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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第六章 オスカー狂想曲

   第六章 オスカー狂想曲

 十一月にもなると、ローズ殺人未遂事件の報道も収まってきた。それより、もっと人々をわくわくさせる話題があった。それは――アカデミー賞。

 一九二七年に設立された『映画芸術科学アカデミー』が毎年一回、素晴らしいと認めた映画に贈る賞だ。

 今年度の賞は、第二十回を数える。一九四六年八月から一九四七年八月まで公開された作品が対象となる。

 ちょうど薔薇姉妹が大騒ぎを始めた時期に重なるから、観客も更なる話題を期待した。

 順調にヒット作を並べてきたドリスも、当然ながら期待した。賞の選考が始まる時期が十一月。翌年一月に、正式にノミネートが決まる。

 ローズのような騒ぎを、アカデミーは嫌う。だから、今年度のオスカーに、ローズの芽はなくなった。問題は、ドリスだ。

 大女優ジョーン・メイソンの初プロデュース作品『愛の花』は、ドリスにとっても初の主演映画となる。

 相手役のトニー・ジャックマンは既に、ノミネート経験がある。アカデミーは、ローズの所行をいろいろ嫌っているだろうから、反ローズの象徴でもあるドリスがノミネートされる可能性は、高い。

 ドリスは日々繰り広げられる、新聞紙上での予想報道に、一喜一憂していた。

 ハリウッドに生きていたら、オスカーを欲しがらない人間はいない。

 記者たちも、ドリスのノミネートに関して、有力なのではないか、と好意的に書いていた。

 母シャーロットも、わくわくする胸の内を隠しきれない様子だった。

「十八歳なら、最年少の主演女優賞になるわね。ああ、夢のようだわ」

 冗談じゃない。夢に終わったら、困る。オスカー受賞は、実力だけでは不可能だった。その年の時流に上手く乗り、さまざまな幸運をものにして初めて、ノミネートの可能性が生まれる。

 そういった意味では、一九四七年は、ドリスにとって特別な年だった。

 妹ローズが台頭し、薔薇姉妹の話題が毎日のように新聞雑誌を賑わした。当初はローズに食われていたが、我慢した甲斐があった。

『愛の花』は六月末の公開。選考対象に、ぎりぎり滑り込んだ。

 ジョーンも落ち着かないのか、しょっちゅうハート家にやって来ては、受賞の期待を語った。

「今年度は作品賞は無理だと思うの。二十世紀フォックスの『紳士協定』のような、社会派ドラマが脚光を浴びているから。でも、主演女優賞は、また別よ。あなたなら、ジョーン・クロフォードと肩を並べるだけの力があるわ」

 無声映画時代から大スターだったクロフォードと、肩を並べるだなんて! ドリスの胸は熱くなった。

「私も、今回が大きなチャンスだと、わかっています。何か、オスカーを取るために運動をしたりできないのかしら?」

 ジョーンは難しい顔をして、ドリスの言葉に頷いた。

「アカデミーはある意味、厄介な存在でもあるのよね。これまで、これみよがしに「オスカー最有力」なんて宣伝をした映画は、すっかり無視されたし。でも、時流には敏感よ。あなたの場合、問題児ローズの対極にあるわ。アカデミーがローズの所行を懲らしめるつもりで、あなたをノミネートする確率も、けっこうあると思うのよ」

 ローズが起こした騒動のおかげで、こちらに風が吹くとは。

 誰もがオスカーを欲しい。だけど、欲しがってはいけない。大人の事情とは難しいものだ。

 一九四七年カウントダウン・パーティで、ドリスは集まった人々にだけ、告げた。

「来年には、オスカー女優となって、皆様の前に現れたいと思います」

 明けて一九四八年一月、『愛の花』は主演女優賞、脚本賞二部門でノミネートされた。ドリスは勝利の思いで、にっこりと微笑んだ。ハート家を訪れたカメラマンに、ドリスは喜んでポーズを取った。翌日、新聞紙面にドリスの優美な笑みが掲載された。

