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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第三章 目には目を、歯には歯を

   第三章 目には目を、歯には歯を

 一九四六年の大晦日、ハート家に親しい人間が集まった。ローズ、ルイスはもちろん、マネージャーのキャロルにクリス、MGMから宣伝担当のロバートも呼ばれた。

 しかし、ドリスと映画の中ではゴールデン・カップルだったクロードは、呼ばれなかった。

 パーティは母シャーロットが仕切っていたから、当然と言えば当然か。自分の愛しい娘を汚した男、という認識が強い様子だった。

 クロードにしてみたら、意味が全然わからずにいただろう。ドリスの妊娠はMGMの間でも、トップ・シークレット。お腹の子の父のクロードにも知らされていなかった。

 ドリスは大事な体だからと、パーティの準備にローズは忙しく扱き使われた。

 毎年、必ず行われる家族水入らずのニューイヤー・パーティが、ローズは嫌いだった。

 別に仲良くもないのに、にこにこ笑顔で、食卓を囲んで。十二時の鐘が鳴る時には、大声で、カウントダウン。花火が上がったところで、記念写真。皆の笑顔の白々しさといったら!

 でも、今年はルイスがいる。一生を共にする伴侶となる男が、ローズの側で微笑んでいてくれる。できれば、二人だけで、新年を迎えたかった。

 姉ドリスが、露骨にルイスに、べたべたしていた。この二人が何らかの形で繋がることを、ローズは何より懸念していた。

 ディナーの席では、皆が気を遣って、ドリスに食べ物を取り分けていた。ドリスは愉快そうに悲鳴を上げた。

「やーだ、やめてよ、太っちゃうでしょ。臨月まで、お腹が目立たないよう、痩せていなければならないの!」

 キャロルが、控えめに口を出した。

「でも、必要な栄養は摂らないと。健康な子供を産むため、大事な問題よ」

 ローズは大きく息を吐き、フォークでマッシュ・ポテトを突いた。

 ――ふん、姉さんは妊娠を最大限に利用しているだけ。流産でも、死産でも、大したダメージは受けないわよ。

 普通に考えた場合、ドリスを苦しめ、窮地に立たせるために、流産を仕組むだろう。でも、それではローズの利益にまったくならない。

 ドリスは悲劇のヒロインを気取り、周りの同情を集めるだろう。欲しかった子供を失ったと言って――。

 本当は、欲しくもないくせに。生まれてから先の問題まで考えているのやら。

 食事が終わると、それぞれに酒のグラスを持って、ベランダに移動する。

 ローズはルイスに近づき、そっと手を取った。ルイスはにこやかに微笑み、そっと首筋にキスしてくれた。

 ローズは目を細め、にっこり微笑みながら、ドリスを見やった。ドリスの顔が、真っ赤になっていた。自分をエスコートしてくれるはずのクロードは現れない。キャロルや母が気を遣って側に寄ったが、ドリスはその手を振り払った。

「なんで、クロードが来ないのよ! ママ、私とクロードの仲を引き裂く気なの?」

 母が渋い顔をして、ドリスの肩に手を乗せた。

「あなたが安易に妊娠した理由は、クロードにあるのよ。ルイスをご覧なさいな。ローズと二人、いろいろ騒がれているけれど、そういうところは、しっかりしてるわ。欲望のままに行動する男は、獣でしかないわ」

