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アンドルーズ物語

作者: 淡雪

ミステリー要素を練り込んだ、ダークファンタジーに挑戦してみました。

ユーフェミアと共に謎解きを楽しんで頂けたら嬉しいです(*/□\*)

ちょっと長いかもしれませんが……


では、本編へご案内~♪(/ω\*)

挿絵(By みてみん)

秋の桜子様 FAバナー




 汽車に揺られながら、バーガンディブラウンのトランクケースから取り出した一通の手紙に目を通す。

 カシスブラックのインクで綴られた文字は、書き手が上品な女性であることを物語っていた。

 封筒には、差出人ダーナ・アップルヤード、受取人ユーフェミア・アンドルーズと記されている。差出人のアップルヤード夫人は歌劇の名歌手だった女性だ。有名な彼女を知らぬ者はまずいない。


「そんな大物が君に相談事だなんて、いったい何をさせる気だろうね」


 対面に座る青年が愉しそうに言う。ユーフェミアはそっと嘆息した。

 アップルヤード夫人に面識はない。彼女の舞台を観たことすらない。手紙に書かれた文字を指で追いながらもう一度確かめたが、内容は我が家へおいで下さってからお話致しますと、概要をぼかした書き方で締め括られていた。


 大方の予想はついているが、仲介者なしに直接招待されるのは珍しい。


「私までついて行く必要はないんだけど、君に何かあっては私も困るからね」

「誰もついてきてほしいなんて言ってない。一応仕事だし」

「君にとってはね」


 今一度嘆息すると、手紙をトランクにしまい込んで田園風景が広がる車窓を眺めた。

 雨が降らなければいい。どんよりとした曇天に眉を寄せつつ、ユーフェミアはそんなことを思った。






「初めまして。お招きありがとうございます。お手紙を頂きました、ユーフェミア・アンドルーズと申します」


 まあ、本当に来て下さるなんて、とダーナ・アップルヤード夫人が破顔した後、でも、と困ったように小首を傾げる。


「お名前から、てっきり女性だと思っていましたわ。ごめんなさいね」

「お気になさらず。初見で皆様同じようなお顔をされますから」

「不躾ついでに由来をお聞きしてもよろしいかしら?」

「ええ、構いません。面白くもない話ですが、我がアンドルーズ家は嫡男が産まれると、跡目争いを避ける意味で二男以降は女性の名を付けることにしているそうです」

「まあ。それで女性の名を? ではお兄様がいらっしゃるのね」

「ええ、まあ」


 ちらりと隣の男を見る。何がそんなに愉しいのか、鼻歌混じりに好奇心の視線をあちらこちらに向けていた。訝る視線を感じ取った青年は、ユーフェミアを見てにっこりと微笑む。


「ずいぶんとお若く見えるけど、お幾つくらいなのかしら」

「十三になりました」

「まあ! 本当にお若かったのね!」


 ユーフェミアの白皙に映えるミルクティーの髪とベニトアイトの瞳をうっとりと見つめて、なんて美しいのかしら、と吐息と共に称賛が紡がれる。

 ユーフェミアの瞳は高い分散率と複屈折率を持つため、淡いブルーの中にワインレッドの煌めきを秘めた強い輝きが見える。その美しい煌めきに一度でも囚われると、一瞬で虜になってしまう魅了の力を宿していた。


「ああ、ごめんなさい。こんな所で立ち話なんて。さあ、お入りになって。片田舎で遠かったでしょう。いまお茶を用意致しますわね」

「ありがとうございます。いただきます」


 通された応接間はいたってシンプルで、ローテーブルを五つの革張りソファが囲っている。調度品はすべて落ち着いた色合いで、壁には風景画が何点か飾られていた。

 そのうちの一つの額縁に収まっているのは写真のようで、差出人であるダーナ・アップルヤード夫人が歌劇歌手だった頃のものだろう。煌びやかな世界だったのだと素人目でもわかる、ゴージャスな一枚になっている。

 調度品に飾られている写真立てには家族写真なのだろう、ご一家のものが所狭しと置かれていた。老夫婦が兄弟四人、それぞれの配偶者、幼い子供達に囲まれて、とても幸せそうに微笑んでいる。

 その中でふと目についたのは、一緒に写っている老齢の紳士だ。年の頃は夫妻とそう変わらないように見える。

 夫妻と三人で写っているものもあって、アップルヤード家と懇意にしているのだろうと何とはなしに思った。


 一通り応接間の観察を終えたユーフェミアは、渡された紅茶を頂きながら早速本題へ入った。


「それで、ご相談というのは?」

「ええ、実は―――」


 アップルヤード夫人の話では、一月前に亡くなったご主人のお父上の書斎から、一枚の写真が出てきたのだそうだ。

 アルバムにしまうのではなく、まるで隠すように一冊の本の間に挟まっていたらしいそれには、若い見知らぬ女性が写っていたのだとか。


「これがその写真ですの」


 手渡された写真には、確かに一人の女性が写っていた。年の頃は十代後半あたりか。淡いグリーンのワンピースは古くさいが、趣味は悪くないと思う。


義母(はは)も主人も、主人の兄弟や親族も、誰一人としてその女性に心当たりがないのです。もしや道ならぬ関係があった方ではないかと、義母が心を痛めて寝込んでしまって………」

「愛人か、もしくは愛人に産ませた不義の子だったりしてね」


 青年が揶揄すると、アップルヤード夫人の表情が沈鬱に曇った。


「写っているのがもし義父(ちち)の落胤であった場合、わたくしは義母をどう慰めて差し上げればよいのか………」


 悲痛に呟くアップルヤード夫人に頷いて、拝見しますと断ってから写真を手に取った。

 儚げな印象を受ける写真の女性は、椅子に腰掛けやんわりと微笑んでいる。僅かに下げられた視線から、撮った人物に信頼を寄せていることが伺えた。

 古い写真だから、隠し子の可能性は限りなく低いだろう。


「この分野は門外漢なので、どこまでお役に立てるか分かりませんが……」

「そうですわよね……わたくしったら、とても失礼なお願いをしてしまったわ。ご紹介くださったモルモード夫人がとても頼りになる方だと仰っておられたものだから、気ばかり急いてご専門を伺わずにお手紙を出してしまって」

「いえ、それほど畑違いということでもないのですよ。ただ僕の専門はちょっと特殊でして。しかし、モルモード夫人からのご紹介でしたか。であれば尚更お断りなど致しませんよ。それに―――」

