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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第七章 薔薇姉妹の共演

   第七章 薔薇姉妹の共演

 ハート家の居間で、ドリス、母シャーロット、ドリスの恋人トニーの前で、ルイスが熱弁を振るっていた。

「来年度のオスカーは絶対に、薔薇姉妹のどちらかに取らせたい。二人の不仲は知れ渡っていますから、これを利用するんです。仲の悪い双子の姉妹の争いを描きます。皆、飛びつきますよ」

 ドリスはルイスの真意を測りかねていた。

 ローズが受賞式に現れ、オスカー像を手にした顛末が忘れられない。どうせ、ルイスが裏で糸を引いたに違いない。

 今回もまた、ローズにオスカーを取らせるため、ドリスを利用するだけなのではないか?

「タイトルロールでは、お義姉さんの名前を先に出します。これには、ローズも同意しています。実のところ、最初はいい顔をしなかったんですが、どちらが主演女優賞にノミネートされるかは、演技次第だと納得させました」

「演技次第……ね。話題作り次第ではないの?」

 ドリスの嫌味にも、ルイスは動じなかった。

「話題はいくらでも舞台裏で提供なさって結構です。ローズもどうせ、その腹でしょう。二人の仲が悪ければ悪いほど、映画への期待は高まります」

 シャーロットが不安げな声を出した。

「ドリスには、もっと、文芸作品のようなものが合うのではないかしら。そんな話題作りばかりに力を入れて、アカデミーがいい顔をするか、心配だわ」

 ルイスは強い調子で畳み掛けた。

「大丈夫です。空前の大ヒットをすれば、アカデミーだって行儀のいいことを言ってもいられません。いいですか、今一番ハリウッドで話題を集めている、薔薇姉妹の共演なんですよ。ヒットしないわけがない」

 確かにルイスの案は、えげつないと言えば言えた。仲の悪い、そっくりな双子の姉妹が憎み合う内容だなんて。

 ドリスは華のような微笑みを浮かべる役を、ずっとやってきた。憎しみを露わにした演技など、上手くできるだろうか? 

 ルイスがじっとドリスを見詰めた。

「お義姉さん、自信がないんですか? こういった演技では、ローズに勝てない、とでも?」

 ドリスはムッとして反論した。

「そんなことないわ。怒りや憎しみの演技だって、充分にできる自信があります」

「今回の映画は、時に狂気も演じます。やっぱり、お義姉さんには無理ですかねえ」

「できるわ! やりたいかやりたくないか、の話よ」

 意外にも、ドリスの背を押したのは、トニーだった。

「ドリス、君がいつも同じような内容の映画に出たい気持ちもわかる。けれど、ルイスの案も捨てがたいよ。公然とカメラの前で、ローズを罵倒できるんだ。こんな胸のすく話はないと思うな」

「私が不安なのは、ローズのテリトリーに入っていくという点よ。どんな罠を仕掛けているか、わからないじゃないの」

「もちろん、君一人でなんか行かせない。ルイス、ドリスの恋人役には、僕が立候補するよ。ドリスの主演は、それが条件だ」

 ルイスとしても、RKOのトップスターを配役に加えられる事実は、喜ばしいもののはずだった。

「わかりました。ありがたいお話です。さっそくRKOとコンタクトを取りましょう」

 トニーの申し出のおかげで、不安な気持ちが吹き飛んだ。もう少し、周りをドリス派で固めたいところだ。

「マミーも、ジョーン・メイソンも関われないかしら? 待遇は、エグゼクティブ・プロデューサーあたりで。形だけでいいのよ。私も、周囲を自分の味方で固めたいのが本音なの」

 ルイスは即答した。

「お義姉さんのお気持ちは、よくわかります。では、そのように取り計らいましょう。僕は、監督として、大ヒット作を手がけたいだけですから。では、承知していただけますね?」

 ドリスも覚悟を決めた。

「わかりました。引き受けるわ」

 ドリスは渡された台本を、じっくりと読んだ。読めば読むほど、作品に惹かれていった。

 MGMが昔から得意とする、ほのぼのとした家族ものとは根本的に違う。まるでイエロー・ペーパーが毎日飽きもせずに繰り広げている、えげつない捏造の産物のような心理劇が、そこにはあった。