 ドリスは、ギロリとローズを睨んだ。

「ふん、私なんかより、ローズのほうが早く妊娠したに違いないのよ。ただ、子供を愛する気持ちが欠片もないから、すぐに堕胎しただけなんだわ」

 するとルイスが、控えめな態度で、割って入った。

「僕たちが完全に清い関係だとまでは、言いません。ですが、ローズは妊娠したりしていませんよ。愛する女性の体を傷つけないのも、男の重要な役目です」

 母は嬉しそうに、目を開いた。

「さすがは、ルイスね。そうなのよ、男には責任があります。ルイスは、きちんとローズと婚約もしたし、クロードと比べものにならないくらい、誠実な素晴らしい人だわ」

 ローズはすかさず、口を開いた。

「そうよね。ふふ、私は男を見る目があるのよ」

 ルイスが人差し指で、ローズの額を突いた。

「ははは、こいつぅ。自分の手柄にしようとしているな」

 心底、この男と結婚する展開になって、幸せだと思う。ローズは、これ見よがしにルイスの体にしがみついた。

「姉さん、可哀想。カウントダウンの直後、キスする相手もいないんですもの」

 ドリスが顔を歪め、歯を剥いた。

「うるさいわね! ルイスは、こんな女の、どこがいいのかしら? 私が男なら、絶対にローズみたいな女、選ばないわ」

 ルイスは涼しい顔で、ドリスを見た。

「ほう。義姉さんの目から見て、ローズはどういう女に見えるんです?」

「ふしだらで、頭が空っぽなブロンドよ。その、男を誘うブロンドだって、赤毛を脱色した、偽物だわ」

 ルイスは、にこやかに微笑んだ。

「それなら、僕らの企みは成功しているといっていいでしょう」

 ドリスが間抜けに口を開け、ルイスを見た。

「どういう意味? 私は蔑みの言葉を吐いただけだわ」

「男は、優等生には惹かれません。つけ込む隙がないと、男は手を出そうとはしない。特に、ローズのような美しい女性にはね。蓮っ葉で、頭が悪そうなイメージは、僕らが作り上げたものです。ローズの真の頭の良さは、おいおい披露していけばいいんですよ」

 ローズは納得の思いで、頷いた。

「それこそ、意外性ってやつよね。私たちは常に、観客を驚かせ続けなければならないんだわ」

「そういうことだ」

 ルイスはローズの額にキスをした。唇は、カウントダウンのあとに取っておこうという感じだった。

 こうしていると、誰の目から見ても、心の底から愛し合っているカップルのようだろう。

 だから、誰も知らない。ルイスが、ローズを商品としてしか見ていない事実を。体に触れ合った経験もない、本当に清い間柄だという現実を。

 ルイスとべたべたできるのも、他に周囲に人間がいる間だけ。あとは、最高にいい女として振る舞っているか、厳しい目で見つめている。

 ルイスとの間に流れる、異常なまでの緊張感に、時々ふっと疲れるときがある。羽目を外してみたい、思い切り男に溺れてみたい。

「スリー、ツー、ワン、ハッピー・ニュー・イヤー!」

 カウントダウンの直後、夜空に花火が上がった。

 ルイスは今度こそ、ローズの唇にキスをしてくれた。しかし、愛情は、あまり感じられなかった。

 これが婚約者との口づけなのか? ローズはこれから先ずっと一生、愛のないキスを受け続けなければならないのか?

 そんなのは嫌だ! なら、別れるか?

 そんな選択肢もあり得ない。結婚する男性として、この世で一番理想の男は、ルイスだったからだ。

 ルイスと共に、人生を歩いていく。これは、もう決定事項だ。ルイスが側にいないと、ローズは大女優として大成しない。逆に言えば、ルイスの力があれば、女優としての道は安泰だった。

 なんとしても、ルイスの気を、ローズにだけ向けさせ続ける必要がある。なにしろ、ローズのすぐ側に、ルイスが大きな関心を示すであろう、ドリス・ハートがいるのだから。

 ベランダに残り、夜風に顔を当てた。先程から飲んでいたワインのせいか、頬が熱い。

 ふと見ると、敷地の外の道路に、一台の車が止まっている。運転手が乗っているらしく、車内が仄かに明るかった。

 ――お兄ちゃまだわ!

 ローズはクロードをずっと、〝お兄ちゃま〟と呼んで、慕っていた。長いこと、姉ドリスの相手役を務めてきたクロードは、ローティーンだったローズにとって、兄のような存在だった。

 その当時はまだ、姉の所有物であるクロードを、横取りしてやろうなどとは考えなかったけれど……。

 考えれば考えるほど、ローズのアバンチュールの相手に、クロードはぴったりだった。

 まず、クロードの心を掴めば、ドリスは敗北感を感じるだろう。いや、奪い返そうと必死になるだろう。

 もう一つの利点は、クロードを使って、ルイスの気が引けることだった。ルイスはローズの心が他に向いたからといって、ジタバタする男ではない。ただ、婚約者がいながら、他の男に関心を向ける女は、ルイスが描く映画の主人公として、まさに理想だった。

 自分の婚約者が、映画に出てくるような、奔放で男に貪欲な女だったら、ルイスは強い興味を抱くのではないだろうか?

