第八章 殺意のフーガ
第八章 殺意のフーガ
1
「ローズ、なにをやってる! その覇気のない演技は、なんだ! この分だと来年の主演女優賞は、ドリスに持っていかれるぞ!」
ローズは悔しさに唇を噛んだ。ドリスがセットの外で、ニヤニヤして見ていた。なんとも気分が悪い。
ドリスが来年のオスカーを取るだって? 冗談じゃない!
ただでさえ、現在の立場はドリスが上だ。アカデミー・ノミネート女優となり、共演者も、同じくノミネート俳優。
確かに会場でローズは代役を務め、ドリスの鼻を明かした。でも、話題を振り撒き、ドリスを悔しがらせただけで、実績はなにも残していない。
ローズはセットに立ったまま、大きく深呼吸した。駄目だ、ぜんぜん治らない。
「キャロル、コーヒーを持ってきてくれない? カフェインで頭をすっきりさせたいの」
「はい、ただいま」
キャロルはトニーから預かった魔法瓶と、プラスチックのカップを持って、ローズの側に駆け寄った。
「少し温くなっているかもしれません。温めてきましょうか?」
「いいのよ。一気に飲みたい気分。温くてちょうど良いわ」
ローズはカップになみなみと注がれたコーヒーを、一気に飲み干した。苦みが喉に心地よい。
助監督と何やら話し合いを始めたルイスに、声を掛ける。
「ルイス、もう大丈夫よ。撮影を続行しましょ」
ルイスは振り返ったが、あまり愉快そうな顔をしていなかった。小さく息を吐くと、ゆっくりとローズの側に歩み寄る。
「ローズ、少し休め。なんだか、目ばかりギラギラしている。とても役に入っている姿ではないよ」
「でも、台詞も、ちゃんと覚えているわ!」
「今の君は、台詞を棒読みするだけの、愚鈍なロボットだよ」
あまりの言いぐさだった。
「酷い! こんなに頑張っているのに!」
ルイスは、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「やっぱり、ドリスとの共演は、時期尚早だったかな。まだまだ実力はドリスに及ばないみたいだ。僕は対等に戦えると思っていたんだけどね」
「そんなことないわ! 私だって、ちゃんとやれる! いいから、カメラを回してよ!」
「ほら、いちいち、つっかかるような興奮した言い方をするだろ。極度の緊張状態なんだよ。今日も君のシーンは、撮れないな」
ドリスが、嫌らしい笑みを浮かべ、二人の側にやって来た。
「どうしたの? 次は、ローズのシーンからではなかった?」
ルイスが申し訳なさそうに、ドリスに詫びる。
「済まない、ドリス。ローズは、いつもはこんな状態じゃないんだけど。極度の緊張状態で、なかなか本領を発揮できない。君との共演が影響していると思うんだけどね」
冗談じゃない! ドリスに恐れをなしているなんて、とんでもない言いがかりだ!
「姉さんなんか、怖くないわ! 私は平気、平気なの!」
「ほら、また興奮してきた。ローズ、一度、ここは楽屋に戻れ。水でも飲んで、落ち着くんだ」
2
まったくもって、気分が悪い。ドリスを意識するあまりの緊張状態だなんて!
頭の中がギラギラしていて、火山が噴火するみたいな気分だった。
キャロルが従いてきたが、今は一人になりたかった。
「しばらく一人にさせて。気分が良くなったら、スタジオに戻るわ」
「わかりました」
キャロルは大人しく、楽屋を出ていった。
ローズは大きく鼻から息を吐き、カウチに寝転んだ。さてと、どうしたものか。
ルイスの言い草は頭にも来たが、役にのめり込んでいない事情は、自分が一番よく知っている。このまま休めば、元の調子を取り戻せるのだろうか?