 双子の姉妹、マギーとペギーは互いに憎しみ合う仲。二人の父親が亡くなり、遺産が二人に転がり込む。しかし、互いに半分という事実に、納得がいかない。

 互いの恋人が、それぞれに吹き込む。「遺産を全部貰うには、もう一人を、殺さないといけないな」

 憎しみが憎しみを呼び、騙し合いの末の殺し合い。これがなかなか上手くいかない理由は、姉妹があまりに似すぎていたからだった――。

 それぞれの恋人が、姉妹を間違え、なかなか上手くいかない展開。これは実際にドリスとローズがそっくりでなければならない。

 ドリスは鏡に近づき、顔を映した。

「私たち、そんなに似ているかしら?」

 確かローズの身長は、ドリスと同じ五フィート三インチ。太りやすいドリスは常にダイエットに励んでいるおかげで、ローズと同じぐらいの細身の体をキープしている。

 ローズが十五歳になった頃だったろうか。MGMのお偉方がハート家にやって来て、こう言った。

「白い薔薇は、二人も要らないんだ」

 ローズの顔が途端に曇った様子を記憶している。あの頃は、ローズの野心など考えたこともなかったが。

 あれは、ドリス贔屓の小父さまが、ローズを牽制したに違いない。それだけ、ローズはドリスに似てきていたのだろう。

 だからこそルイスは、ローズの髪をプラチナ・ブロンドにした。そのまま着飾っただけでは、ドリスの二番煎じに陥るとわかっていた。

 つまり、二人は実はよく似ているわけか。

 化粧の仕方で変わってもくるだろう。撮影方法を工夫しても、より似るだろう。

 なにより、カメラの前に立ち、ローズを罵倒できる立場が愉快だった。

 ルイスもドリスに気を遣っているのか、台本の上での立場は、常にドリス演じるマギーが上だった。

 撲殺、絞殺、突き落とし、なんでもありだった。そのどれもが未遂に終わり、最後は、それぞれの恋人を交えて、拳銃で撃ち合う。

 きっと胸のすく思いがするだろう。

 ――本当に死んじゃえば、もっと面白いのにね。

 最初は悪戯心だった。だが、台本を読むうち、だんだん本気になっていった。この台本通りに撮影が進めば、誰かが殺されたって、ちっともおかしくない。

 オスカーを目前にして手に入らなかったときの思いは、唯一つ。ローズさえいなくなれば――だった。

 RKOは、トニーの貸し出しを了承した。オスカー・ノミネート経験者を二年も続けてMGMに貸し出す事態は異例だった。その分、ドリスとの仲を会社も無視できなくなっていたのだろう。

 上手くすれば、トニーが説き伏せて、白い薔薇をMGMからRKOに移籍させられるとでも考えているのか。

 ともかく、ドリスの恋人役は決まった。次は、ローズだ。

 ローズとしても、できれば信頼のおける男優を恋人役にしたかった。しかし、クロードは裁判で、執行猶予つきの有罪となった。カムバックするにしても、時期が早すぎる。

 裁判のとき、情状酌量のため、ローズも法廷に立った。クロードはもう、ローズを恨んではいないと思う。クロードに近い男で、ローズの思い通りに動いてくれる俳優は、いないだろうか?

 ローズは夜中、クロードのアパートを訪れた。顔を見た途端に抱き合い、キスを交わした。

「いろいろ、ご免ね、クロード」

 クロードは爽やかな笑顔を見せた。

「いいんだ。僕はあのまま、君の愛人でいればよかったんだ。僕こそ、君を傷つけてしまった。済まない」

 謝り合えば、あとは、やることは同じだった。しばらくお互いの肉体を堪能した。

 一息ついて、ビールを飲みながら、ローズが口を開いた。

「今度、姉さんと共演するの。姉さんの恋人役は、トニーに決まったわ」

 クロードは諦めたような声を出した。

「知ってるよ。あの二人は、あのまま、ゴールインするんだろうな」

「あなたに何事もなければ、共演を願い出ていたんだけど、さすがに、そういうわけにもいかなくて。ねえ、クロード、誰か信頼の置ける友達の俳優はいない? 姉さんはトニーと結託して、なにをしてくるかわからない。だから、私も信頼のおける俳優と共演したいのよ」