「白い薔薇、アカデミーにノミネートされる。見果てぬ夢〝青い薔薇〟は所詮、妄想の産物。この世で最も美しい存在は、白い薔薇!」

 ローズは新聞に掲載されたドリスの写真を、びりびりに引き裂いた。

「悔しい、悔しい、悔しいぃい! このままじゃ、私の夢だった、史上最年少でオスカーの可能性まで、出てくるじゃないのよ!」

 一月には、傷もすっかり良くなっていた。しかし、ルイスはなかなか、次なる作品の企画をしない。

 クロードの裁判があり、ルイスは忙殺されていた。いわば、ローズのしでかした問題の後始末だったから、文句は言えなかった。

 キャロルが不思議そうに、コーヒー・テーブルの上を探っていた。

「ねえ、ローズ、今日の新聞は? クロードの裁判の詳細が載っていると、ルイスに言われて来たのだけれど」

 ローズは憤然と叫んだ。

「そんなもの、もうないわよ! 私がびりびりに引き裂いてやったわ!」

 キャロルは呆れた様子で、眉尻を下げた。

「ローズ。ドリスの問題は、もう忘れたら? トッド家で今、大事な問題は、クロードがどれだけ情状酌量されるか、よ」

「馬鹿じゃないの? ハリウッドに住んでいれば、誰だって今日の新聞はオスカー・ノミネートの話題しか見ないわよ!」

 キャロルは大きく息を吐くと、ローズのすぐ脇に立ち、静かに口を開いた。

「クロードの問題だって、ハリウッドの話題よ」

 キャロルがなにを言いたいかは、わかる。ローズの責任だと言いたいのだろう。

 でも、ローズだって傷を負った。新聞紙面に贖罪の記事は載せた。もう充分だろう。

「どうせもう、戻って来られないわ。クロードは過去の人よ。ううん、落伍者よ!」

「ローズ、なんてこと言うの! クロードにどんな罪があったとしても、そんな言葉、吐いちゃ駄目!」

 どんどん感情が高まってきた。声が涙声になるのを抑えられない。ローズは、ドリスに負けた。この真実がどれだけ辛いものか、どうせキャロルには、わからない。

 涙が溢れて止まらない。せっかくドリスを追い抜いたと思ったのに。最近では、ドリスばかりが良い話題を攫う。ローズはすっかりお騒がせ娘となり、女優として本業の話題がとんとない。

「姉さんがオスカー像を持って、スピーチするなんて、耐えられない! 死にたい! 死にたい! もう死にたいわよぉおお!」

 キャロルがそっと横に座り、ローズの体を抱いた。

「ローズ、もっと謙虚になって。デビューして一年やそこらで、オスカーのことなんて、考えるものではないわ。皆、何年も、何十年も待ち望んでいたの。ドリスは、子役からのスタートだった。だから、ずっと欲しかったに違いないわ。今回は、笑顔で譲ってあげなさいよ」

 笑顔で譲る? 冗談じゃない! キャロルはときに、あまりに誠実過ぎた。もっとローズと組んで、悪巧みをする気分になれないものか?