ふと思う。これは、かねてからの計画を実行に移す、最適なチャンスなのではないか、と。
ドリスはスタジオから、しばらくは出て来ないだろう。赤いウィッグを被り、ドリスの振りをしても、他人には、わからない。
鏡の前に座り、ブロンドのウィッグを脱いだ。代わりに、横に置いてある赤毛のボブ・ウィッグを被った。
髪を整えながら、右を向き、次に左を向く。完璧だ。どこから見ても、ドリス・ハートだ。
ローズは鏡の前で、ニヤリと笑うと、立ち上がった。
楽屋を出て、人気のない廊下を歩いた。この廊下沿いで現在、稼働しているスタジオはローズたちのいる第二十三スタジオのみ。関係者は全員が、スタジオに籠もっている。
暗い廊下を抜け、撮影所の裏にある出口に向かう。歩いて数分で、駐車場に辿り着く。
ドリスの愛車、赤のコンチネンタルは、すぐに見つかった。しかし、鍵を開ける術がない。ここはドリスの振りをして、駐車場の管理人に頼み込む。
「ドリス・ハートだけど、車の鍵を忘れてきちゃったの。車の中にある荷物を出したいんだけど、開けてくれないかしら?」
管理人は、ほくほく笑顔で請け合った。
「わかりました。大丈夫ですよ、僕は傷一つ付けずに、開けられますから」
管理人は、小さなスパナでドアを弄った。すぐにドアは開いた。
ローズは、にっこり微笑んだ。
「ありがとう。助かるわ」
「いつでも言ってください。簡単ですから」
管理人は照れ臭そうに笑いながら、戻っていった。
周囲を見回し、他に誰にも見られていないか、確認し、助手席に潜り込んだ。
ブレーキ・ペダルに細工をしたいのだが、手元にドライバーもない。実は、どこを弄ったら、動かなくなるのか、具体的にはわからない。適当に弄くり回す腹だった。ローズはぽんと頭を叩いた。
「やっぱり注意力が散漫だわ。ドライバーを忘れるなんて」
腰の位置をずらすと、お尻に固いものを感じた。腕を後ろに回して、手に取ると、空のコーラ瓶だった。
「まあまあまあ! ちょうど良いものがあったわ」
ローズはコーラ瓶を、ブレーキ・ペダルの下に、そっと置いた。試しに踏んでみるが、ペダルは、びくともしない。
ドリスは飛ばし屋だ。走り出した途端、この車は減速ができなくなる。ドリスは、きっと、事故を起こす。
「さようなら、姉さん。明日の新聞は、姉さんの写真で埋め尽くされるでしょうね」
3
いつもなら撮影の合間、合間に楽屋で休むのだが、ローズがいないとなると、ドリスは大忙しだった。立て続けに三つのシーンを撮り終えた。さすがに疲れた。
スタジオ隅の椅子に、腰を落とし、息を吐く。トニーがすぐに横に来た。
「ドリス、大丈夫? かなり疲れているみたいだ」
「そうね、さすがに疲れたわ。頭痛も少しするの」
「それはいけないね。マネージャーのクリスに、薬を持ってこさせよう」
無能で何の取り柄もないクリスだったが、オスカー・ノミネート女優のマネージャーだというので、最近は尊敬すらされているらしい。
クリスが、ここは出番だとばかりに、揉み手でやって来た。
「痛み止めですか? いくつか用意していますよ」
でも、ドリスは、軽い麻薬中毒者だ。中途半端な痛み止めなど、効きはしない。ドリスは鬱陶しい思いで、クリスの手を振り払った。
「要らないわよ、そんなもの。それより、ラム酒の効いたフルーツケーキが食べたいわ。サンセット・ブルーバードにある『マミー・タバサ』のケーキが一番美味しいのよね」
クリスは間抜けに口を開けた。
「いいんですか? その、甘いものは太るから、節制していると聞いていましたが」
まるでドリスをデブ扱いするような言い草に、ムッとした。
「演技はね、神経をすり減らす仕事なの。今日は、ローズがだらしないせいで、私は出ずっぱりだったわ。ちょっとぐらい食べたって、エネルギーはそれ以上に消費しているわよ!」
トニーが、ぽりぽりと頭を掻いた。
「じゃあ、さっそく買ってきてもらうか。クリス、店はわかるな?」
クリスは途端におろおろし出した。
「えっと、サンセット・ブルーバードですよね……そんな店、あったかなあ」
「赤い煉瓦の建物の一階よ」
「赤い煉瓦? えーっと、ハリウッド・ブルーバード寄りですか?」