 クロードはしばらく、無言でいた。ローズがその俳優と共演したら、当然、体の関係もできると理解しているのだろう。それが悔しいに違いない。

 やがて、諦めたように息を吐いた。

「君に首輪は、付けられないものな。そうだな……マイケル・ソートンなんて、どうだい?」

「まあ、クロード、あなた、あのマイケルと親しいの?」

「売れない頃から、オーディションでよく一緒になった。独り立ちできるようになってからも、いい友好関係を保っている」

「私に好意を持ってくれているかしら? 今回は、そこが重要なの」

 クロードは、寂しそうに苦笑した。

「君の大ファンだよ。一度、会ってみるといい。君の魅力に、いちころだ。君とマイケルが恋人関係になっても、僕はなにも言わないよ」

「あら、なぜ? もう私が好きではなくなったの?」

「君は一人の男に縛られる女性ではないからね」

 ローズはそっとクロードに近づき、白い手で頬を撫でた。

「私は、あなたを愛しているわ。この気持ちだけは、忘れないで」

 クロードは、うっとりとローズを見上げた。

「ああ、そうだね。忘れないよ」

 一度でも警察に逮捕され、長期間に亘って留置されるなんて経験をしたら、こんなにも骨なしになるのだろうか? 今はローズに時々愛されるだけで、充分に満足している、といった様子だった。

 ――なんだか情けないわね。ま、また殺されかけたら、かなわないけど。

 マイケル・ソートンは、確か今年で、二十八になるはずだ。ドリス同様、子役から活躍し、なんとか大人への脱皮にも成功していた。

 主役では客を呼べないが、大物女優の子供役、相手役をこなし、相応の実績を持っている。

 ローズの魅力で、どこまで使える男になるか。ここは、腕の見せ所だ。既にローズの大ファンなら、なんとかなりそうだ。

「紹介してくれてありがとう。恩に着るわ」

 ローズは慈悲の心で、クロードにそっと口づけた。

 顔合わせの日がやって来た。ドリスは朝から落ち着かなかった。

 ローズと顔を合わせるのは、受賞式以来となる。

 顔合わせの席には、MGMが指定した『ヴァラエティ』誌の記者とカメラマンが同席した。

 場所はハート家の中庭。ガーデン・パーティをして、親交を深める趣向だ。

 ドリスは会社から指定された、赤毛のボブヘアのウィッグを被っていた。映画の中で、ドリスもローズも、揃いのボブ・ウィッグを被る。ただし、ドリスは赤毛、ローズはブロンドだった。