 悪巧みをするというなら……ルイスが何か案を持っているかもしれない。

 第二十回アカデミー賞は一九四八年三月二十日に、ロサンゼルスのシュライン・オーディットリアムで開催されることとなった。

 どうしよう、あと二ヶ月しかない! ノミネートが決まってから、ドリスは大忙しとなった。

 晴れの舞台で、誰よりも輝きたい。レッド・カーペットを歩くドリスを、大勢のカメラマンが待ち構える。ドリスは念入りに肌と髪の手入れを始めた。

 ロスに美容院を構える美容家のライラ・ミズラヒが、ドリスの美の担当となった。

 いろいろな成分を調合したパックをドリスのデコルテから、首、顔に塗りながらライラは、うっとりと目を細めた。

「素晴らしいわ、ドリス。やはり、若さとは最大の武器だわね。ジョーン・クロフォードも、ロレッタ・ヤングも、皆、あなたの肌に嫉妬するわ」

 今回、主演女優賞にノミネートされた女優は、ドリスの他に五人。

 八部門に最多ノミネートされた、今年度では最も話題を攫った映画『紳士協定』から、ドロシー・マクガイア。

 映画界の重鎮とも言える、無声映画時代から活躍してきたジョーン・クロフォード。

 演技派としての地位を築いた、地味ながら実力者の、スーザン・ヘイワード。

 今回オスカーに最も近いと言われている、ロザリンド・ラッセル。

『ミネソタの娘』のロレッタ・ヤングは、子役から女優生活二十年目。

 これだけの実力者が揃った年も、珍しい。残念ながら、ドリスがオスカーを取ると書く新聞は、少なかった。

 でも、誰よりも話題を攫っていた。薔薇戦争の勝利者として。

 オスカーは、ノミネートされるだけで、大きな価値がある。今後、ドリスはオスカー・ノミネート経験のある女優として、尊敬される存在となる。

 それでもドリスは、諦めていなかった。なんとしても舞台に立って、プレゼンターからオスカー像を受け取りたい!

 ライラの叫声が、夢想を破った。

「まあ、なんてこと! 右目の下にシミができてる! ドリス、あんなに日を浴びないよう気をつけろと言ったのに、無防備に帽子なしで外に出たわね!」

「ええ、本当に?」

 ドリスはがばっと体を起こし、手鏡に顔を映した。

 うっすらと、茶色いソバカスのようなものが、右目の下に見える。シミ一つない肌が、何よりの自慢だったのに!

「ライラ、お願い! このシミを消して! 三月二十日までに、なんとしても消してちょうだい!」

 ドリスは諦めてはいなかった。今までも、下馬評が一番低い俳優が、オスカーを受賞した過去は、いくらでもある。ドリスが受賞したら、人々は驚くだろう。

 でも、アカデミーの選定基準は、ないに等しい。一番の興行収益があったもの、とか、雑誌の人気投票で一位だった作品、だとか、決まり事が、いっさいない。

 ドリスはノミネートされた女優たちの中で、いちばん新聞雑誌を賑わせてきた人間だ。

 アカデミーは、ハリウッドの腐敗を嫌う。問題児となって、世間を大きく騒がせているローズは、今では一番アカデミーに嫌われているだろう。

 ジョーンが言っていた。

 ――「アカデミーがローズの所行を懲らしめるつもりで、あなたをノミネートする確率も、けっこうあると思うのよ」

 実際こうして、ノミネートを果たした。もう二度と、ローズに厄介ごとを起こさせないためにも、ドリスにオスカーを、と主張する選定委員が、出てくるかもしれない。

 ローズも今後、今までのような騒動を出さないよう気をつけるだろう。つまり、今年度は、唯一のチャンスになるかもしれない。

 ドリスは受賞スピーチを考えながら、写真に収まるべき美しい笑顔を入念に練習した。

 ハリウッドで幼い頃から活躍してきた、元子役の俳優たちは、だいたいが親のために、ビバリーヒルズに邸を買う。

 ローズは、そんな邸宅の一つにいた。大きな吹き抜けの下に配置された客間で、たぶん螺旋階段を堂々と下りてくるであろう、家主の登場を待った。

 ロバート・パリッシュ――彼の名を俳優として知っている人間は、なかなかハリウッド通と言えよう。

 一九三〇年公開の『西部戦線異状なし』や一九三一年のチャップリン映画『街の灯』、その他、ジョン・フォード監督作品に出演してきた。

 だが、長年ハリウッドにいるローズも、ロバートの存在を忘れかけていた。第二十回アカデミー賞にロバートがノミネートされるまでは――。

 不意に頭上から声がした。

「ようこそ、青い薔薇! 僕は君のデビューから一貫して、青い薔薇派の人間だよ!」

 瓶底眼鏡に不思議な虹色の上着を着た、ロバートと思われる男が、階段を下りてきた。ローズは焦った。

 ――人嫌いだと聞いていたけど。もし目立ちたがりの人間だとしたら、私たちの最後のチャンスもなくなるわ。

 ローズは立ち上がり、優美な仕草でお辞儀をした。

 ロバートは、とことこと階段を下りきると、まっすぐローズの側にやって来た。瓶底眼鏡を両手で持ち、じぃっとローズの顔を見つめる。

「美しい、美し過ぎるよ、ローズ。君の存在をこの世に認めた神に礼を言わなければならないな」

「お褒めの言葉、ありがとうございます。私、ルイス・トッドの妻でもあります。ルイスが友人として、あなたのオスカー・ノミネートを是非お祝いしたいと申しておりました」

 ロバートが、ぽんと額を叩いた。

「ルイス! 盟友ルイスのことだね! 彼の活躍も目覚ましいよ。来年のオスカーには、きっとルイスがノミネートされるだろう。なにしろ、こんな僕でも、ノミネートされるぐらいなんだからね」