「それに?」

「カシスブラックのインクが使われた依頼は、基本お受けすることにしていますので」


 にこりと微笑めば、アップルヤード夫人は不思議そうに小首を傾げた。


「モルモード夫人から指定されませんでしたか? 封筒と便箋は白で、インクはカシスブラックを使用するように、と」

「ええ、確かに仰っておられました」

「この二つが揃わないかぎり、僕のもとへ依頼書は届かないことになっています。モルモード夫人から前提条件を聞いていた貴女は運がいい」

「そう、なのですね」


 よく分からない、とはっきり顔に書いてあるが、とりあえずの理解はした様子だ。

 詳しく知りたいと問われても困るので、このくらいの距離感がちょうどいい。そういう意味ではアップルヤード夫人は()()だ。


「モルモード夫人にこの写真はお見せしましたか?」

「はい。ご相談した折りに、現物を見て頂きました」

「なるほど。それで僕に依頼状が回されたということか。あの方の目は相変わらず鋭いことだ」

「え?」

「とりあえず調べてみましょう。屋敷内は自由に歩いても?」

「え、ええ、勿論です。ああ、でも義母の寝室はご遠慮頂けるかしら……二階の右奥の部屋以外であればどこを見てくださっても構いませんわ」

「わかりました。あ、この写真はお借りしても?」

「どうぞお持ちになって」

「ありがとうございます」


 テーブルから件の女性の写真を手にすると、ああそうだと思い立ち、調度品に飾られている写真のひとつを指差した。


「この男性は亡くなられたお義父上のご友人ですか?」

「え? ええ、義父の幼馴染みで、エルマー・アンダーソンさんと仰る方ですわ」

「なるほど。ではまず屋敷の外を調べますね」


 ユーフェミアはにこりと微笑んで会釈すると、エントランスへ戻り庭へ出た。


「十三になりました、だって。どの口が言うの?」

「嘘は言ってない」

「まあそうだろうけど。しかし君がこんな依頼を受けるなんて意外だなぁ。探偵業にでも鞍替えするの?」

「モルモード夫人からの紹介案件なら、探偵ではこの写真の謎は解けても問題解決には至らない」

「ふ~ん? それで、その問題の写真なんか待ってきてどうするんだ? 何か気づいたことでもあるとか?」


 長身の青年が肩越しに手元の写真を覗き込む。身長差を見せつけられた気がして、ユーフェミアは苦り切った顔をした。

 まだ成長発展途上なのだ。これからぐんぐんと伸びて、いつか絶対見下ろしてやる。


「観察不足だな。よく見てみろよ。この女、影がない」


 周りの家具や座っている椅子には、窓から差し込む太陽光で右に影が伸びている。だが座っている本人の足下には影が一切落ちていなかった。まるで未完成の絵画のように、不完全で奇妙な違和感を与える一枚だ。


「あれ。ホントだ。よく気がついたねぇ~。なるほどなるほど。だからまったくの畑違いじゃないって言ったのか」


 感心したようにケラケラと笑う。

 この男のこういうところが大嫌いだ。本気でそう思ってるんだろうけど、馬鹿にされているとしか思えない。


「ユーフェミア。君も気をつけないとね? 私が側に居なければ、君は決して人前に出られないのだから」


 苦虫を噛み潰したような顔をして小さく舌打ちすると、青年を無視して屋敷の周囲をぐるりと一巡してみることにした。


 屋敷の周辺はごく一般的な中流階級の庭と温室、農具などを収納している小屋があり、錬鉄(ロートアイアン)の門扉がある煉瓦塀の内側にはエクステリアライトが等間隔で取り付けられている。

 煉瓦塀沿いにじっくり観察しながら歩き、温室と小屋を覗いた。外観と内部を見比べ、壁をコンコンと軽く叩きながら面積の違和感を探す。


「ふむ………異常なし」

「壁なんか叩いて、さっきから何やってるの?」

「隠し部屋を探してるんだよ。……よし、床も異常なし」

「隠し部屋ぁ?」


 煩いな、と若干イラッとしつつ、屋敷へ戻る。


「何で隠し部屋?」

「秘密を隠すなら、誰にも知られていない場所に隠すだろ?」

「私は見られて困るようなものは所持しないけどね」

「ああ、確かにね。部屋には目ぼしいものは何もなかった」

「えっ。ちょっと、ユーフェミア? まさか私の部屋を家探ししたの?」

「荒らしたのは僕じゃない」

「荒らした? 荒らされてるの? 何でそういうことするの? ユーフェミア?」


 ずっとぶちぶち言っているが、無視だ、無視。荒らしたのは自分じゃない、だから覗いただけの自分は悪くないと耳を塞いだ。

 一階は先ほど通された応接間と、キッチン、食品貯蔵庫(パントリー)、ダイニングルーム、リビングルーム、洗面所(ラバトリー)お手洗い(レストルーム)脱衣所(ドレッシングルーム)、バスルーム、ゲストルームがある。一応すべて調べてみたが、案の定なにもなかった。


(まあ在るわけがないよな。共用スペースに隠し物なんて普通しない)


 王道通りなら、一番怪しいのは亡くなったご主人の書斎だろう。そこに隠し部屋が存在するか、もしくはロフトがあるか。

 予想としては、この屋敷には置いていない。隠すなら信頼性のある外だろう。その手掛かりになるようなものが、きっと書斎にあるはずだ。


 件の書斎は奥方が寝込んでいるという寝室の向かいにあった。どこを見て回ってもいいとのお達しの通り、書斎にも鍵はかかっていない。

 真鍮のノブを回し書斎へ入ると、紙とインクのにおいが充満していた。壁一面の本棚には窮屈そうに書籍が押し込められ、机の上にも収納しきれなかった数冊の本が積み上げられている。蓋を開けたままのファイルボックスには、未裁の書類なのか、十枚ほどそのまま残されていた。


 ぐるりと観察して、調査箇所の当たりをつける。書籍や書類のすべてに目を通すなんてことはしない。それは探偵の役目であって、ユーフェミアの仕事じゃない。

 探偵なら今回の依頼で見つける答えは一つだが、ユーフェミアの場合は二つ。特に重要な二つ目がユーフェミアの専門だ。それが関与していなければ、この依頼は探偵が担当すべき件だった。


 机のひとつしかない引き出しの中には、革の手帳と眼鏡、万年筆、銀のシガレットケース、オイルライターがきちんと整頓されていた。

 それとは別に並べられている煙草箱は、どれも封を切っていなかった。未開封の煙草はすべて銘柄が違う。煙草箱のストックからして一見ヘビースモーカーのように思えるが、どれも開けていないのでそれはない。

 シガレットケースを開けてみれば、中には一本も入っていなかった。ケースに煙草のにおいもしない。一度も使用していないのは明白だった。

 引き出しを開けた瞬間からただただ甘い香りがふわりと(くゆ)る。いろいろ混ざっていてどれが何の香りか分からないが、甘い飲食物の香りだということだけはわかった。


(何のために吸いもしない煙草をこんなに集める必要があったんだ?)


 煙草の箱が目当ての、空き箱の蒐集家(コレクター)なのかもしれないが、妙に気になる数だ。


 手帳に手を伸ばし、パラパラと中を確認する。ざっと斜め読みしていくが、取り立てて着目するようなものはない。取引先との面会や会食、会議の予定など、特筆すべき問題は見当たらなかった。


「……………うん?」


 二ヶ月に一度の頻度で、月間スケジュールに必ず書き込まれている文字に意識が向く。

 偶数月の第二土曜。スペルでAAと記されている。

 眉根を寄せ思考に没頭しようとした露の間、背後から唐突に声がかかった。


「寝室には何もなかったよ。未亡人の奥方はだいぶ窶れた顔で眠ってた」

「ちょっと……! なに勝手に潜り込んでるのっ。寝入ってる淑女の寝室に忍び込むなんて非常識っ」


 姿が見えないと思ったら、とんでもないことをやらかしていたなんて。


「大丈夫だって。見つかるわけがない。私を見つけられたら、それこそ徒人(ただびと)じゃない証拠だ」

「慢心がアンタの悪い癖だ」

「言うねぇ。アンドルーズ家で唯一影を持たないユーフェミアなら速攻でバレるだろうけどね?」

「僕にだってそれくらいは出来るさ」

「普通の潜入なら出来るだろうね」


 本当にむかつく奴だ。真実を事も無げに指摘してくるところが昔から大嫌いだった。慮るなんて殊勝な真似はこの男にかぎってあり得ない。


「それよりも、ユーフェミア。急いだ方がいい。奥方に時間はないようだよ」


 はっと瞠目して青年を顧みた。それは、つまり。


「そういうことか………っっ」


 くそ!と苛立ちのままに髪の毛を掻き毟る。何が慢心だ。自分こそ慢心じゃないか!