 自分でも、なかなか似合うと思う。今度、地毛でボブヘアにしてみようか。

 ドリスとトニーが待っていると、ローズのマネージャーのキャロルが現れた。キャロルは、ばつが悪そうな顔で、微笑んだ。

「ローズと相手役のマイケルが到着しました。どうぞ、今回はよろしくお願いします」

 ドリスは椅子から立たず、にっこり微笑んだ。

「こちらこそ、よろしく、キャロル。あなたも、これから大変ね。私とローズの両方に気を遣いながら、過ごさなければならないんだもの」

「え、ええ、まあ」

 不意に耳障りな甲高い声が聞こえてきた。

「姉さん、キャロルを虐めないで。これだから、性格の悪い女優は質が悪いのよ」

 ドリスは、「なんですって?」と言い返そうと、顔を上げた。ローズを見た途端、息が止まった。

 ――まあ……なんてそっくりなのかしら。

 ブロンドのボブ・ウィッグを被ったローズは、まるで鏡を見ているかのようだった。メイクの方法もドリスを真似たせいか、本当にそっくりだった。

 ローズはルイスではなく、相手役のマイケルと手を組んでいた。ドリスは瞼を落とし、探る目でマイケルを見詰めた。

 確か、クロードと仲が良かったはずだが……。ローズを奪い合って仲違いでもしたのだろうか。

 男たちは誰も、ローズを既婚者という目で見ていない。ローズも同様。使える男がいれば、誰かれ構わず手を伸ばす。

 でも、ドリスの相手役のトニーが、何倍も格が上だ。ドリスは良い気分で、背凭れに体を預けた。

「これはこれは。ブロンドのドリス・ハートの出来上がりね」

 嫌味を言ったつもりだが、ローズは顔色一つ変えなかった。

「姉さんのメイク方法をキャロルから聞いて真似たのだけど。出かける前に疲れちゃったわ。こんなに時間を掛けて、化けていたとはね」

「そりゃあ、あなたのような不細工な顔を私に変えるのなら、時間も掛かるでしょう」

 後ろから、悠然とルイスが、ジョーンと一緒にやって来た。

「二人とも、やってるね。クランクイン前から舌戦とは、映画に期待が持てるよ」

 ローズがしなを作って、ルイスに甘えた。そのくせ、マイケルの腕を放そうとしないのだが。

「でも、ルイス、あまりに酷く姉さんが虐めるようなら、庇ってよ。神経症になって、演技ができなくなったら困るわ」

 ジョーンが大きく腕を広げ、ドリスを抱き締めた。

「ドリス、安心なさい。監督はローズ派でも、エグゼクティブ・プロデューサーの私は、あなたの味方ですからね」

 ドリスは大袈裟に顔を歪め、ジョーンに抱きついた。

「マミー、いざと言うときは、助けてね。ローズったら、本当に根性がねじ曲がっているんだから!」

 役者が揃ったと見て、記者とカメラマンが動いた。

「では、皆さん、写真を撮りますので、そこの噴水の前に並んでいただけますか?」

 ドリスは最後に動き、真ん中に立つつもりだった。ところがローズもその気だったらしく、中央にぽっかりと、二人分の席が空いた。

「ドリス、ローズ、二人のそっくりな様子を是非とも写真に収めさせてください。観客もこれには驚きますよ」

 ジョーンとルイスがそれぞれを呼び、ドリスが右に、ローズが左に立った。ドリスは役柄に相応しい、高慢な笑みを浮かべた。きっと横ではローズが同じ笑みを浮かべているだろう。

 戦いが始まる。この映画が二人の最終戦だ。無事にクランクアップしたとして、の話だが……。

 父の遺産を巡って、骨肉の争いを繰り広げる、双子の姉妹。当然、セットも豪華になった。ヨーロッパから高級な家具調度が海を渡って運ばれてきた。

 ローズは呆れた思いに眉尻を下げた。

「そんな、本物を使う必要ないのに。私たち姉妹の争いで、家中が拳銃の穴だらけになるんでしょ?」

「いや、ここで手を抜くわけにはいかないよ。本物の高級家具を使うという点が、売りの一つでもあるんだから」

 いったい制作費はいくらぐらいを見越しているのやら。せいぜい、ローズのギャラが減らないよう祈るだけだ。

 もう一つ、ルイスがローズに要求した問題があった。

「タイトルロールのトップはドリスに譲る。今後、新聞や雑誌でこの映画が話題に上るとき、最初にドリスの名前を出す展開となる」

 ローズとしては、ダブル主演なのだし、順番にどちらが上に来るか、という戦いのほうが好ましかった。ドリスにここまで敬意を払わなければならないとは!

 また、『ヴァラエティ』誌に掲載されたローズとドリスの写真が、大きな話題を呼んだ。

「この二人、実はこんなに似ていたんだな」

「ローズが髪を脱色した理由は、ドリスと似ている容貌を変えるためだったのか」

 ――私はドリスの、そっくりさんなんかじゃないわ!

 やっぱりドリスには、消えてもらったほうがいい。

 以前、ルイスはドリスが引退したら、ローズのモチベーションが下がると危惧していた。でも今はもう、大丈夫だ。

 早く、骨肉の争いから解放されたい。ドリスがアカデミー賞にノミネートされた理由は、ローズに対する見せしめとする説があった。このまま、お騒がせ娘でいたら、オスカーだって遠のく。