 ロバート・パリッシュは大人になると、同じハリウッドでも制作の側に移った。編集として独り立ちした初の作品『ボディ・アンド・ソウル/背信の王座』で、第二十回アカデミー賞編集賞にノミネートされた。

 ローズは目を伏せ、丁重なお辞儀をした。

「ありがとうございます。オスカーはハリウッドの人間にとって勲章ですものね。ルイスも励みになると申しております。それより、ミスター・パリッシュ――」

 ロバートはそっとローズの手を取り、両手で重ねた。

「ロバートと、お呼びください、青い薔薇。あなたも今日から、私の素晴らしい友人の一人です」

 ローズは思わず、口の端を上げた。素晴らしい友人? その立場こそ、素晴らしかった。

「ありがたいお言葉ですわ、ロバート。そういえば、ルイスから伝え聞いたのですが、来月からイギリスに長期の取材旅行に出かけるそうですね。素晴らしいことですわ。それで私たち、何かお手伝いができないかと考えたんです――」

 ドリスがリムジンから降りると、たくさんのフラッシュが焚かれた。予期していた事態だから、いったん顔を背け、準備をすると、目を見開いて振り返った。

「ドリス、こっちに目線お願いしまーす!」

「初のノミネートに感想を一言!」

 マイクを向けられ、悠然と笑みを浮かべる。

「ここまで来られたことを、神様に感謝しています」

 その日のドリスはまさに、大輪の白い薔薇だった。他の主演女優賞ノミネートの女優たちは、シンプルなイブニングドレスばかりのはずだ。それなりに歳を取ると、派手な衣装は似合わない。

 まだ十代のドリスは、膨らんだスカートが良く似合った。ウエストから下にたくさんの襞を寄せ、白い薔薇の花を模した。

 プロデューサーのジョーン・メイソンが続いて下りた。ドリスを支えるように、そっと肩を抱く。

「本当に誇らしいわ。今日のあなたは、誰より輝いている。こうなったら、是非とも受賞して欲しいわ」

 もちろんドリスも、その気だった。ここまで来て、ノミネート止まりで笑顔を振り撒くだけなんて、ご免だ。

 ジョーンでさえ、助演と主演で三度ノミネート止まりでいる。ここでドリスが受賞すれば、映画『愛の花』も今一度、脚光を浴びる。プロデューサーになったジョーンにとっても、最高のステップ・アップになるだろう。