ドリスは腹立たしい思いに、眉を吊り上げた。いったい何年、ハリウッドに暮らしているのか? つくづく盆暗な男だ。
そこへ、キャロルが進み出てきた。
「私が行ってきましょうか?」
ドリスは意外な思いに、眉尻を下げた。
「あら、あなたが? 場所はわかる?」
キャロルは、任せてとばかりに、ぽんと胸を叩いた。
「はい、何度か買いに出かけた経験があります。美味しいんですよね、あのフルーツケーキ。使っているバターが違うって話ですよ」
キャロルとしても気を遣っているのだろう。ローズが不調で、ドリスに皺寄せが来ている状態を申し訳なく思い、何か手伝えればと思っているようだ。
ここは、お言葉に甘えよう。クリスなんて使いに出したら、今日じゅうには帰って来ない気がする。
ドリスはクリスに向かって、声を掛けた。
「私の車の鍵、キャロルに渡して」
キャロルが大袈裟に、手を上げて恐縮した。
「いえ、大丈夫です。タクシーで行きますから」
「お金がもったいないでしょ。私の使いなんだし、車は貸すわ。その代わり、少し急いでね。頭に浮かんだら、もう食べたくて堪らないの」
クリスが口を窄め、キャロルに車の鍵を渡した。キャロルは鍵を掲げ、にっこり微笑んだ。
「じゃ、ちょっと行ってきます。コーヒーの用意をして、待っていてください」
4
ルイスが、スタジオの中央で、ぱんぱんと手を叩いた。
「今日は、ここまでにしよう。お疲れ様!」
キャロルがスタジオを出て、四時間が経過していた。いくらなんでも遅すぎる。結果、ドリスのティータイムは味気ないものとなった。
脳が甘さを欲しているから、コーヒーには久しぶりに砂糖をたっぷり入れた。でも、それで満足できるわけがない。
「キャロルったら、大見得を切って! クリス以上の能なしじゃないの!」
そこへ、ローズが入ってきた。もう、ボブ・ウィッグは被っていない。この後、撮影がないだろうと見越して、現れたようだ。
ドリスは、わざと大きな身振りで、背を伸ばした。
「あーあ、今日は疲れちゃったわ。私の周りは、なんでこう、能なし揃いなのかしら!」
ローズはドリスを一瞥しただけで、まっすぐルイスの元に歩いて行った。二人は何やら小声で言い争いをしていた。知ったことではない。
しかし帰ろうにも、車をキャロルに貸したままだ。今日だけは、トニーに送ってもらうか。
「トニー、送ってくれない? 車がないから、一人では帰れないわ」
「ああ、いいよ」
そこにローズが、しれっとした顔で近づいてきた。
「姉さん、キャロルがいないんだけど。どこに行ったか、知らない?」
なにが、どこに行ったか知らない、だ。
「私が知りたいぐらいよ。車を貸したら、そのまま帰って来ないんですもの。実はとんでもない方向音痴だったのね!」
ローズの顔が、見るみる青くなった。
「……車を、貸した、ですって?」
「急にケーキが食べたくなって。買ってきてもらおうと、鍵を渡したのよ」
「な、なんでそんなこと、したのよ!」
ローズの取り乱しように、驚いた。自分のマネージャーを勝手に使われたからといって、ここまで怒る問題でもなかろう。
不意に、スタジオと廊下を繋ぐドアが、激しく音を立てて開いた。制服の警官が二人、スーツ姿の男が二人、ぞろぞろと入ってきた。スーツの一人が、大声を上げた。
「皆さん、帰るのはちょっと待ってください! キャロル・ハンター嬢の直接の上司は、どなたですか?」
てっきりローズが図々しく名乗りを上げると思ったが、無言のまま、突っ立っていた。ルイスが顔を上げ、男に近づいた。
「僕が、撮影現場の責任者です。キャロルは、主演女優のローズ・ヘスターのマネージャーをしています。キャロルが、どうかしたんですか?」
男は警察バッジをルイスに見せた。
「ロス市警のジョンソンです。今から一時間前、キャロル・ハンター嬢の死亡が確認されました。赤のコンチネンタルに乗って、民家に突っ込んだんです。調べると、車の所有者が女優のドリス・ハート嬢だと判明し、伺った次第です」
5
ローズは衝撃のあまり、声が出なかった。
――嘘! キャロルが、あの車に乗っただなんて!