 もしドリスがいない世界が実現したら! ローズは嫌な問題に気を揉む必要もなく、最高の映画を作ることだけに専念できる。

 ドリスを、唯一の姉を殺す……。そのことに躊躇いはない。問題は、ローズの仕業とわからないよう、殺さなければならない点だった。

 ローズはふと、鏡の前に置かれたマネキンのヘッドを見た。ブロンドのウィッグを被せてある。

 ――このウィッグを使えば、うまくいくかもしれない。

 ドリスとローズの楽屋は、仲良く並んでいた。スタジオにより近い部屋がドリスのものだった。

 大きさも、家具の豪華さも、ドリスは文句がなかった。ルイスはドリスの希望は、何でも聞いてくれた。

 楽屋は間もなく、ドリスを応援する人々が贈る白い薔薇で、いっぱいになった。

 撮影のセットが出来上がり、いよいよ映画はクランクインした。

 ルイスはまず先に、ドリスの名を呼ぶ。ローズはいつも、二番手だった。これは確かに気持ちがいい。

 楽屋から出てきたドリスを、ルイスが出迎える。横でローズがむっすりしているところを見ると、喧嘩中か。ドリスは一際明るい笑顔で、ルイスに声を掛けた。

「おはよう、ルイス」

 そっとハグし合い、ローズを盗み見る。まるで鬼のような顔だ。

「今日も素敵だ、ドリス。ただ、目の下の黒子が目立つから、コンシーラーで消してくれないか?」

 メイク係の女性が慌てて、メイク道具を持って、ドリスの前に走り出た。

 ドリスはメイクを直してもらいながら、ルイスに問い掛けた。

「今日は、私のファースト・シーンの撮影からよね?」

「ああ。大輪の薔薇のような笑顔を頼むよ。オープニングだけは、爽やかに行きたいからね」

 二人の会話を、ローズが憎しみを込めた顔で、じっと聞いていた。今にも刃物でも持って、襲いかからんばかりの形相だ。

 鬱陶しい。実に鬱陶しい。

 アカデミー賞での仕打ちは、絶対に忘れない。ローズをこのままのさばらせておいたら、また、どんな嫌な目に遭うか。

 頭の中にふと湧いた、ローズ殺害の思いが大きく膨らんでいった。

 ルイスが、大道具やカメラマンに指示を始めた。

「そこのカメラ、もっと下がって! ライトも、もう少し右だ」

 ルイスの指示に従い、長い電線、大きな機械、重たいライトが、ゆっくりと動いた。

 なるほど、スタジオは危険な機材で溢れている。ローズが電線に躓いて倒れ、機材に頭をぶつけたら?

 案外とこの空間は、完全犯罪に最適の場所かもしれない。

 とりあえず、トニーに相談してみるか。二人の信頼関係は、もう揺るぎない。トニーなら、最後までドリスを助けてくれるだろう。

「キャロル、赤毛のボブ・ウィッグを作ってくれない?」

 ローズの頼みに、キャロルは、ぽかんと口を開けた。

「ドリスのウィッグと同じようなものですか?」

「同じようなものじゃなくて、寸分たりとも違わぬ同じものよ」

「何のために、ですか?」

 キャロルには、ドリス殺害の計画は話せない。キャロルは心が綺麗すぎる。いや、綺麗事ばかりを並べる、頭の固い女だ。

「普段に普通に被りたいからよ。姉さんを見てると、とても似合って、羨ましくなっちゃって。私も、たまには元の赤毛に戻りたいの。そんな気持ちもわからないの?」

 キャロルは申し訳なさそうに頭を下げた。

「済みません、余計な質問をして。そうですね。たまには赤毛もいいですよね」

 そこにノックの音がした。ローズは気楽な思いで、声を掛けた。

「どうぞ、入って」

 なんと入ってきたのは、トニーだった。まあ、共演者といえば共演者に当たるから、楽屋の行き来は自然な振る舞いなのだが。

「失礼するよ、ローズ。手ぶらでも何なので、コーヒーを持ってきた」

 トニーは右手に持っていた魔法瓶を、テーブルの上に置いた。

 キャロルがさっそく、マネージャーとして動いた。

「今、コーヒー・カップを用意しますからね」

 ローズは警戒し、組んでいた脚を揃えた。

「姉さんの楽屋に入り浸っていればいいのに」

 するとトニーは情けない顔をして、ローズに訴え始めた。

「今日は、ちょっと、愚痴を聞いてもらいに来たのさ。ドリスがあまりにも女王さまなんで、正直かなり参っているんだよ」

 ローズは意外な思いに、眉尻を下げた。てっきりこの二人は上手くいっていると思っていたが。

 いや、でもドリスが女王さま過ぎる話は、わからないではない。クロードも苦労したようだし、案外と、ローズを味方に付けたいのかもしれない。

 ローズとしても、味方は多いほうがよかった。キャロルは今ひとつ、頼りにならない。

「姉さんが女王さまなのは、今に始まった話ではないでしょ。あなたも、てっきり理解して、付き合っているのかと思ったわ」

「主役を張る女優が我が儘なのは知っていたけれど、ドリスは常軌を逸しているよ。僕はこれでも、オスカー・ノミネート俳優なんだよ? それをまるで、召使いのように扱うんだから」