 会場に向かって歩を進めていくと、ロザリンド・ラッセルがインタビューを受けていた。今回、一番オスカーに近い女優と言われている。

「――今回の候補者は多岐にわたっていて、面白いわね。クロフォードのような化石がいれば、プロムに出かける途中みたいな女の子もいるんですもの」

 ドリスを指していると、すぐにわかった。

 実際、ドリスはプロム・パーティに出た経験がない。子役時代から、ずっと、MGMが用意した教師とマンツーマンで勉強していたから、そんな平凡な幸せの機会もなかった。

 いいや、平凡な幸せなんて要らない。多くを犠牲にしてきたから、今自分はここに立っている。

 ラッセルは、ドリスが背後を歩いている事実に気づかなかった。ドリスは悪戯心を起こし、カメラマンに向かって、手を振った。

「おっと、プロム・パーティを抜け出してきた娘が、すぐ後ろにいますよ」

 ラッセルはぎょっとして、後ろを振り返った。ドリスはぺこりと頭を下げた。

 ラッセルは途端に、しどろもどろになった。

「ま、まあ、若い人には、いい経験になるでしょうね。私はそんなに早くから、こういった機会に恵まれなかったから、羨ましいわ」

 カメラマンが一斉にフラッシュを焚いた。

「ドリス、せっかくだから、並んでください!」

 ドリスは素直な少女の振りをして、ラッセルの横に顔を近づけた。

「マミーもいいかしら。マミーがいないと、震えが止まらないの」

 ジョーンがラッセルを警戒するように、ドリスの横に立った。奇妙な三人の記念撮影が始まった。

 ドリスは何より気分が良かった。

 本来だったら、こうした大女優たちと競い、ときに争うべきだ。いつまでもローズを気にして、骨肉の醜い争いを見せているわけにはいかない。

 一応の撮影が終わると、ドリスはラッセルに丁重なお辞儀をし、その場を離れた。会場のシュライン・オーディットリアムの入口は、ネオンで囲まれ、輝いていた。

 会場に足を踏み入れると、トニーが立ち上がり、ドリスに手を振った。

「ドリス、こっちこっち!」

 トニーが着いていた席には、『愛の花』のスタッフが集っていた。ドリスは笑顔で、トニーのキスを受けた。

「トニー、来てくれて、ありがとう。マミーと一緒にレッド・カーペットを歩いただけで、もう足が震えて困っていたの」

「レッド・カーペットを歩いただけで竦み上がっていたら困るな。君の目標は、ジョーンや僕がまだ成し遂げていない、オスカー受賞なんだから」

 ドリスは困った振りをし、眉根を寄せて、笑った。

「こればっかりは、私がいくら頑張っても、無理ですもの。後は運を天に任せるしかないわ」

 アカデミーが金で動くものなら、全財産を差し出したっていいのに!

 テーブルに着くと、ボーイが飲物を運んできた。渡されたシャンパンに酔わないよう、ちょっとだけ口を付けた。

 MGMのタイクーン、ルイス・B・メイヤーは第一回から出席し、大きな発言力を持っていると聞く。同じMGMのドリスに、優位に働くかもしれない。

 第一回アカデミー賞受賞式は、映画エリートたちのごく内輪の集まりだった。ディナー・パーティに近く、途中でダンスの時間もあったらしい。

 当時は当日までに受賞者を伝えられたから、受賞したジャネット・ゲイナーの対抗馬だったグロリア・スワンソンは、式に欠席した。

 何度もノミネートされ、さっぱり受賞とは縁がない女優たちにとって、式当日は恐怖の一瞬でしかないとも言われている。

 これまで、さまざまなドラマがあった、アカデミー賞。

 今回で第二十回を迎える。記念すべき年に、史上最年少でドリスが主演女優賞を受賞するのは相応しい。

 ただ、マスコミの目は、最多ノミネートの『紳士協定』の関係者に群がっている。

 自信が凹みそうになると、ジョーンが強く手を握ってきた。

「作品賞と主演女優賞は、まったくの別物よ。大丈夫、あなたにだって、充分にチャンスがあるわ」

 ドリスは自分でも、落ち着いていると感じていた。何より今回は、目の前をちらちらとうろつき回る、妹ローズの姿がない。それが、こんなにも気分が良いとは、ついぞ思わなかった。

 ――もう、ローズなんて、敵じゃないのよ。この場に存在する権利を与えられたのは、ローズじゃなくて私なんだから!

 やがて、場内が暗くなり、舞台が眩しく輝いた。オーケストラが演奏を始め、踊り子たちが舞台上に飛び出した。

 胸の高まりを抑えられない。

 司会のアグネス・ムーアヘッド(備考:後にTVドラマ『奥様は魔女』でサマンサの母エンドラを演じる女優でもある)とディック・パウエルが、仲良く手を取り合って、舞台上に現れた。

 ドリスたちはスタンディング・オーベイションで、二人を迎えた。

 あまりに大きな拍手に、アグネスが思わずといった様子で声を出した。

「ああ、私もそっち側に行きたかったわ!」

 場内が爆笑した。第二十回アカデミー賞は、実に気持ちの良いスタートを切った。

「さあ、いよいよ、皆さんお待ちかねの、主演女優賞の発表です!」

 アグネスがマイクに向かって声を出すと、より一層の拍手と歓声が上がった。

 既に主演男優賞の発表は、済んでいた。一九二〇年代から活躍してきた、ロナルド・コールマン。初の受賞だった。長い俳優人生で、いったい何度、オスカーに近づいた瞬間があったのだろう。