キャロルが死んだ……。ローズがブレーキ・ペダルに細工した車に乗って、ドリスの身代わりになった……。
ドリスも呆然としていた。
でもまさか、自分の代わりにキャロルが死んだとまでは考えていないらしい。刑事に、自分は悪くないとばかりに、強く訴えていた。
「サンセット・ブルーバードまで買い物を頼んだんです。帰りが随分、遅いから、心配していたんです。まさか、事故を起こしていたなんて」
「普段は、お一人で運転を? それとも、助手席に常にマネージャーさんがいたりしますか?」
「一人です。ドライブは、いい気分転換になるんです」
「よく、コーラなんかを飲みながら?」
ドキリとした。事故の原因が、ブレーキ・ペダルだとわかっているのだろう。
ドリスは意味がわからない様子で、頷いていた。
「そうですね。よく飲みますけど、それが何か?」
「飲み干した瓶を、助手席に無造作に投げていたり?」
ドリスがムッとした顔で、刑事に突っかかった。
「自分の車でなにを飲もうが、勝手でしょ!」
「コカコーラの瓶が、ブレーキ・ペダルの下に挟まっていました。つまり、キャロル嬢が運転していたとき、ブレーキがまったく利かない状態になっていたんです」
「そんな……」
ルイスがすかさず、ドリスの肩を抱いた。
「じゃあ、もし、キャロルが乗らず、ドリスが仕事を終えて乗っていたら……」
刑事はしたり顔で頷いた。
「当然、被害者は、ドリス嬢になっていたでしょう」
ドリスの体がぐらつき、ルイスがしっかりと支えた。
「ドリス、大丈夫か? 誰か椅子を持ってきてくれ!」
ローズも気が遠くなりそうだった。倒れたいのは、こっちだ! マイケルがローズの側に寄ってきた。
「大変な事態になったな。ローズ、大丈夫か?」
ローズは憎しみを込めて、ドリスに叫んだ。
「姉さん、よくも私のキャロルを殺したわね! 大事な大事なマネージャーで、友達だったのに!」
ドリスがぎょっとした様子で、振り返った。ルイスが構わず、クリスが持ってきた椅子に座らせる。
「ローズ、よせ! ドリスにこれ以上の刺激を与えるな!」
「なんでよ! なんで姉さんが死ななかったの?」
細工は上手くいっていた。キャロルに車を貸さなければ、今日の夜、ドリスが死体となっていたはずだった。
ルイスがつかつかと歩み寄ってきた。
「ローズ、ドリスを責めるな! これは、事故だったんだ!」
「姉さんが死ねば良かったのよ! 姉さんが死ぬべきだったのよ!」
パンと頬を叩かれた。ルイスが怒りの顔で立っていた。
「ローズ、いい加減にしろ! ドリスだって傷ついているんだ」
ローズはルイスの胸に抱きつき、大声で泣き出した。
「キャロルが、キャロルが死んじゃった! ルイス、私の大事なキャロルがぁあ!」
スタジオは、しんと静まり返り、ローズの叫び声だけが響いた。
誰もが、不幸な事故だったと思っている。ローズが仕組んだ罠だなんて、誰も思っていない。そこまではいい。
でも、よりにもよって、キャロルが犠牲になるなんて。
ドリスが被害者にならず、胸を撫で下ろしている人間もいるだろう。
冗談じゃない! 冗談じゃ、ない!