 ローズは笑みを出さないよう気をつけながら、頷いた。

「そうね、姉さんって、そういう人よ。以前の恋人のクロードも、ほとほと参ったらしいわよ」

 キャロルがコーヒー・カップを用意し、魔法瓶のコーヒーを注いだ。ローズとトニーの前に差し出す。トニーは、コーヒーに気づかない様子で喋り続けていた。

「いつだったかなあ。行列ができる店で、僕に並ばせて、自分は車の中で休んでいたんだ。信じられないだろう? してもらうことが当然と思っているんだから」

 話を聞いているうち、ローズも愉快な気分になってきた。ドリスとトニーの間は、傍が思っているほど順調ではないようだ。

「それは、大変だわね。男はきちんと立てないと駄目よね」

「その点、君たち夫婦は理想的で、羨ましいな。君は奔放な性格を売りにしているけれど、きちんとルイスを立てている。この数日、側にいて、よくわかったよ」

 ローズは愉快な思いに、口の端を上げた。

「そんな。当然のことをしているまでよ」

「いやいや、君はやっぱり、ドリスとは器が違う」

 褒められっぱなしで、ローズは照れ臭い思いに、コーヒー・カップを手に取った。

「私もいろいろ誤解されて、辛いときがあるわ。やっぱり姉さんに関わると、皆、迷惑が掛かるのよね」

 そっとカップを口に持っていき、一口飲んだ。

「おいしいわ。どんな豆を使っているの?」

「僕のスペシャル・ブレンドさ。よかったら、また持ってくるよ」

 トニーとは今後のためにも、親しくしておきたい。

「ええ、ありがとう。また、お話しましょう」

 ローズは少し温くなったコーヒーを、一気に飲み干した。

「ローズ、そろそろ出番よ。すぐに出られる?」

 キャロルの声に、ハッとした。なんだか、さっきから不思議な気分だった。ふわふわと地に足がついていないような。体が軽くなって、空を歩けそうな。

「わかった。すぐ行くわ」

 真綿の上を歩くような不思議な感覚のまま、楽屋を出て、スタジオに向かった。

 ルイスがドリスと何やら楽しそうに話をしている。

 ――何よ! 私といるより、姉さんの側のほうが楽しいの?