 少なくとも、これからどんどんお腹が大きくなるドリスより魅力的なのは、確かだ。

 このまま安易に、ずるずると結婚なんて、してやるものか。ルイスを驚かせ、もっともっと、夢中にさせてやろう。

 ローズは、酒に酔った者たちがそれぞれ、ソファに座って、談笑しているのを確認し、そっと部屋を出た。

 肩を出したドレスに、カシミヤのストールを一枚だけ羽織り、道路へ飛び出した。クロードの黒のシボレーは、すぐに見つかった。

 運転席のドアを、こんこんと叩く。

「お兄ちゃま、ハッピー・ニュー・イヤー」

 クロードは眠っていたらしく、ハッと体を動かした。ローズに気づくと、すぐに車のウィンドウを下げた。

「ああ、びっくりした。ローズか。もう年は明けたのか?」

 ローズは人差し指で、助手席のドアを開けるよう指示しながら、笑った。

「そうよ。お兄ちゃまったら、こんなおめでたい時間に、一人で、なにしているの?」

 クロードの顔が曇った。ローズは、チャンスとばかりに、開いたばかりの助手席に滑り込んだ。

 起きたばかりで、まだぼんやりしている様子のクロードの頬を両手で押さえ、少し強引にキスをした。

「ハッピー・ニュー・イヤー! 姉さんの代わりよ」

 クロードは大いに慌てていた。

「代わりって……君は、もう、婚約したんだろう?」

 ローズは悪戯っぽい顔を意識して、笑った。

「まあ、それが、どうかした?」

「いけないよ、こんなことしちゃ。君は、もう、他の男のものだ」

「お兄ちゃまこそ、姉さんのものだというのに、なぜ今夜のパーティに、顔を出さないの?」

 クロードは言いにくそうに、言葉を濁した。

「……呼ばれていないんだ」

 ローズはわざと、驚いた顔をし、目を開いた。

「あら、なぜ? 毎年、招待されていたでしょ!」

「だから、僕も理由がよくわからなくて。招待されてもいないのに、未練がましく、ここまで来てしまったのさ」

 ローズは無邪気な顔で、なるほどと顔を縦に振った。

「そっかあ。ママはきっと、姉さんの子供の父親はお兄ちゃまだと思って、怒っているのね」

 クロードが仰天した。

「子供? ドリスに子供ができたっていうのか?」

「あら、そうよ。まさか、知らなかったの?」

「寝耳に水だよ! で、ドリスはどうするつもりなんだ? もちろん、堕ろすんだろう。そのぐらいの金は、僕が出すよ」

 ローズは、いけないことでも白状するかのように、わざと声を低めた。

「姉さんは、産むつもりなのよ」

 クロードの眉が吊り上がった。

「なんだって? そんな重大な問題を、一人で勝手に決めたのか!」

「まあ! お兄ちゃまは、本当になにも知らなかったの?」

「当たり前だ! 僕だって、男としての覚悟がある。打ち明けてくれていたら、誠実な対応をするつもりだったさ!」

 ローズはなにもかもが悲しい、といった振りをし、俯いて、ほろりと涙を流した。

「姉さんは、もしかしたら、ルイスに関心以上の気持ちを持っているかもしれないの。今日もね、パーティの間ずっと、ルイスを独り占めして……」

 ここでしゃくり上げ、掌で涙を拭う。

「馬鹿ね、私。婚約したからって、結婚したわけじゃないんだわ。怖くてたまらない。ある日、ルイスが姉さんを伴って、私に、「ドリスと結婚することにしたよ」なんて言い出さないか、不安で堪らない」

