衛は、距離を置いて見守る姿勢です。
じとっと見ても、さりげなく視線を逸らされ、助けてくれる様子はありません。
まあ、近衛ですし?王太子から助けてくれるだなんて、元々期待していませんけれど。
我が家の使用人でさえ、遠巻きにしてますからね!
もう!後でお仕置きですわ!!
…………。
現実逃避のネタが尽きたので、嫌々ですが、隣の王太子に向き直ります。
……何これ。
生け垣に背中を埋めて体育座りしている様は、ただのいじけた子供です。
お顔がお膝にくっついちゃってますけど、まさか、泣いているんじゃあありませんわよね?
……ええ。放っておきましょう。
さりげな~く立ち去ろうとすると、まだ中腰にもならない間に、手を掴まれました。
「……行くな」
くっ、面倒臭いですわね。
「こうろん中に暴力をふるう方とは、お話したくありませんわ」
「…………」
あら、撃沈?
いえ。握る力が強くなっておりますわね。
「……お前には、しない」
「あねぎみには、いつもあのような事をなさっていらっしゃいますの?」
「………はじめてだ」
自分でやっといて、泣くんじゃありませんわよ。
――え?自分が許せなくて泣くとか悶絶?
幼クァル様刺さる?早く慰めてやれ??
イヤですわ。どうして暴力をふるった側を慰めないといけないんですの?
まあ、女性の刺客が色仕掛のふりしていきなりグサリ、とか、よくある話ですから?女に手を上げるなとは言いませんけどね。
口で勝てないから、手を出す。これは最低ですわ。
――え?わたくしが言うのかって?何の事ですの?
大体、カッとなって手を上げる人間なんて、どんなに反省しても、またカッとなった時に同じ事をするんですわよ。
DV男、怖いですわぁ。
まあ、俺様とかヤンデレって、デートDVの基準で言ったら、ほぼアウトですものねぇ。“星花”の俺様王子に、その素質があっても不思議じゃあありませんわ。
……わたくし、逃げていいかしら?
え?できるものなら?
ええ。これだけがっちり手を握られていたら逃げられませんわよ。
だから何!?
「……お戻りになった方が、よろしいのではありませんの?じかんが経つほど、謝りにくくなると申しますわよ」
渋々、諭すような事を口にいたしますと。もぞりと顔を上げた王太子が、わたくしを睨みます。
「……僕が悪いって言うのか」
「他ならぬ殿下が、そう思っていらっしゃるのではありませんこと?」
適当に返すと、王太子はまた、膝に沈みます。
「僕は、悪くない」
って、ちょっと!
わたくしの手を持ったまま膝を抱えるんじゃありません!!
「ちょっと、殿下!」
間近で怒鳴るわたくしに、王太子は再び顔を上げ…………鼻先ぶつかりそうなわたくしに気付いて、真っ赤になります。
「近い!!」
「殿下がひっぱるからですわ!!」
わたくしの指摘でようやくわかったのか、慌てて手を放す王太子。
よし。逃げましょう。
庶民女が人でなしとか喚くのを黙殺し、立ち去る決意を固めて。わたくし、重大な事に気が付きました。
……逃げるって、どちらへ?
いえ、セレナータ妃の所に戻りたいのですわよ?
でもね。
もしかしたら、町一つくらいの大きさはあるのではないかと思われる王宮。
そして、王宮訪問やっと三回目のわたくし。
更に、王太子の逃走中盤……いえ、ほぼ序盤からドレスの裾だけを見つめて引き摺られていた為、記憶に残らない以前に、目にしてもいない往路。
……道順どころか方角さえわかりませんわ!!
誰かの案内がないと動けないじゃあありませんの!
――近衛?
王太子の傍に残るに決まっていますわ。
――我が家の使用人?
敢えて記憶していないに決まってますわ。“王宮の内部構造”なんてヤバい代物、一貴族の使用人が覚えていていい訳がないでしょう。
……え!?もしや、退路が断たれてます!?
ここに連れ込まれた時点で、王太子が立ち直るまで動けないとは。
王太子……ただのお子様かと思いましたのに、なんという策士!!
「――さあ。殿下、お立ちになってくださいませ」
とりあえず。
逃走の決意はなかった事にして、さもそのつもりであったかのように、手を差し伸べてみます。
まだ赤みの引かない顔で、わたくしを見上げ、それからわたくしの手を見つめて。王太子は、わたくしの手を取ります。
「おま……そなたは、わたしの、婚約者だ。――あいつらには、渡さない」
いや、立ちなさいよ。
手、取ってませんでした。取られました。
がっちり掴まれて動けない、再びです。
もーっ!何がなんでも慰めさせるおつもりでして!?
そうはいきませんわよ!?
「――殿下?わたくし、物ではありませんわ」
わたくし、毅然とお説教を始めました。
いえ、王政ですから?
将来的には、わたくしを含めたこの国の全ての者が、この方の所有物なのですけれど。
それはこの際置いておいて。
「誰かのところへ置いておいたからと言って、その方の物になる訳ではありません。たとえば……殿下はさきほど、妃殿下のところへ行かれ、お話をされました。それで?殿下は、妃殿下の物になられまして?」
呆れを隠さず肩をすくめて見せると、王太子は目を怒らせます。
「なる訳がないだろう!」
「ええ。わたくしも同じですわ。妃殿下に教育を受けても、妃殿下の物にはなりませんのよ」
きっぱり言い切るわたくしに、王太子はまだ難しいお顔です。
ならば。
「そもそも、殿下とわたくしの婚約は、王命によるものですわ。おなじ王命で動かれている妃殿下が、わたくしを、殿下から引き離そうとなさるはずがないでしょう?」
残念な事に。とは、口に出さなかったはずなのですが。
何故か沈黙する王太子。
……どうして引っ張るんですの?
引っ張るな引っ張るな体重を掛けるな!
こら!!両手を使うんじゃありません!!
半ば引き摺り下ろされるようにして、無理矢理座らされたわたくし。
思わず、身分を忘れてキッと睨み付けてしまいましたが、王太子は王太子で、わたくしを睨んでいます。
「……お前は、何も知らないんだ」
王家の内情なんて知る訳ありませんわ。
……あら?
え。待って。
これ、このまま語られる流れ!?
婚約解消の足枷になりそうな事なんて知りたくありませんわ!!
これ以上、逃げ道を塞がないでくださいまし!!
わたくしは貴族同士で結婚して優雅に暮らしたいんですのよぉおおお!!!
さくっと王太子が語って次に行くはずが、ハグしたい王太子と絶対拒否のアリア様の間でバトルが勃発してしまいました。
とりあえず、手を握るで痛み分け。