 ムッとして、ずかずかと歩み寄る。次の瞬間、右足が何かに引っかかった。

「きゃあああ!」

 ローズは、ばったりと前方に倒れた。

「ローズ、大丈夫か?」

 慌ててルイスが駆け寄ってきた。体を起こし、まず顔に傷がつかなかったか確認していた。

「こんなところに電線を伸ばしておくな!」

「は、はい、すみません!」

 撮影担当の男が、急いでリールを持ち、電線を巻き上げた。

 ローズはルイスに体を支えられ、なんとか立ち上がった。

「どうしたんだ? 注意力散漫だぞ」

 ローズも自分でも、何かがおかしいと感じた。でも、はっきりとはわからない。

 なにしろ、頭が思考を停止しようとしている。さっきまで入っていたはずの台詞も、頭から吹っ飛んでいた。

「おかしいわ……なんだか、気分が悪いの」

「大丈夫か? 次は君のファースト・シーンなんだぞ」

 自分でも驚くほど、頭が間抜けになっている。どんなシーンだったろうか? でも、いつも以上に、強気な気分ではいた。

「大丈夫よ。カメラの前に立てば、すぐに台詞は思い出すわ」

 ルイスが呆れた様子で、眉尻を下げた。

「なんだ、台詞も忘れたっていうのか?」

 横からドリスが、割り込んできた。

「ローズって、撮影現場でいつもこうなの? まるでプロ意識がないわね」

 ルイスが言い訳のように、ドリスに応えていた。

「いや、普段はこんなに、ぼんやりしていやしないよ。熱でも出たかな」

 ルイスがローズの額に手を当てた。不快な思いに、振り払う。

「止めてよ!」

 そこへ相手役のマイケルが現れた。

「ローズ、具合が悪いんだって? 大丈夫か?」

 考えるより先に声が出た。

「うるっさいわね!」

 マイケルが訝しげに顔を顰め、ルイスを見た。

「どうしたんだろう。いつものローズらしくない」

 ルイスも同じ意見のようで、頷いた。

「台詞も頭に入っていないというし、ドリスのシーンを先に撮ろう。具合がよくならないようだったら、今日のローズの撮りは、なしだ」

 役立たずの烙印を押されたようで、なんとも気分が悪かった。

「何よ! せっかく準備したのに、撮らせないっていうの?」

 ルイスの冷静な声が、耳に響いた。

「君は、今のみっともない状態をフィルムに収め、アメリカじゅうに公開してもいいっていうのか?」

 さすがに、そこまで言われると、自信がなかった。

「それは……困るけど」

 ルイスがローズの背をぽんと叩いた。

「水でも飲んで、少し落ち着け。そんなにかりかりしていると、ドリスにまた何か言われるぞ」

 もっと言い返したかった。だが、マイケルが横に立ち、ローズに椅子を勧めた。ローズは大人しく、椅子に座った。

「どうしたのかしら、なんだか、凄く変な気分なの」

「そんな日もあるさ、気にするな。撮影は始まったばかりなんだから」

 マイケルが耳元に口を近づけ、誰にも聞かれないように囁く。

「それとも、僕の楽屋に来る? 鍵を掛ければ、しばらくは二人きりになれるよ」

 甘い声で誘われると、普通は良い気分になるのだが。今はマイケルが鬱陶しくてならなかった。

「放っておいてよ! 誰の楽屋にも行かないわ!」

 大きな声に、スタジオじゅうの人間が振り返った。マイケルはすっかり立場をなくし、頭を掻きながら、セットに戻っていった。

 ようやくローズも我に返った。どうして自分は先程から、おかしな行動ばかりしてしまうのだろう?

 顔を上げると、ドリスと目が合った。ドリスはニヤリと笑うと、顔を背け、ルイスの元に戻っていった。

 撮影を終えて楽屋に戻ると、ドリスは愉快な気持ちで、カウチにどっかと腰を下ろした。

「ローズったら、醜態を晒していたわね」

 向かいの椅子にはトニーが座り、ニヤニヤと笑っていた。

「コーヒーの効き目は、凄かったねえ」

「ローズはコカインとか、まったく使った経験がないはずよ。だから、初めて体の中に入れたら、大暴れしたみたいね」

 ローズの楽屋にトニーを差し向けた人間は、ドリスだった。魔法瓶のコーヒーに、たっぷりのコカインを入れて。

「この調子で飲ませていけば、注意力がなくなっちゃって、本当に事故を起こすかもしれないな」

 今日もさっそく、ローズは電線に躓いて転んだ。顔が落ちる位置に、切れ味の鋭い金属でもあればよかったが。傷一つ付けず、ぴんぴんしている。

 ――偶発的な事故となると、いつ起きるか、さっぱりわからないわね。

 案外と、天性の運の良さで、クランクアップまでなにも起こらないかもしれない。それに、トニーのコーヒーを、いつまでも警戒しないで、飲み続けてくれるかどうか……。

 でも、コカイン中毒には、是が非でも、させたいところだ。注意力散漫になり、演技に身が入らない。自然と、光る存在はドリス一人となる。

 ルイスも、このまま行けば、ローズに落胆するかもしれない。そうなれば、話はもっと愉快な方向へ進む可能性も出てくる。

 夫婦共演での撮影中に、二人が別れる展開となれば、確かに愉快だ。

 ただ……物足りない。それだけで満足なんて、できない。

 ローズに惨めな思いをさせたい、なんて程度の考えは、もう抱いていない。抱いているのは、強い殺意。ローズをこの世から抹殺しなければ、ドリスの心は、いつまでも平穏にならない。

 そろそろ、ローズ殺害の、具体的な計画を立ててもいい頃かもしれない。トニーは変わらず協力してくれるだろう。

 問題は、このまま偶発的な事故を待つか。それとも、もっと計画的な行動に移ったほうがいいのか。

 セットを使った、計画的殺人。少し頭をすっきりさせれば、良い考えも浮かぶかもしれない。

「トニー、私にも、そのコーヒーちょうだい。私の場合、それを飲んだら、頭がスカッとするから」

 トニーは小さく微笑み、ドリスのために楽屋の棚からコーヒー・カップを出してきた。

「はいはい、お姫さま。御心のままに」


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