6
翌日の新聞に、キャロルの死は大きく扱われていた。薔薇姉妹が撮影中に起きた事故。キャロルが先に車に乗らなければ、ドリスが被害に遭っていた可能性が高いと、強調されていた。
ローズは、その日一日、ベッドから起き上がることができなかった。
ルイスもその日の撮影を中止した。ローズもドリスも、ショックを受けている。撮影どころではないと判断したようだ。
目を閉じると、キャロルの笑顔が浮かんでくる。涙が溢れて止まらない。
ローズたち姉妹に関わって、キャロルはつくづく運がなかった。二人の板挟みになり、優しい心は幾度も傷ついただろう。
――あんな心が綺麗な人は、いなかったわ。
昼になり、ルイスがトレイに昼食を載せ、寝室にやって来た。
「具合はどうだい? 少し食べたほうがいい。昨日からなにも食べてないだろう」
ローズはぷいと横を向いた。
「食べたくないんだもの」
ルイスはトレイをサイドテーブルに置き、ベッドにそっと腰を乗せた。
「ドリスが代わりに死ねばよかったと、まだ思っているのか?」
ルイス相手に、取り繕う必要はない。
「ええ、思っているわ! 本来、姉さんが死ぬはずだったのよ!」
「その思いを、撮影現場でぶつけるんだ。きっと、いい作品ができる」
いい作品ができる? そもそも、ローズの計画では、映画は完成しない。ドリスが途中で死んで、消えてなくなるからだ。
キャロルが死んで、映画が完成して、ローズとドリスのどちらかが、主演女優賞にノミネートされる。それでいいのか?
――いいえ! 今はオスカーより大事な問題よ! 姉さんをこの世から抹消することが!
今となっては、キャロルの敵討ちにも似た思いになる。
「それとも、君はこのまま、降板でもするつもりか?」
ルイスの声に、我に返った。
「降板? 冗談じゃないわ!」
「このまま食事も摂らず、スタジオにも現れないとなると、僕は映画の大きな軌道修正を考えなければならない。実は、頭の中にはね、ドリス主演、ローズ主演、それぞれの企画がすでにあるんだよ」
「……私が降りたら、姉さん主演の映画を作るつもりなの? それでも、私の夫と言える?」
ルイスは表情一つ変えなかった。ローズにはこんなルイスが、なんとも冷酷に思えた。
「ああ、言えるよ。ドリスは僕の、義理の姉だ。家族の一人だよ」
ルイスとタッグを組んだら、今度こそドリスにオスカーが舞い込みそうだ。それだけはなんとしても避けたい。
「私は降りないわよ! キャロルの死を無駄にしないためにも、明日から、スタジオに通うわ」
ルイスは満足げに微笑み、ローズの額にキスをした。
「それでいい。君は、ただでさえ、出遅れているんだ。ドリスは数日は休むだろうから、その間に、撮れなかった君のシーンを撮ろう」
数日、休む、か。それもいいだろう。その間に、ドリス殺害計画を、根本から練り直す必要がある。
7
ドリスは、さすがに衝撃を受け、翌日はベッドから起き上がれなかった。
人の死とは、なんと身近にあるのだろう。しかし、よりにもよって、キャロルが命を失うとは。
ちょうどローズ殺害計画を立てていたときだったから、ショックはなおさら酷かった。
トニーも母も、ドリスが乗っていなくて、本当に良かったと胸を撫で下ろしている。
ただ、ドリスには自分が事故を起こしていただろう、なんて想像はできなかった。それ以前に頭に浮かぶ思いは、一つ。
――あの車に、ローズが乗っていたら……。
ブレーキ・ペダルの下には、空の瓶が挟まっていたという。ドリスはよく、コーラを飲み終えると、瓶を無造作に助手席に投げる。瓶は最悪な形で転がり落ちた。
これは、確実に事故だ。でも、作為的にできるシチュエーションでもあった。
ローズの車に潜り込み、故意にペダルを動かなくしてやったら、ローズは大事故を起こし、この世の人間ではなくなる。
なかなかにいい案だが、ローズは自分では車の運転はしない。いつもキャロルかルイスの運転する車の助手席に収まっている。
ルイスも一緒に殺すか?