「何で見えなかったんだ」

「君はね、取捨選択が得意だから、今回はそれが却って視野を狭めたんだよ。夫人から奥方の寝室は遠慮してほしいと言われて、あっさり除外した。だから見えていたはずの情報を無意識に遮断したんだ。そこがユーフェミアの長所でもあるけど、今回は裏目に出たね」

「ある種の思考誘導の結果、か。猶予はあとどれくらい残ってる?」

「私の見立てでいいなら、あと二日ってところかな?」

「そんなに………」


 それほどの流れに気づけないなんて、指摘された通り今回は取捨選択が妨げになったみたいだ。一般依頼の難しさを痛感する。


「ちょっと引っ掛かる部分もあるんだけど、何だろうな……釈然としないこの感じ………」

「なんだよ?」

「………いや。そっちは何か収穫あった?」

「あった。偶数月の第二土曜に必ず予定されているAAってのが何なのか、調べる必要がある」

「ふ~ん。AAって何だろうな?」

「たぶんこれはアルコホーリクス・アノニマスの略称だよ。アルコール依存症の自助グループだ」

「アルコール依存症ねぇ……この御仁はそんなに大酒飲みだったのかな?」


 青年が見ているのは、壁に飾られた写真だ。その一枚に、細身の老紳士が椅子に腰掛け窓の外を眺めている姿があった。かっちりとした印象の、隙などひとつもないかのようだ。

 確かに依存するほど酒を大量に飲む人物には見えない。応接間にもキッチンにもパントリーにも、そしてここ書斎にも酒瓶一本見つかっていない。

 喫煙した形跡がないとは言え、蒐集している数から禁煙者の集会に参加していたと判断する方がまだ理解できるのだが、老紳士とアルコール依存症がどうにもちぐはぐ過ぎて結びつかない。意図的に屋敷から酒を一掃した可能性も捨てきれないけれど。

 スケジュールを見るかぎりでは、アルコールに溺れている人間が捌ける仕事量じゃなかった。会食や付き合いで嗜むことはあっても、泥酔するほど飲むわけがない。仮にそうだったとすれば、スケジュールが仕事でびっしり埋まるはずもない。


(そうなると、不必要なアルコホーリクス・アノニマスに参加する理由が気になるな………)


「これ以上の情報は屋敷にはないだろう。街へ出て、件のアルコホーリクス・アノニマスを探す」

「どうやって?」

「聞いて回る以外ない」

「だから、どうやって? 君、十三才だって自分で告げたの忘れた?」


 ユーフェミアはピシリと固まった。

 そうだった。未成年者がアルコホーリクス・アノニマスのミーティング場所を尋ねるのは違和感しかない。

 未成年で飲酒したのか、しかも依存症に陥るほどに、浴びるほど飲んでいるのかと、厳しい対応をされるかもしれない。もしくは、憐れみを向けられるか。


「ち、父親がアルコール依存症で、父親に急報しなきゃいけないことがあって、ミーティングに出掛けた父親を探してる、とか」

「それ余計に怪しくないか? まだユーフェミア自身が依存症だってことにした方が信憑性あると思うけど」

「じゃあもうそれでいいじゃんっ」

「馬鹿だなぁ。頭は良いのに要領が悪いよね、君って」

「なんだよっ」

「そのための私じゃないか?」

「―――――あ。」


 そうか、その手があったか。

 ぱちくりと瞬くユーフェミアを、青年は呆れた様子で眺めた。


「そろそろ影を使い慣れてもいい頃だろう? 調べてるふりしてちょっとここで待ってなさい。三十分で戻る」


 急にしんと静けさの戻った書斎で、ユーフェミアは深々と嘆息した。

 使い慣れてないのは仕方ない。元々待って生まれなかったのだから。持っていて当たり前のものを持っていなかった。そのことで最弱だ紛い物だと馬鹿にされてきた。

 遅くに出来た末っ子のユーフェミアを両親は可愛がったが、言動の端々に出来損ないへの落胆は感じ取っていた。

 だから、ユーフェミアはたくさんの知識を貪欲に詰め込めるだけ詰め込んできた。無い物ねだりをしても現状は変わらない。ならばそれを補える力を持つ必要があったからだ。

 多岐に渡る知識は武器になる。それでもアンドルーズ家や一族にとって、取るに足らないものだったけれど。


 そっとため息を吐いて、今一度写真の老紳士を見つめた。

 人に言えない何かを、この人もひっそりと抱えていたのだろうか。






 宣言通り、それからきっちり三十分後に青年は戻ってきた。悔しいことに、有力な情報を手土産にして。


「街でアルコホーリクス・アノニマスを名乗る集会が偶数月の第二土曜に開催される自助グループは、面白いことにひとつしか存在しなかったよ。会場はその都度違って、参加する者の家族や友人、知人に、前もって居場所が知られないようになってる。それだけでも十分怪しいけど、参加者がどうやって開催される会場の場所を特定してるのか、その方法がまた面白くてね」


 奇しくも今日は偶数月の第二土曜。差し出した夕刊の一部分を指す青年のすらりと長い指は、意見広告のひとつを示すものだった。小さくそこに書かれていたのは、ピックアップした煙草銘柄の個人的嗜好についての散文(エッセイ)だった。

 アダム・エインズレイ著の文章の一部分に、こうある。


《甘いアークロイヤルを本日は六本吸った》


 ユーフェミアは机に駆け寄り、引き出しを開けた。

 アークロイヤル・パラダイス・ティーと白文字で綴られたイエローとオレンジのグラデーションが南国的なパッケージを手に取り、鼻に近づける。


「……………紅茶だ」


 手帳を開き、AAと記された回数と引き出しの中の未開封の煙草箱の個数を数えた。

 やはりどちらも数は六。一年分だ。

 煙草はグレーの箱に黄文字のチョコレートフレーバー「ブラックデビル・チョコレート」、イエローのパッケージに白文字のバニラの香り「コルツバニラ」、ワインレッドの箱に入ったチェリーフレーバー「ブラックストーン・チェリー」、黒とミルクチョコレートカラーのパッケージに金字の珈琲系フレーバー「アルカポネ・ポケットフィルター・アイリッシュコーヒー」。どれも甘いフレーバーばかりだ。

 男性が、特に老齢の紳士が好む煙草ではない。この手のものは寧ろ女性が好む種類だろう。


「アークロイヤル・パラダイス・ティーは場所を、本数は時間を意味しているのか……?」


 そうだと仮定して、アークロイヤル・パラダイス・ティーが示す会場は何処だ?

 机の上に六個の煙草箱を並べてじっと見つめた。


 ブラックデビルシリーズはオランダ製だ。

 オランダの人気スポットのひとつを挙げるとすれば、アムステルダム国立美術館だろう。レンブラントの『夜警』やフェルメールの『牛乳を注ぐ女』などの名画が多数所蔵されている。赤茶色の煉瓦建築が美しい美術館だ。


 コルツバニラはデンマーク製で、パッケージにはコルツの由来になっている子馬が描かれている。


 ブラックストーンシリーズはアメリカ製だ。

 アメリカ名所のひとつ、ニューヨーク・タイムズスクエアはブロードウェイが有名だ。劇場街ではオペラやミュージカルが観劇できる。


 アルカポネはドイツのブランドだが、『アルカポネ』は禁酒法時代のアメリカ・シカゴのギャングの名で、犯罪組織を統合近代化し、拡大していった暗黒街の顔役だ。

 アルフォンス・カポネが起こした事件は、聖バレンタインデーの虐殺が有名だろう。

 バレンタインの元となった聖ヴァレンティヌスの遺骸は教会にあり、現在七つの教会が遺骸を納めていると主張している。


 そして、アークロイヤルはウルグアイ産だが、『アークロイヤル』とは王室艦やノアの方舟を意味する。『創世記』ではノアの方舟はトルコのアララト山に流れ着いたとされている。

 トルコの名所をひとつ挙げるならば、イスタンブールのブルーモスクだろうか。青い装飾タイルやステンドグラスは呼吸を忘れるほどに美しいという。


 それぞれを場所に変換するとして、美術館、牧場、劇場、教会、モスク、だろうか。


(統一性がないな……。そもそも一つの街にこれだけのものが揃ってるだろうか?)