 クロードが、そっとローズの肩を抱いた。ローズも自然な動作で、クロードの胸に顔を埋めた。

「お互い、辛い立場だな。なんとか乗り越えていこう。僕はともかく、ローズ、君には幸せになってもらいたいからな」

 ローズは涙が溢れた目を、思い切り開いた。

「ありがとう、お兄ちゃま。お兄ちゃまがいるから、私も頑張るわ。いろいろ、相談に乗ってね」

 クロードは、任せろとばかりに、左拳で胸を叩いた。

「ああ、いつでも相談に乗るから、安心しろ。僕も、安易にドリスに妹の未来の夫を奪うなんて真似は、させない。なんとしても、言い聞かせてやるからな」

 さて、種は、たっぷり蒔いた。果たして、どこから芽が出てくるか?

 ――ふふふ、お腹に子供がいるというのも、何かと便利ねえ。

 妊娠初期には悪阻とかいう、胸の悪くなる症状が出ると聞くが、ドリスはなんともなかった。むしろ、今から太らないよう気をつけるほうが、苦労だった。

 皆、大事な体だからと、ちやほやしてくれる。ローズが女優になってから、いろいろと押されっぱなしだったが、ハート家での女王さまの地位は、これでしばらくは安泰だ。

 なあに、子供を産むといっても、大した努力は必要ないだろう。人類が誕生した時から、女と生を受けた人間は、子供を産んできた。ドリスにだって、易々とできるに決まっている。

 二杯目のシャンパンを注ごうとすると、ルイスがそっと手に触れ、引き留めた。

「駄目ですよ、お義姉さん。アルコールは、お腹の子に触ります」

 本物の青い瞳と、きらきら輝くブロンド。仕事柄、美しい男は見慣れているが、ルイスは特に美しい。

「まあ、意地悪ね。もう夜も遅いから、アルコールで眠らせようと思っているだけよ」

「眠らせるなら、お義姉さんも寝ないと。母体が健康でないと、赤ちゃんも元気に生まれてきませんよ」

 ドリスは、ぼんやりとルイスを見た。この男、只者ではない事実はわかっている。果たして、ドリスの策略を、どの程度まで把握しているのか?

「自分が産んだ子供って、可愛いものなのかしらね」

 ルイスは一口、シャンパンを飲むと、横目でドリスを見た。

「よく、そう言いますよね。自分の子供は特別に可愛い、って。でも、人によるんじゃないのかな」

「あら、そうかしら? 男は、どうせ女の気持ちはわからない、と言うのかと思ったわ」

「たとえば、ローズですが、自分自身を愛し過ぎています。子供に愛情はあまり、注げないでしょうね」

「まあ、じゃあ、あなたがた夫婦に、子供は要らないの?」

 驚いたことに、ルイスは即答した。

「要りませんね。子供の世話をしている暇があったら、公園にでも行って、人間観察をしていますよ」

 カウチに座っていたドリスは、軽く脚を組み替えた。面白い男だ。

「そういった人間観察の一つ一つが、あなたの映画のインスピレーションになるのね? 実は私も、人間観察の対象の一人だったりして」

 ルイスは否定しなかった。

「大丈夫ですよ。映画にするとなったら、お義姉さんがモデルだとは、わからないようにしますから」

 ドリスは上目遣いに、じっとルイスを見つめた。

「そんな余計な気を遣うくらいなら、私を主演にしてちょうだいな」

 ルイスは愉快そうに、頭を掻いた。

「ははは、そりゃあいいや。でも、ローズがどう思うかが心配だ」

 ドリスは意外な思いに、眉尻を下げた。

「ローズが嫌がる真似はしない、というつもりなの?」

「もうすぐ、夫婦になりますからね。愛も大事だが、信頼関係が何より大切です」

 もう少し、作為のある男だと思っていた……。どうも、この男の心は読めない。ローズを本気で愛しているとは、とても思えないのだが。

 ルイスが「ローズを愛している」と言えば言うほど、嘘臭く聞こえる。結婚は仕事の上でのイメージ作りに他ならず、妻も夫も愛人を持って、好き勝手に楽しむ。そんな未来がいかにもありそうな二人だった。