 パウエルが笑顔でノミネート女優の名を発表する。

「『失われた心』のジョーン・クロフォード、『ミネソタの娘』のロレッタ・ヤング、『スマッシュ・アップ』のスーザン・ヘイワード、『紳士協定』のドロシー・マクガイア、『モーニング・ビカム・エレクトラ』のロザリンド・ラッセル、『愛の花』のドリス・ハート、以上、六名の争いです」

 名前が呼ばれるたび、スポットライトが当たり、拍手が湧き起こる。最後のドリスの名前のときが、一番の拍手の数だった。

 ――神様、お願い! このチャンスを逃したら、いったい次がいつになるか、わからないわ。

「いつもは五枠のところを、今回は特別に六枠となりました。それだけに、接戦なわけよね」

「じゃあ、アグネス、発表して。このまま引き延ばしたら、失神する人間が出てきそうだ」

 パウエルのジョークに、笑いは起こらなかった。妙な沈黙の次に、アグネスがカードを開いた。

「じゃあ、いくわね。第二十回アカデミー賞主演女優賞は――」

 ドリスは、ぎゅっと目を閉じた。

「『ミネソタの娘』のロレッタ・ヤング!」

 拍手より先に、会場がどよめいた。ロレッタ・ヤングは、下馬評では最下位に位置していた。

 すぐにヤングの席にスポットライトが当たり、熱い抱擁シーンが繰り広げられた。

 ドリスは、はぁっと落胆の息を吐いた。ジョーンが体を寄せ、ドリスを抱きしめた。

「残念だったわね。でも、また次があるわ。あなたは若いんだから」

「はい……」

 トニーが、そっとドリスの手を握った。

「大丈夫かい?」

「うん、大丈夫よ。平気。また次があるわ」

 ヤングが壇上で、胸を押さえ、目を閉じていた。

「ああ、やっと。やっとね……」

 それきり絶句し、なにも言えなくなった。子役時代から二十年。オスカーを取れる器ではないと思われていた、ヤングの受賞。ドリスは、複雑な思いだった。

 ――私も小母さんになるまで、壇上には立てないのかしら……。

 すぐに席を立ちたかった。でも、賞が終わる度に落伍者が消えていたら、会場は閑散となる。受賞者に対しても失礼にあたる。

 魂が抜けた思いのまま、ぼうっと席に着いていた。

 こんなことなら、最初から欠席していればよかった。もうスピーチをする必要はない。

 作品賞を最後に残し、比較的小さな賞が、次々に与えられていた。ドリスはもう舞台を見ていなかった。

 そのとき、信じられない声を耳にした。

「編集賞受賞のロバート・パリッシュは、今、仕事でイギリスにいらっしゃいます。代理人に、オスカー像を受け取るよう頼んでいきました」

「皆さん、残念がらないで。とんでもない女性が、パリッシュの代わりにオスカー像を受け取る事態となりましたから」

 アグネスが悪戯っぽく笑い、パウエルが不思議そうな声を上げた。

「とんでもない女性?」

「ハリウッド一のお騒がせ娘、青い薔薇が退院後に初めて、公の舞台に顔を出します」

「おおっと、これは大変だ! ローズ・ヘスターの登場だ。カメラマンの皆さん、早く前へ!」

 会場は蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。カメラを持った男たちが、揉み合いながら、舞台すぐ下に駆け出した。

 ドリスは信じられない思いで、舞台の上を凝視した。

 青い薔薇の花を模した、思いっきり膨らんだドレスに身を包んだローズが、壇に上がってきた。一斉にフラッシュが焚かれた。

 ローズは勝ち誇った顔でオスカー像を受け取ると、スピーチ台に立った。

「素晴らしき友人、ロバートからの伝言です。オスカー受賞なんて、まるで夢のようです。今後も精進し、最高の映画を作っていきます」

 更に激しいフラッシュの嵐。カメラマンの提案で、ローズを司会のアグネスとパウエルが囲んだ。

 ジョーンが唖然として、口を開いた。

「いったい、なにが起こっているの? まるでローズがオスカーを受賞したみたいじゃないの!」

 ドリスは怒りで、声が出なかった。

 ――なんなの、これ! 私はどんなにドレスアップしても、舞台に立てなかったというのに!