「ああ、そうそう。もう一つ仕入れた情報があってね。先々月の第二土曜日の夜に、年齢や身分がバラバラな客層で貸切状態になった店があったそうなんだけど、その店の名前がトイフェルって言うんだよ」

「……っ! それを早く言ってよ!」

「そう言うからには分かったんだね?」

「たぶんね。その店ってパブだろ?」

「ご名答」


 トイフェルはオランダ語で悪魔という意味だ。六つの銘柄の中で、オランダ製で悪魔と名のつく煙草はブラックデビル・チョコレートしかない。


「そのトイフェルってパブの袖看板は黒い悪魔の絵じゃない?」

「正解」

「もしかすると全部パブの名前かも。深読みし過ぎて的外れな見当違いをしてたみたい」

「見当違いって、どんな?」

「美術館、牧場、劇場、教会、モスク?」

「ははっ! それが一ヶ所に揃ってたら不均衡だね」


 その通りなので反論できない。穴だらけの推測だと自覚はあったのだ。

 もとより煙草から連想する選択基準に共通性がなかったのだから、バラついた寄せ集めに関連性を見出だそうとすること自体無理な話だった。


 しかし、パブの名前を表していたとすると、アルコール依存症の自助グループがミーティングする場としてこれ以上不謹慎な選択はないだろう。アルコホーリクス・アノニマスを母体に隠れ蓑としていたとしたら、手の込んだ召集告知や警戒心には感服しても、最後の詰めが甘いこんなお粗末なエピローグは失笑ものだ。

 ところが敢えてこうしているのだとすれば、それはそれであっぱれと賞賛を贈りたい。

 アルコール依存症の集会場が、よもや飲酒できるパブだとは誰も思うまい。


(いよいよ集会そのものの実態が怪しくなってきたな)


 ユーフェミアは最寄り駅で購入しておいた地図を広げ、アップルヤード家の屋敷が建つ位置を丸で囲んだ。次いで、トイフェル、オランダ語で悪魔を意味するパブにバツ印をつける。


 コルツバニラに該当するパブは、デンマーク語で馬を意味する『ヘスト』。

 ブラックストーン・チェリーに該当するパブは、そのまま英語で『ストーンズ』。

 アルカポネ・ポケットフィルター・アイリッシュコーヒーに該当するパブは、ドイツ語でウイスキーを意味する『ヴィスキ』。アイリッシュコーヒーはアイリッシュ・ウイスキーをベースとするカクテルだ。


 そして、今夜召集のかかった会場が、アークロイヤル・パラダイス・ティーに該当するパブ、スペイン語で方舟を意味する『アルカ』。


「これはこれは……見事にすべてひとつの街に収まったな」


 口角を上げて青年が面白そうに呟く。

 バツ印を書き込んだ六つのパブは、青年の言うとおり一つの街に点在していた。

 密集することなく程よい距離を保つパブを選んでいるあたり、限定的な意図のようなものを感じる。


「方舟を意味する『アルカ』。今夜六時にここでアルコホーリクス・アノニマスが開かれる。その裏で何が行われているのか、潜入調査と行こうじゃないか」


 恐らく煙草は通行手形の役割を担っているのだろう。

 アルカでこれを提示すれば、秘密の集会への扉が開かれるに違いない。






 ◇◇◇


 アルカはアップルヤード家から車で一時間の距離にあった。意見広告によれば十八時開始予定になっているが、ユーフェミアと青年はそれよりも十五分前に到着していた。

 外観はいたって普通のエピナールの壁に、柱と店名をイエローゴールドで装飾したお洒落なカフェ仕様だ。通りに面して大きな窓が二つあり、大小合わせて十二枚のアンティークガラスが木枠と共に嵌め込まれている。壁に直接綴られたアルカの金文字の左右には、角灯タイプのエントランスランプがぶら下がっていて大変趣がある。

 二階の壁から突き出ている袖看板には、絵画風の方舟が荒波を越える様子が描かれていた。


 ドアは開け放たれていて、外に出されているA型ボードには一番下に「店長よりカウンターにてAA承ります」と、申し訳程度のスペースに記されていた。

 ユーフェミアは、ポケットに突っ込んだままのアークロイヤル・パラダイス・ティーに触れながら入店すると、店内はすでに満席に近い賑わいだった。ユーフェミアが入店したことで一瞬しんと静まり返ったが、徐々に喧騒は戻っていった。


「……いらっしゃい。と言いたいところだが、すまんな、坊主。ランチは終わってるんだ」

「うん、知ってる。別にランチを食べに来たわけじゃないから」


 そう言って、カウンター越しに訝る視線を向けてくる大柄な男を見上げ、ポケットからアークロイヤル・パラダイス・ティーを差し出した。

 はっと瞠目した男はカウンターに置いた煙草箱をグローブのような手で覆い隠し、鋭い眼光で唸るように囁く。


「―――どういうつもりだ?」

「母さんのを拝借した。母さんの客の男が言ってたんだ。僕みたいな半端者でも受け入れてくれる場所があるって」

「半端者? どういう意味だ」

「バレたら殴られるから、誰にも明かせない。って言えば伝わる?」

「……………」


 暫しじっと探るように睨んでいた男は、不意にカウンターのスイングドアを開けて顎でしゃくった。


「通りな。奥の扉から地下に降りて、もう一度これとこのコインを提示しろ。帰ったらちゃんと、母ちゃんにバレる前にこれを返しておけ」


 言って煙草箱を返してきた男は、乱暴にユーフェミアの頭を撫でた。

 うまい具合に勘違いしてくれたようだ。はっきり明言してしまうと、半端者が何を意味するものか限定されてしまう。髪をボサボサにされたのは苛立たしいけど、彼なりに慰撫したつもりだったのかもしれない。バレたら殴られると言ったから、殴られた過去があると解釈したのだろう。まあないけどね。


 地下へ続く古い木造階段を、ギシギシ音をたてながら降りていく。天井にランプが二つ下がっているだけの階段は薄暗く、ほんのり湿気のにおいが漂っていた。


 返却された煙草と一緒に手渡されたコインは楕円形をしており、表に聖母マリアが、裏には十二の星の輪に囲まれてMの文字が十字架に絡みつき、茨を纏った王冠を冠するイエス・キリストの心臓(ハート)と、同じく王冠を冠し剣に貫かれる聖母マリアの心臓(ハート)が象られている。

 表の聖母マリアを囲むように、枠に「原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼り奉るわれらのために祈り給え」という祈りの言葉が彫られていて、これは身につければ大きな恩恵を賜ると言われた不思議のメダイの複製品なのだろう。


 下まで降りきると、扉の前で番人のように佇んでいる男が怪訝な顔でこちらを見ていた。

 アークロイヤル・パラダイス・ティーと不思議のメダイの複製品を差し出せば、ぴくりと片眉を跳ね上げて、ユーフェミアと差し出した物を何度も交互に確認している。何でこんな子供がという疑心と、カウンターを通された証である不思議のメダイの存在に複雑そうな面持ちで唇を引き結び、短く通れと一言だけ発して扉を開けた。

 どうもと会釈して入室すると、開始時刻の十五分前にも関わらず、すでに多くの人が集まっていた。

 地下は大きなホールになっていて、小振りながらもなかなかの値がするだろうシャンデリアが天井で輝きを放っている。長いテーブルには食事や飲み物が用意されており、立食歓談できる仕様になっているようだ。

