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第2章

 秀一は忙しく動かしていた足をぴたっと止めた。

彼の眼前には、一軒の特筆すべきことのない家屋がある。

インターホンを鳴らすと間もなくして、

中から40代前半と思われる女性が顔を出した。

「あら、秀一君じゃない。どうぞ中に入って」

東島(とうじま)さん、急に窺って済みません。お邪魔します」


 案内された応接間で、長椅子に浅く腰掛ける秀一に、

東島は冷たい麦茶を差し出した。

「あ、お構いなく」

秀一は遠慮がちにもてなしを啜る。

初めのうちは強張った顔から緊張が読み取れる彼であったが、

麦茶が喉を通る度に、それは徐に解れていった。


 秀一に向かい合うようして、東島が腰を下ろす。

「いよいよ明日ね」

「そうなんですけどね。どうにも自信が湧かなくて……。

 そもそもあの場に僕が立っていいんでしょうか?」

震える彼の手を手で包み込み、東島は優しい言葉を投げ掛けた。

「心配しなくていいのよ。あなたは、私が見込んだ選手だもの」

「どうして東島さんは、僕を双六の世界に引き入れたんですか?」

 ただ一回、三年前の僕を町の小さな大会で見かけただけですよね。

 しかも、あのときは負け続きで──」


「あなたに才能を見たの」


東島は、いつもの穏やかな口調ながらも、そう強く言い切った。

「これはまだ言っていなかったかもしれないけど、

 私はもともと双六のプロ選手だった」


「三年前に秀一君を見つけるまではね」


 秀一は両手をテーブルの上について立ち上がり、お手本のように驚いてみせた。

「それって、俺が、プロをやめるきっかけになったってことですか?」

「簡単に言えば、そうね。私もあの頃、全く勝てなくて。

 他のプロとの実力差を痛感する日々に嫌気が差していたの。

 このままじゃダメ、一度初心に帰ろうと思って、

 アマチュアの双六大会を見に行くことにしたわ。

 で、偶然そこで見かけたのが、秀一君だった」


 東島も立ち上がり、秀一に目線を合わせる。

「確かに勝ててはいなかったけど、

 あなたから滲み出るオーラはとてつもなかった。筋も良い。

 安室君以来の神童を目の当たりにしたという感じね。

 そのときに決心したの。

 私なんかより、秀一君に日本一になってもらおうって」

「でも、それは祖父……」

東島は首を横に振り、秀一の反論を遮るようにして言った。


「もちろん、あなたのおじいさんが、

 全日本選手権12連覇の生ける伝説 大和田(おおわだ) 太郎(たろう)であることを抜きにしてよ」


 空になった秀一のグラスにおかわりが注がれる。

しかし彼は、礼を述べることも忘れるほど、東島の話に夢中になっていた。

「秀一君が大和田師匠の孫だと知ったのは、その大会が終わってから。

 師匠はあなたをプロにする気はなかったようだけど、

 こんな才能を見て見ぬふりはできないわ。

 だから私は、師匠に秀一君の指導を頼んで、

 アマチュアの全国大会にエントリーさせた。

 そして、現にあなたは決勝戦まで勝ち進んでいる。

 私の目に狂いはなかったということね」


 温かみのある東島の手が秀一の両肩に置かれた。

「秀一君なら勝てる。私が言うんだから、本当よ」

「が、頑張ってみます!」

「うん! そうだ、明日は会場で直接見ようかなって」

出し抜けにタンスの中を漁り始める東島。

彼女はすぐに、そこから二枚のチケットを取り出した。

「買っちゃった」


 「なんせ秀一君の大事な晴れ舞台だもの」

秀一は照れくさそうに笑った。

この家の敷居を跨いだときには考えられなかった表情である。

「別に気を遣わなくていいんですよ」

「いいの。これは私が見たいの。師匠と二人でね」

「え!」

「そうよ。そっちこそ師匠から聞かされていないの?」

「今日の練習でも何も……」

「師匠はああ見えて結構恥ずかしがり屋さんだからね。

 私が昔、話し掛けたときにも、そそくさと別の場所に行っちゃったりしたのよ。

 あと、師匠はね……」


 師匠の話が膨らみに膨らみ、時刻は午後10時。

不意に時計が視野に入った秀一は目を丸くする。

「あっ、もうこんな時間! 長らくお邪魔しました」

「夜道にはくれぐれも気を付けてね」

東島は玄関先まで秀一を見送った。


「じゃあ、頑張って」


最後のこの一言が、どれだけ彼の心を支えたことであろうか。

秀一は足取り軽く、家路についた。

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