いや、待て。ルイスはもともと、ドリスの大ファンだった。ローズさえいなくなれば、ドリスのために、名作を作る男となるだろう。こんな金の卵を産む鶏を逃す手はない。
それに、映画関係者が二人も立て続けに、同じ事故を起こしたら、周囲は疑惑の目で見るだろう。
駄目だ。もう、これで車は使えない。
今回の一件で学んだ内容は、偶然を待っていたら、いつになるかわからないという点だった。偶然は、確かに起こる。でも、絶対に、ドリスの思うままには起こらない。
偶然ではなく、明確な作為の結果でなければならない。
今、ローズはトニーから貰っている魔法瓶から、コカインたっぷりのコーヒーを飲んでいる。集中力を欠き、気分も激しく上下している。ただ、これだけでは偶然を待つだけとなる。
ふと頭に、スタジオ上の大きなライトが浮かんだ。あれが頭上に落ちてきたら、ローズは確実に死ぬ。
そう、今この状況下で大事な問題は、確実性だ。
頭の中が、ギラギラしてきた。ドリスはベッドサイドに置いたシガー・ケースから白い包みを取り出した。
そっと開き、中の白い粉を鼻の下で一気に吸い込む。ようやく落ち着いた。
再びベッドに横になり、シーツを頭まで被った。軌道修正が必要だ。ローズを殺すための確実な方法を探さなければ。
8
ローズは三日を掛けて、これまで撮りこぼしてきたシーンの撮影を、無事に終えた。
初日は酷い汗に苦しんだが、二日経つと、なんともなくなった。
トニーもドリスと一緒に休んでいたため、コーヒーの差し入れがなくなった。きっと、カフェインが、脳を興奮状態にさせていたのだろう。
ローズはもう、撮影中にはコーヒーを飲まないと決めた。
新しいマネージャーは、キャロルがメイク係時代に可愛がっていた、エヴァ・スミスだった。キャロルが仕込んだだけあって、メイクも上手く、いろいろと気を回せる女性だった。
もっとも、キャロルには及びもつかないが。比べるほうが気の毒だろう。
キャロルを失った悲しみは深いが、これでローズは、簡単に人を殺せ、尚且つ犯人だと追及されない現実を知った。このまま、とっととドリスにも消えてもらいたい。
さて、どう行動したものか。
ふと、ルイスが好きな、一九二〇年代のハリウッドに思いを馳せる。この時代は毎年、立て続けにスキャンダルが起こり、俳優生命を失った人間たちがいた。
水銀を飲んで亡くなった、オリーブ・トーマス。麻薬中毒で死んだ、ウォレス・リードに、バーバラ・ラ・マー。
でも、死んだ彼らは、どちらかというと、気の毒な人間と、人々の記憶に残っている。
ロスコー・アーバックルは強姦致死事件が無罪になっても、ハリウッドに返り咲くことはできなかった。メイベル・ノーマンドはウィリアム・テイラー監督射殺事件の重要容疑者となり、ハリウッドを追われた。
殺すより、醜いスキャンダルに巻き込まれたほうが、のちのちまで苦しむ結果になるだろう。
殺害事件の犯人! 人々がドリスを殺人犯だと認定すれば、その後の裁判など、どうでもよいほど、世間的有罪は確定する。
エヴァがローズのブロンドのウィッグにブラシを掛けながら、ドレッサーの上にある赤毛のボブ・ウィッグに注目した。
「あら、赤毛のウィッグもあるんですね」
「ええ、キャロルに作ってもらったの。普段に被りたいから。私はもともとは赤毛だったのよ」
エヴァが驚きに目を開いた。
「へえぇ、そうだったんですか! 生まれながらのブロンドだとばかり思っていました」
ローズといえば、ブロンド・ヘアだ。今となっては当然かもしれない。ドリスならさしずめ、「偽物のブロンド」ぐらい言うだろうが。
明日には、ドリスがスタジオに復帰する。この、赤毛のウィッグも、さっそく出番だ。
――見てらっしゃい、姉さん。無実の罪を着せてやるから。
ドリスの両脇を警察官が捕まえ、連行する光景を思い描いてみた。
――「私じゃないわ! 私はこんなこと、やっていない!」
周囲の人間は誰も信じない。当然、大衆も。
ドリスはスキャンダルまみれになって、ハリウッドから永久追放になる。そのために、一人の人間を殺さなければならないのだが、ローズには罪悪感の一つもなかった。