 壁際には椅子が並び、小休止できるスペースも設けられていた。


 ホール奥には更に扉がひとつあって、そこから続々と人がホールへ入ってくる。


「飲み物はワインやシャンパンカクテルだね。アルコホーリクス・アノニマスが聞いて呆れる」


 グラスの中身を香りで見当つけた青年が、ふん、と鼻を鳴らす。


「どうやらアルコール依存症の集会ではなさそうだ。奥の扉から出てくる人間は、どう見ても女性じゃないしね」


 青年の指摘通り、次々とホールへ出てくる人々の格好が社交場へ赴く貴婦人方のそれなのだが、ドレスアップしている面々が一様に骨太なのだ。つまり、男性による女装だ。


「これは当たりを引き当てたんじゃない、ユーフェミア?」


 ユーフェミアはこくりと頷いた。

 アルコホーリクス・アノニマスの集いを母体にしたこの集会は、内実は女装を楽しむための秘密の集会だったということだ。


「………そう言えば、エルマー・アンダーソンもイニシャルはAAだな」

「ああ、言われてみればそうだね」

「坊や。エルマー・アンダーソン氏と知り合いかい?」


 唐突に背後から話し掛けられたことに驚き、ユーフェミアはさっと顧みた。

 今しがた地下へ降りてきたらしい三十代前半の男性が、大きな鞄を抱えて背後に立っていた。


「ええ、と、いえ、どちらかと言えば、オーブリー・アップルヤード氏を知っていますけど」


 アップルヤード夫人に彼のファーストネームを聞いておいて良かったと内心で安堵の息を吐く。

 オーブリー・アップルヤードのイニシャルもAAだな……ふとそのことに気づいて僅かに眉をひそめると、話しかけてきた男が痛ましげに目を細めた。


「そうか、アップルヤードさんの……彼のご冥福を祈らせて頂くよ」

「ええ、そうですね……ところで、貴方は何故アップルヤードさんやアンダーソンさんの名前をご存知なのですか? ここは匿名を名乗る場なのでは?」


 アノニマスは無名や匿名という意味がある。本名を名乗る必要のないミーティングに参加している人間の身元を、一人一人しらみ潰しに探している時間はないと考えていたのだが、これは思わぬ収穫が望めるかもしれない。


「ああ、坊やは表向きのアルコホーリクス・アノニマスのルールを言ってるんだね? ここに入れている時点で坊やもここの趣旨が何なのか知っているだろうけど、数少ない同じ趣味を持つ者同士ってことで、本名を名乗ることも結構多いんだよ。偽名を使う人も中にはいるだろうけどね」

「ああ、なるほど。あの、僕はお化粧やドレスが好きなだけで、男性を恋愛対象として見ることは出来ないのですが、ここは恋愛観は自由なのでしょうか」

「うん、自由だよ。ぼくだってこう見えて妻帯者だからね。同性愛を好む人も確かにいるけど、ここにいる人達はみんな女装が好きなだけの、他は至って普通の男なんだよ」

「そうなんですね」


 ということは、アップルヤード氏とアンダーソン氏の幼馴染み二人組も密かに女装を好むだけの異性愛者(ヘテロ)ということか。となると、問題の写真はオーブリー・アップルヤード本人か、幼馴染みのエルマー・アンダーソンの可能性が高い。


「あの、今日はアンダーソンさんはおいでになるんでしょうか?」

「どうかな……来ない気もするな。彼はアップルヤードさんの付き添いで参加していただけで、彼自身に女装癖はなかったようだから」


 であるならば、あの写真はオーブリー・アップルヤード本人で決まりだな。撮影者は誰よりも信頼するエルマー・アンダーソンだろう。写真の謎解きの答え合わせは、アンダーソン氏を訪ねれば解決するはずだ。


 これでひとつ目の問題は解決の兆しが見えた。本当ならここまでが専門外だった。

 ようやく本命の二つ目に取り掛かれる。


「アンダーソンさんのお住まいはご存知ですか?」

「知ってるけど……アンダーソンさんに用があってここに?」

「はい。ここを教えてくれたのはアップルヤードさんなんですけど、同伴の約束は叶いませんでしたので……せめてアンダーソンさんにはお会いしたいなと思って」

「そうだったのか。住所は教えてやれるけど、今から行くのかい? せっかく来たんだから、化粧だけでも体験して行かないか?」

「大変魅力的なお誘いなんですが、実は母のこれを拝借しているんです。バレたら殴られてしまうので、今日は覗くだけにしようと思って」


 言ってアークロイヤル・パラダイス・ティーをちらりと見せて、直ぐ様ポケットにしまう。苦笑いを浮かべてポケットをそっと叩くと、男は不憫な目でそっとユーフェミアの頭を撫でた。


「それはつらい思いをしているね……。煙草は未成年者には買えないし、夜のパブは入りづらいだろう。その辺りの改善を話し合わないといけないな……」


 暫し黙考していたかと思うと、そうだと思い至った様子で大きな鞄を開けた。条件反射で覗き込めば、中にはメイク道具箱やドレス、ヒールや装飾品がきちんと整頓された状態で収められていた。

 その中から螺鈿装飾の小箱を取り出し、幾つかしまってある物の中からひとつ選んで差し出した。


 差し出された未開封のそれは、ワインレッドのパッケージ『ブラックストーン・チェリー』だった。


「ぼくの名前はアダム・エインズレイ。場所指定の役割を担っている。次の会場はストーンズだから、これを持ってまたおいで。その時には衣装も準備しておくから、誰に恥じることもなく楽しんでくれたらぼくも嬉しい。君は間違いなく美しく仕上がる。それが今から楽しみだ」


 ユーフェミアはくっと瞠目した。

 場所指定の役割を担っていると告げた、アダム・エインズレイ。

 それは、青年が入手してきた夕刊の、意見広告に記載されていた名前だった。


「挫けないで、また訪ねて欲しい。ここにいる人達は、君のすべてを肯定してあげられるから」

「あ、りが、と、う………」


 さらさらと書き記した紙を追加で差し出したアダム・エインズレイのイニシャルもまた、AAだと気づいたのは少し経ってからだった。






「君が口説かれている間に、ちょっと面白い話が聞けたよ」


 アダム・エインズレイ氏の書いてくれたアンダーソン氏の住所は、パブ『アルカ』から徒歩で三十分の距離にあった。その道すがら、青年が愉しそうに語りかけてくる。


「口説かれてない。それで、面白い話って?」

「亡くなったアップルヤードのご主人ね、徐々に衰弱していく奇病で亡くなったそうだよ。いろんな医者にかかったけど、どの医者も原因不明だって首を捻っていたらしい」

「衰弱していく奇病……」

「誰かの状況と酷似していると思わないか?」


 現在床に臥しているというアップルヤード家の奥方がまさにそれだ。


「でも夫人は奥方がそんなに危うい状況だとは言わなかった」

「サイドテーブルにグラスがかぶせてある水差しが置いてあったけど、水はまったく減っていなかったし、処方箋も見当たらなかった。あの夫人は本当に奥方と会話をしたのかな?」

「嘘をついてるようには見えなかったけど……」

()()()()()()そう判断したなら、夫人は嘘をついていないってことになる。でもそれは本人が自覚していない可能性もあるんじゃないかな」

「嘘だと自覚せずに嘘をついたってことか?」

「さあね。私には分からないよ。君の方が()()()()()()()()()()


 ユーフェミアは黙り込んだ。

 青年の視点はいつもユーフェミアとは違う景色を見ている。目と推理に関しては自信あるが、天性の嗅覚には勝てない時もある。恐らく今がそうなのだろう。

 青年がこう言うからには、奥方の急変に気づいていない夫人の、その周辺に異常が起こっていると思うべきだ。最悪の結果だけは何としても避けたい。


「急ごう。さっさと写真の謎解きを終えて、本来の役目を遂行しなきゃ」


 焦燥感に追い立てられるように駆け出したユーフェミアを、青年は困った様子で苦笑いして後に続いた。

 まだまだ幼さの抜けないユーフェミアは、これだから危なっかしくて放っとけないのだ。


(本人は嫌がるから絶対に言わないけどね)






 ◇◇◇


 大変非常識な面会予約なしの突撃訪問を受け入れてくれたアンダーソン氏は、提示された写真を見つめて、ぐぐっと眉を寄せたまま沈黙した。


 アンダーソン家に人の気配はなく、聞けばずっと独り身で、ハウスキーパーも雇っていないらしい。

 簡素化された家内は極端に物が少なく、人が生活している温かみや、そこから発生する無駄が一切ない。アンダーソン氏の他に人の気配がまったくないこともあって、あって当たり前な生活感が極力省かれた、家という空間に愛着や執着心をまるで感じない無機質な印象を受けた。