 華やかに笑っていたローズの目が、ドリスを見詰めた。ドリスは目を逸らさず、睨み返した。

 二人の視線が激しく交錯した。ローズがニッと笑い、ウィンクした。

 ――「姉さん、残念だったわね。主役の座はいただくわ」――とでも言うように。

 普段、編集賞なんて地味な賞に、カメラマンは集まらない。ここは、淡々と受賞者が現れ、消えていく時間のはずだった。

 ローズがロバート・パリッシュの友人だったわけがない。最初から、ドリスが受賞を逃すと想定して、計画したに違いない。

 ノミネートされた人間のうち、当日に会場に行けない予定の人間に狙いを定め、代わりにトロフィーを貰う役に名乗りをあげる。

 悪巧みに関しては、ローズはドリスの数倍は頭が回転した。ルイスの入れ知恵かもしれない。

 このところ静かにしていたので、頭になかった。ローズは虎視眈々とスポットライトを浴びる機会を狙っていたわけか。

 数人のカメラマンが、呆然と見上げているドリスを、写真に収めた。すぐにジョーンとトニーが文句を言ったが、後の祭りだ。

 黙って受け取り、静かに去っていけばいいものを、ロバートからの伝言とかなんとか言って!

 この光景だけ切り取ってみると、まるでローズがオスカーを受賞し、感謝の言葉を述べたかのようだ。

 ローズが壇上から降り、会場の外に去っていくと、多くのカメラマンが追いかけていった。

 司会のパウエルが呆れた様子で、掌を上にした。

「おいおい、君たち。作品賞が残っているって、忘れてしまったのかい?」

 ドリスは怒りに任せ、立ち上がり、ナプキンを椅子の座面に投げつけた。

 ――ローズ、許さない! 絶対に許さないわよ!

 翌日の新聞の一面は、アカデミー賞の話題で占められていた。もちろん、作品賞、監督賞他、主演男優賞、主演女優賞が写真付きで紹介されていた。

 ローズは新聞を広げるなり、興奮で胸が高鳴った。

「ルイス、ルイス、見て! 私が載っているわ。思っていたより、大きな写真よ」

 天下のロサンゼルス・タイムズも、ローズの登場を無視できなかったようだ。主演女優賞のロレッタ・ヤングのすぐ横に、オスカー像を抱えるローズの写真が掲載されていた。

 ルイスは居間の柱に凭れ、コーヒーを飲んでいた。にんまりと口の端を上げ、微笑む。

「今回の作戦は、大成功だったな」

 ローズは不思議な思いで、顔を上げた。

「ルイスは、ロバートがオスカーを取ると見抜いていたの?」

 編集賞は他に錚々たるメンバーが並んでいた。

『紳士協定』のハーモン・ジョーンズ、『気まぐれ天使』のモニカ・コリングウッド、『邪魔者は殺せ』のファーガス・マクドネル、『大地は怒る』のジョージ・ホワイト。

『ボディ・アンド・ソウル』はロバートが編集として独り立ちして、最初の作品だった。つまり、キャリアがない。

「いや、博打のようなものだったな。他の受賞者で、当日、別のスケジュールを入れている人間が、他にいなかっただけだ」

 ローズは驚いて声を上げた。

「えええ? じゃあ、私は、あの大仰なドレスを着たまま、すごすご家に帰る顛末になっていたかもしれないの?」

 ルイスは、さらりと応えた。

「それが、アカデミー賞さ」

 昨日の夜のローズは、ついていた。壇上からドリスを見たが、みっともないほど派手に着飾り、賞を取る気満々だった。

 ざまあ見ろ、だ。今頃、地団駄を踏んで、悔しがっているだろう。あのドレスで、すごすご帰るさまは、惨めだったろう。どこかのイエロー・ペーパーが写真に収めているだろう。キャロルに言って、買ってこさせようか。スクラップにして、永久保存だ。