 この人にとって家とは、ただ寝起きするだけの場所で、寛いだり肩の力を抜ける大切な休息空間ではないのだろう。食事も外で済ませているそうで、お飾りのキッチンには酒瓶一本存在していないらしい。

 その点だけはアップルヤード家と同じなんだなと、ユーフェミアは思った。


 唯一生きた色が垣間見えるのは、何枚かフォトフレームに飾られた写真だろうか。


「この写真は、オーブリー・アップルヤード氏ご本人ではありませんか? 撮られたのは貴方で、被写体のアップルヤード氏は恐らく十代後半」

「………」

「ご長男の奥方からのご依頼で、この写真の真相を調べています。この写真の存在がオーブリー氏の奥方の心を悩ませ、床に臥してしまわれました。大変危険な状態です」


 今まで無言を貫いていたアンダーソン氏が、ここで初めて表情を変えた。くっと見開いた眸をユーフェミアへ向け、わなわなと震える唇を開く。


「床に臥した、だと? 嘘をつくな!」

「嘘ではありませんよ」

「私を騙して喋らせたいのだろうが、そうはいかない。今夕私はドロシアに会っている。彼女は確かにベッドに居たが、臥してはいなかった。ドロシアと会話したと、ダーナから聞いておくべきだったな」

「今日の夕方に話した? 奥方とですか?」

「ああ。客が来ている様子ではなかったから、お前が来る前か後かは定かではないが、私は確かにドロシアと話した。その場にダーナもいたから、屋敷に戻って確認してみればいい」


 ユーフェミアと青年がアップルヤード家を出たのは十六時半。その直前に青年が奥方の様子を確認したところ、意識はなかったと言っている。

 アップルヤード家を訪れたのは十四時前だったから、夕刻訪ねたというアンダーソン氏は十六時半以降に奥方に会っていることになる。すでに意識のなかった奥方と、彼はどうやって会話したと言うのか。


 ユーフェミアはじっとアンダーソン氏の双眸を覗き込む。彼が嘘をついていた場合、それが色としてユーフェミアにははっきりと見えてしまうのだ。


「どう? 彼は嘘つきかな?」


 青年の言葉にユーフェミアは首を横に振った。

 嘘をついているならば、ユーフェミアの目には彼の輪郭が赤く染まって見えていたはずだ。それがなく、変わりに真相を語っていると裏付ける青色に輪郭は染まっていた。


「アンダーソンさん。僕は嘘をついていない。でも、貴方も嘘を言っていない」

「なに?」

「奥方との会話で、何か僅かでも違和感を覚えたりはしませんでしたか。奥方の話し方とか、雰囲気とか、それ以外でも部屋の様子とか、些細なことでもいいので思い出してください」

「違和感?」

「はい。これはとても重要なことです。奥方の命がかかっているのですから。お願いします」


 急に何を言い出すのかとばかりに怪訝な顔を向けてきたが、ユーフェミアの真剣な面持ちにふざけて言っているのではないと察した様子で、腕を組み瞑目して記憶を辿り始めた。


「………違和感というほどのことでもないが、ドロシアの寝室はすべてのカーテンを締め切っていて薄暗かった。たまには空気の入れ替えをすべきだろうと窓に手をかければ、ドロシアは絶対に開けないでほしいと、穏やかな彼女にしては珍しく声高に訴えてきた。ならばせめて室内灯かウォールライトくらいはつけた方がいいと言えば、それも嫌だとごねてな。本当に彼女らしくなくて、そこは少し気になった」


 ―――それだ。

 覚えずユーフェミアはにやりと笑った。


「ありがとうございます。これで繋がった」

「どういうことだ?」

「僕は探偵じゃないんですよ。僕の専門はかなり特殊でして、本来ならばこの案件は僕に依頼される類いのものじゃなかった」

「よく分からないな……何が言いたい?」

「本来であれば、この写真は表の案件。しかし、貴方の証言で裏の案件、つまり僕の管轄であることが判明した」


 隣で青年が不敵な笑みを浮かべている。寝室に忍び込んだ時の違和感に、青年もようやく合点がいった様子だ。


「この写真の真相は、依頼されたのが探偵であれば依頼人に望まれたとおりの真実を、暴いたそのままの内容で伝えているでしょう。でも僕は探偵じゃない。僕に必要なのは、裏の真相だ」


 その答えはたったいま示されたのだ。


「ドロシア夫人やダーナ夫人が気にされていたオーブリー氏の愛人やその落胤であるか否かといったことに対して、暴いた真実が仮にそうだったとしても、ありのまま伝える意思は僕にはなかった」

「何故だ」

「優しい嘘も必要でしょう? すでに故人となられているオーブリー氏の秘密を今さら暴いたところで、オーブリー氏も残された家族も誰ひとり救われない」

「………」

「けれど、この写真は夫人方が懸念されていたものとは全く違う。それでも、オーブリー氏が隠したかった女装癖を、ご家族に伝えるつもりはありません。そこでアンダーソンさん、貴方に一芝居打ってほしいのです」

「なに?」


 怪訝に眉根を寄せるアンダーソン氏に、ユーフェミアはにこりと微笑んだ。






「君の提案を蹴るとは思わなかったのかい?」

「思わない。彼はドロシア夫人のためなら喜んで泥をかぶるさ」

「言い切るね」

「アンダーソンさんは、ずっとドロシア夫人を愛しているからね」

「彼が? 何でわかる?」

「大事そうに飾ってただろ? ドロシア夫人の若い頃からずっと生涯を共にするように、彼女の人生を切り取ったたくさんの写真たちが壁一面に飾ってあった。無機質な家内が、あの空間だけ生きていた」


 埃ひとつかぶっていなかった。ハウスキーパーを雇っていないのだから、彼自身が毎日手入れしながら、一枚一枚を大切に愛してきたのだ。ドロシア夫人に愛着していなければ、彼女の人生に寄り添った多くの写真を飾ることも、丁寧に自ら手入れすることもしないだろう。


「ふ~ん? 何だか不毛だねぇ」

「ただひたすらに一途に一人の女性を想い、自分ではない他の男との幸せを願うなんて僕にも理解できないけどね」

「まったくだ」


 愛着というもの自体あやふやで、ユーフェミアと青年にはまるきり共感できなかった。






 ◇◇◇


 アップルヤード家に戻れたのは、すっかり夜の帳が下りた後だった。

 近隣に人の気配はなく、隣近所も徒歩で五分以上離れた位置に建っている。エントランスライトが煉瓦塀をほんわりと照らしているが、庭全体を明るく照らすほどではない。

 周囲の目が届かないことも、また庭が暗闇に沈んでいることも、ユーフェミアと青年にとって都合良かった。


「まあ、またいらしてくださいましたのね、アンダーソンさん。アンドルーズさんとはお知り合いでしたの?」


 再び応接間に通されたユーフェミアは、遅れて訪ねてきたアンダーソン氏に軽く会釈した。


「……いや、初対面だ。客が来ているなら日を改めるが」

「あら、構いませんわ。ちょうどアンドルーズさんに依頼していた調査報告をお聞きするところでしたのよ。よろしければご一緒にお聞きになってください。それでいいかしら、あなた」

「ああ、エルマーおじさんにも聞いてもらった方がいいだろう」

「アンドルーズさんもよろしいかしら?」


 本日初めてお目にかかった長男に挨拶を済ませたばかりのユーフェミアは、ご夫妻がよろしければ、と微笑んだ。アンダーソン氏はむすっとしているが、たぶん彼はこの表情がデフォルトなのだろう。


「それで、アンドルーズさん。あの写真の人物が誰かわかったかい?」

「はい。ですが、これを申し上げて良いのかどうか、正直迷っています。まさかこの場にアンダーソンさんも同席されるとは思わなかったので……」

「エルマーおじさんが? どういう意味だ?」


 ユーフェミアはちらりとアンダーソン氏に視線をやって、渋面を返してくる彼に内心で微笑んだ。

 うまく立ち回ってくれよ、アンダーソンさん。


「この写真は五十年ほど前に撮られたもので、撮影者はこちらにいらっしゃるアンダーソンさんです」

「「え!?」」


 夫妻はローテーブルの上に置いた写真とアンダーソン氏を驚愕に染まった顔で何度も視線を往復させた。アンダーソン氏はずっとむすっとしたまま何も語らない。


「被写体の女性はすでに鬼籍に入られていますが、ご夫妻が懸念されるような方ではありませんでした。この女性についてはアンダーソンさんの方がずっとお詳しいでしょう」

「おじさん! 教えてくれ! これは誰なんだ!」


 アンダーソン氏は一度ユーフェミアを睨むと、嘆息してから重々しく口を開いた。


「……………この人は、ずっと昔に恋い焦がれた、私の想い人、だった。失くしてしまいずっと探していたが、オーブリーに貸したままだった本に挟まっていたんだな」


 不満げに語るアンダーソン氏の言葉に、長男は脱力した様子でソファに深く沈み込む。


「なんだ………そう、だったのか………」


 ほう、とこぼれた安堵の息と表情から、彼がこの件にいかほどの緊張感を強いられてきたのかが伺い知れた。

 母親の心を重く縛っていたのだ。無理もない。


「これで母さんも安心するだろう………はあ、よかった……」


 アンダーソン氏にとっては不本意だろうが、これがアップルヤード家にとって最善だろう。


 ―――さて。ここからがこちらにとって本番だ。

 二階から戻ってきた青年を横目に確認してそう思う。


「奥方はやっぱり意識不明の重体だった。それに、私が感じた釈然としない違和感の正体がようやく動いたようだよ」


 ユーフェミアは待ってましたとばかりにほくそ笑むと、長男夫妻とアンダーソン氏の意識を自分に引き寄せた。


「今現在、このお屋敷に滞在しているのはご夫妻とアンダーソン氏、奥で休まれている奥方で全員ですか?」

「え? ええ、ハウスキーパーの方は食事の準備を終えたら帰宅されますから、今はそうですわね」

「なるほど。では皆様。しばし僕の目を見て頂けますか」


 なんだなんだと訝る三対の目を、人とは違う煌めきを宿すベニトアイトの眸で見つめ返した。燐光を宿し、見た者を妖しく魅了する。

 ややあって、三人の瞼がとろりと閉じられていった。


「次に僕が声を掛けるまで眠っていてください。これから起きることを、あなた方は何も見ず、何も聞いていない。いいですか?」


 こくりと素直に頷いて、そのままだらりと弛緩するように眠りに就いた。

 青年は愉しそうに三人の眼前で手を振り、ケラケラと笑う。


「相変わらず便利な目だねぇ。羨ましい」

「喧しい。さっさと終わらせるぞ」

「りょ~かい」






 庭の中央で待ち構えて十分弱。未だ何も起こらない。

 僕は気の長い方じゃないのに、とカリカリしている隣で、青年がのほほんと言った。


「うん、これは私を警戒して出てこないね。意外と真っ当な生存本能を持ち得ていたか」

「ちょっと。それって僕が軟弱者だって言われてるみたいなんだけど!」

「みたいじゃなくて、実際そうなんだよ、ユーフェミア? 君の十八番は頭脳戦と魅了眼(インジール)であって、肉弾戦と能力はからっきしじゃないか」

「ムカツク」

「ということで、囮という名の餌になりなさいね」

「は?」

「殺される前には助けてあげるから、頑張って~」

「は!? ちょっと!!」


 薄暗い庭に一人ぽつんと残されたユーフェミアは、何百というあらんかぎりの罵詈雑言を心の中で喚き散らした。

 あの男はいつもこうだ。戦えないと知っていてあっさり放り出す。情けや思いやりなど、あの男にかぎって持ち合わせているはずがなかった。


 無遠慮に盛大な舌打ちをしたユーフェミアの耳に、芝生を踏みしめる音が届いた。

 ようやくお出ましのようだ。

 青年がいなくなった途端姿を現したことに苛立ちを覚える。完全に侮られている証拠じゃないか。


「やあ、亡霊さん。やっと会えたね」


 ユーフェミアから十メートルほど空けた位置に留まったのは、件の写真に写っていた被写体だ。正確には、十代後半のオーブリー氏の姿を真似た異形なのだが。


「オーブリー氏の命を吸い取って実体を得たのはいいけど、人間には不可欠な影がなかった。だから、今度は奥方のドロシア夫人の命を食んでいるんでしょ?」


 麗しい乙女の姿で瞬く間に懐に踏み込んできた。ユーフェミアは反射的に転げて回避する。

 思った以上に俊敏だった。これはまずい。次は避けきれるか自信ないぞ。


「彼女に化けて家の者とやり取りは出来ても、影は誤魔化せない。だから寝室のカーテンは締めきっているし、間接照明さえ点けさせず欺いてきた。ドロシア夫人の命をすべて奪うまでの辛抱だから」


 再び瞬時に潜り込んできた異形を、予想通り今度こそ躱すことが出来なかったユーフェミアの細首を、へし折らん勢いで絞めていく。

 持ち上げられた身体は宙に浮き、地面から足が離れた。この細腕のどこにこれだけの腕力があるのかと、ミシミシと不穏な音を聴きながらこんな状況でそんなどうでもいいことが過る。


 足下に影があるはずだが、あの腐れ外道、まだ助ける気はないらしい。

 いつか絶対殺してやる!