 どんな実力者でも、毎年そうそうオスカーと縁があるわけではない。

 薔薇戦争は終結したわけではない。今後、ローズとドリスがハリウッドに住む限り、続く。

 ローズが勝利すれば、悔し顔のドリスが取り上げられる。ドリスが勝利すれば、ローズが。

 そろそろ、鬱陶しくなってきた。永久におさらばできる道が、ないものか。

 ――ハリウッドを追われるには、相当のスキャンダルが必要よね。

「ねえ、ルイス。これまでのハリウッドの歴史の中で、スキャンダルで仕事ができなくなった人、つまり、スキャンダルでハリウッドを追われた人って、いたわよね?」

 ルイスがふっと顔を上げた。

「一九二一年のロスコー・アーバックルが、代表的なところかな。無名の女優の強姦致死容疑で、逮捕され、その後に裁判で無罪となったが、観客は納得しなかった」

「そっかあ……逮捕されなきゃならないのね」

 そこまでの罪を着せられるかどうか……。

「アーバックルを庇った女優のメイベル・ノーマンドも飛ばっちりを受けた。自身の麻薬中毒なんかを暴露されてね。ただ、彼女の場合は、その翌年の映画監督ウィリアム・デズモンド・テイラー射殺事件の容疑者になって、追われる形となった」

 確か、ドリスは、痩せるためにコカインをやっていたと記憶している。でも、薬物中毒程度じゃ、施設に入院して終わりだろう。

 殺人事件の犯人、か。なかなかに面白いアイデアだ。でも、誰を殺す?

 ドリスの身近な関係者となると、クロードか、ジョーンか。

 トニーという選択肢もある。ドリスが重要容疑者。悪くないアイデアだ。たとえ裁判で無罪になっても、女優生命は終わる。

 でも、どうやって、殺人事件に巻き込む?

 待てよ? ドリス自身が殺されて、いなくなってくれれば、一番いいのではないか?

「ローズ、その顔は、また良からぬことを考えているな?」

 ローズは我に返った。ルイスは、気づいただろうか? ローズが一瞬ちらっと抱いた、ドリスに対する殺意を。

 ローズは無垢な笑顔を意識して、顔を上げた。

「そんなことないわ。昨日はオスカー像を抱いて眠ったし、私は現状に充分に満足しているわ」

 ルイスがウィンクした。

「嘘つけ」

「あ、ばれた?」

 二人で顔を見合わせ、小さく笑った。

「ところで、トロフィーはどこに置いた?」

「寝室のドレッサーの上よ。鏡に映すと、三つにも四つにもなって、夢のような気分になるの」

「ちゃんとロバートには返せよ。自分のものじゃないんだから」

「来年、私が自分のオスカーを手に入れたら、ちゃんと返すわよ」

 もう三月末。来年のオスカー目指して、映画人たちは活動を始めていた。対象となる映画は、八月までに公開されていなければならない。

「ルイス。ここは、攻めの姿勢で行くでしょ? 来年のオスカー獲得のために、あなたはもう、準備を始めているわよね?」

 ルイスはコーヒーを飲み干すと、ローズの横に腰を下ろした。

「もちろんだ」

「で、どんな映画? 私はどんな役柄を演じればいいの?」

 ルイスが真顔になって、ローズに尋ねた。

「どんな役でもするかい? オスカーを取るためなら」

 もちろん、ローズは即答した。そんなの、愚問だ。

「当たり前だわ。どんな役でもする。あなたの指示通りに動くから、安心して」

 するとルイスは、信じられない言葉を吐いた。

「僕も次は、本気を出していく。今度の映画は、薔薇姉妹の共演だ。ドリスに強く、出演交渉をしていくつもりだ」

 さすがのローズも唖然とした。

「姉さんと、私が……共演?」

 ルイスの目が、きらりと光った。どうやら、本気のようだ。そうなると、問題となるのは……。

「姉さんが引き受けるとして、どっちが主役なの?」

「ダブル主演だな。映画が大ヒットすると想定して、どっちが主演女優賞にノミネートされるかは、どちらが存在感を出すかに懸かっている」

 ダブル主演……。いいとも、受けて立とう。もちろん、負ける気はしない。果たして、ドリスの返事は、どうだろう?

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