「ざ、んねん、だ、った、…な……。僕、に、依、頼、され、な、け、れば、おま、え、の、野望、は、かな、って、い、た、はず、だ……っ」

『うるさいうるさいうるさいうるさい!!』

「お前、の、ま、負け、だっっ」

『うるさい!! 負けてない!! わたしは人間になるんだからぁぁぁぁぁ!!』

「う~ん。ユーフェミアの目を通せば姿を確認できるけど、声は聴こえないなぁ。何か叫んでるけど、こいつ何言ってるの?」

『………!?』


 唐突に解放された気道に新鮮な空気が流れ込み、地面に落ちて尻餅をついたユーフェミアはゲホゲホと激しく咳き込んだ。

 腕を捻上げた青年が流れるように異形を引き倒し、背中に体重を乗せた片膝を押しつけて悠長なことを言う。


「毎度毎度おっせぇよ、バカ!!」

「え~。取り押さえるのにこれ以上ないタイミングだったじゃないか」

「クっっっソ兄貴!!」

「お兄ちゃんと呼びなさい。ほらほら、ここからがユーフェミアの役目だろ?」

「覚えてろよ!!」


 赤くなった首を擦りながら吼えると、左腕を夜空へ翳した。


「ヴェ・ニーレ」


 何もない空間から一冊の本が顕現した。

 カシスブラックの装丁に金の装飾がなされたそれは両手で抱えるほどに大きく、また拳ひとつ分の分厚さだった。


「ヴィッド」


 宙に浮いたままユーフェミアの眼前まで降りてくると、バチンと金色の留め具が外れ、勝手に頁が捲れていく。


「ロス・フィーニス」


 ビクンと異形の体が揺れた。


『い、いやだっ、嫌っ、嫌っ!』


 巻き取られる綿菓子のように異形の姿は曖昧になり、本の中へと吸い込まれていく。


『せっかくここまで来たのに! あともう少しなのに!!』

「それは元々お前の物じゃない。お前が手にしている生命力も、アップルヤード夫妻のものだった」

『ちがう! ちがう!』

「オーブリー氏の命はすでに失われてしまったからどうしようもないけど、今まさに全てを刈り取ろうとしているドロシア夫人の命は返してもらう」

『嫌だ! これはわたしのよ! わたしのものなのぉぉぉぉ………』


 悲痛な叫び声さえも絡め取り、異形の姿は欠片も残さず本に吸収され消失した。


「クエント・プエリーリス」


 吸い込んだ頁に、カシスブラックのインクで異形の姿が浮かび上がる。あたかも物語の挿し絵のように、可憐な少女は天に許しを請うかの如く手を伸ばしていた。


「プランドル」


 少女の絵から青く輝く欠片が引き剥がされ、ユーフェミアはそっと腫れ物に触れるように両手で包み込んだ。


「アバド」


 頁が捲れていくと、見開き左に眠る端整な顔立ちの男性の絵があり、右の頁には割れて崩れた青い宝石が描かれている。

 ユーフェミアの手のひらからふわりと浮かんだ青い輝きは、割れた宝石の絵に吸い込まれて僅かばかりの修復を見せた。


「―――――これで、七つ目」


 ユーフェミアの呟きに応えるように、欠けた宝石がキラリと鈍く輝いて見えた。





 ◇◇◇


「先月より前に辿り着けていたら、ご主人も死なずに済んだかもしれないのに………なんて、殊勝なこと思わないのが君だよねぇ」

「当たり前だ。なんで僕が心を痛めなきゃならないんだ。オーブリー氏が亡くなったのは僕のせいじゃないぞ」


 目的は果たせた。これ以上ない締め括りだろうとばかりにユーフェミアは煩わしげな視線を青年に向ける。


「眠ってしまったみたいでごめんなさいね、アンドルーズさん」


 回収を終えた後、ドロシア夫人に奪われた分の生命力を返還し、長男夫妻とアンダーソン氏を起こした。

 知らぬ間に眠っていたことに一番動揺していたのはアンダーソン氏だったが、長い眠りから目覚めて二階から降りてきたドロシア夫人の姿を見つけた途端、齢七十に届く老体とは思えない俊敏さですぐさまエスコートすべくすっ飛んで行った。

 それに驚いていたのはダーナ夫人だが、長男はアンダーソン氏の秘めた想いを知っていたのか、やれやれと困った笑みを浮かべていた。


「お客様を放っておいて眠ってしまうなんて、恥ずかしいわ」

「きっとお義母上の看病でお疲れだったのですよ。気になさらないでください」

「そうなのかしら……いえ、きっとそうね。本当にありがとう、アンドルーズさん。義母も主人もこれで疑惧する日々から解放されますわ」

「礼ならばアンダーソンさんに。彼が話してくださらなければ真相は不明なままでしたよ」

「そうね。でも、アンダーソンさんが仰らずとも、きっとあなたは全てを見通せていたのではなくて?」

「さあ。今となってはどちらでもよろしいのでは?」


 ダーナ夫人は苦笑を返すと、そうだとばかりに手を叩いた。


「依頼料はおいくら程かしら?」

「モルモード夫人にお渡しください。あの方経由で僕に支払われますので。金額はアップルヤード夫人にお任せ致します」

「まあ、責任重大ね」


 くすくすと上品に笑って、ダーナ夫人はこてんと首を傾げた。


「でもお一人で依頼をこなされているなんて、お若いのに大変ですわね」

「なんだって? 失敬な、私も居るのに。君は一人じゃないよねぇ、ユーフェミア?」


 口を尖らせる青年に、ユーフェミアはくすりと笑った。


「そうでもないですよ」

「そうだわ。わたくし貴方にお聞きしていないことがあったの。まず始めに尋ねなければいけなかったのに」

「なんでしょう?」

「貴方のご専門って、結局のところ何だったのかしら?」


 ああ、と合点のいった表情で頷く。そういえば言っていなかった。


「蒐集家ですよ」

「蒐集家?」

「ええ。民話(フォークテイル)の蒐集家です。では、失礼致します」


 門扉まで見送りに出てくれたアップルヤード夫妻に手を振り、闇に沈む道を駅目指して歩く。

 懐の懐中時計を確認すれば、二十一時を過ぎたばかりだった。


「ふああぁぁぁ……疲れた……早く眠りたい」

「あの若奥さん、私をいないものとして扱ってくれたな。大活躍したというのに、なんて腹立たしい」

「しょうがないじゃないか。今のアンタの姿が見える人間なんているわけないんだから」


 アルコホーリクス・アノニマスと銘打った女装の集いで、三人のイニシャルAAが存在していたことは多少引っ掛かるが、これ以上自分たちには関わりないこととしてユーフェミアは思考を放棄した。

 とにかく眠いのだ。ふかふかの寝具にくるまれてぐっすり安眠を貪りたい。


 そう思った、露の間。ぞろりとユーフェミアの足下で蠢く影が、彼の華奢な肢体を拘束した。


「そのお陰で、なんちゃってアルコホーリクス・アノニマスの集会場で有益な情報を手に入れられたんじゃないか。そろそろ私にもご褒美をくれなきゃね?」


 そう囁いて、ユーフェミアの細い首筋を撫でる。


「ふざけんなっ。こんな道すがらで止めろっ。力尽きて帰れなくなるだろっ」

「影を通って連れ帰るから問題ないよ」

「そういう問題じゃない!」

「そういう問題だよ。―――アンドルーズ家に生まれながら、純血なのに同族に血を分け与えられる稀有な存在だと、それを知っているのは私だけだなんてね。両親もセイディも節穴だよね。君の能力の一つとて知らないのだから」


 嘲る青年のやりたいようにやられながら、必死に抵抗していたユーフェミアはついに観念した。

 うんざりと呻くユーフェミアを包み込むと、青年はぺろりと舌舐めずりして、無防備に晒された白い首筋にずぷりと牙を穿った。

 じゅるりと吸い取られていく感覚に顔を歪め、ユーフェミアは小さくクソ兄貴、と悪態ついた。


 ざわりと影が覆い被さって、ユーフェミアは青年に囚われたまま地面の影に消えた。






 ―――――了。






楽しんで頂けましたか???

展開の先が読めちゃった方もいらっしゃるかもしれませんね~

まだまだ穴だらけだなぁと反省しきりですが、現在の作者にはこれが限界のようです。おっふ……


連載にする予定はなかったのですが、ありがたくもご要望頂きましたので、1話完結の短編シリーズとして不定期にはなりますが掲載していこうと思いますo(*≧∀≦)ノ

裏設定や今後の展開、ユーフェミアがなぜ蒐集しているのか、青年の正体と実態などなど、一応短編でも描く以上はきちんと決めてあったので、それをミステリーと絡めつつ頑張って執筆しますp(・∀・`)q


舞台はイギリスで、1800年から1900年代あたりをイメージしておりますが、作中に出てくる汽車や車、煙草の販売年代などなど、時代に合わない表現を使っています。

パラレルワールドとか、フィクションの世界なので、リアルな突っ込みはご遠慮頂けると幸いです。


ファンタジー要素にリアルを求めたら、ハリポタだって成立しませんから!

ダイアゴン横丁なんて存在しないし、キングスクロス駅に本来ならば9と4/3番線はありませんからね!?

リアルはノンフィクションやドキュメンタリー系に求めてください!

と、不備の言い訳をしてみたり~……(;¬_¬)



感想など頂けたらとっても嬉しいです(*>ω<*)

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[良い点] 一見すると王道のミステリーでありながらも、本題である写真の女性の正体を突き止めること以上に、探偵の二人のほうがよほどミステリアスで、そちらにも気を取られてしまうという二重での興味を誘う、と…
[良い点] 企画で再読しました。 この機会に多くの人の目に触れたようでなによりです^^ このお話はよく出来ていますので、皆さん続きとかが気になっているようですね!
[良い点] 家紋武範様の「看板短編企画」からお伺いしました。 緻密に構築された世界ですが、とても入っていきやすかったです。 個々のキャラクターも魅力的で一作で終わらせるのは惜しい気がしました。 そして…
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