 義理の弟となり、ドリスはますますルイスに興味を惹かれていった。喉元まで出かかった言葉を、ごくりと呑み込む。

 ――「本当は、ローズなんて、愛していないんでしょ?」

 なぜ、こんな風に思うのか? 自分自身への問いに、ドリスはある程度の確信ある答を出していた。

 ――私はルイスに惹かれている。妹ローズの将来の夫に……。

 ルイスがぽかんとした顔で、周囲を見回していた。ドリスが怪訝な思いで尋ねた。

「どうしたの?」

「いや、さっきから、ローズの姿が見えないんだ。トイレにしては、長いよね?」

 ドリスは、ローズがどこにいるかなんて、まったく関心がなかった。目の前の美麗な義弟を前に、胸を高鳴らせていたのだから。

「お酒が入っているから、どこかで吐いてるんじゃない? まだ十六歳で、こうして年越しイベントを行って、酒を飲むなんて、褒められた話じゃないわよ」

「お義姉さんは、子役として大人の俳優と遜色なく活躍しておられたんだ。酒の味を覚えるのも、ローズより早かったのではないですか?」

 ドリスは、わざと拗ねた振りをし、そっぽを向いた。

「私はローズのように、お酒が弱くないもの。あの子は精神的に、いろいろ不安定な子だわ。酒に溺れる日々にならないように、あなたが支えてやるのね」

 ルイスはひょうひょうとした顔で、グラスのシャンパンを飲み干した。

「ええ、努力しますよ。酔っ払って、ふらふらとどこかの安物の男優と浮き名でも流したら、〝青い薔薇〟のイメージ・ダウンですからね」

「つまり、あなたは最高級品の男、というわけね」

 なぜだろう。この男と話をしていると、腹も立つのだが、同時に、もっとずっと話していたくなる。

 これはきっと、ドリスが長年ずっと、女王さまでいたせいだろう。征服するばかりで、誰かに付き従う真似が我慢できない。

 ということは、つまり、あの生意気なローズでさえ、この男には陥落したわけだ。つくづく、凄い男だと思う。

 ふと、お腹の子の父親、クロードについて考えた。

 クロードは、並の男よりは、まあ優秀な部類だろう。美麗だし、背も高い。しかし、頭の良さという点では、ルイスには、とてもじゃないが敵わない。

 しかも、堂々と、「この人が父親なの」と告白できない辛さもある。なんだか急に、自分が惨めに思えてきた。

 まるで、一夏の馬鹿騒ぎのあと、大きな後悔を抱える、どこかの女学生みたいだ。妊娠するために高校へ行った、などと後々まで、近所にぼやく、嫌な小母さんだ。

 ローズだったら、きっと、妊娠という結果を持ってきても、理由が違うだろう。この男の種が欲しいから、妊娠した。子供を得るため、男を誘惑した――と。

 ドリスの場合は、男の味を知りたかっただけ。どうしてもクロードでなければ駄目、という理由もなかった。

 ――私ったら、なんて浅はかだったんだろう。これじゃ、女としての価値が、ローズよりずっと劣っていると思われても、仕方がないわ。

 今、ドリスは真剣にローズに嫉妬していた。最高の男を掴み、ハート家の新しい女王さまに上り詰めようとしている妹に。

 朝焼けのビーチで、ローズは初めて、男を知った。相手がルイスでなく、クロードとなった事実に、落胆の気持ちがないわけではない。

 でも、ルイスがローズをまだ一人前の女と認めてくれないのだから、仕方がない。案外と、これがルイスの策略だったりして。

 ドリスの妊娠を知り、きっとローズも男女の関係に強い関心を持つ。ルイスが拒絶し続けたら、身近な存在に関心が行くだろう。それが、クロード。

 クロードの唇が、ローズの頬に触れた。

「こんな形で新年を迎えるなんて、思ってもいなかったよ」

 クロードにしてみれば、青天の霹靂の連続だろう。新年のパーティに招待されていないと思ったら、ドリスが自分の子を妊娠していた。そんな事実を知ったうえで、今度は妹のローズに手を出す。

 ――ほんと、男って節操がないんだから。でもこれで、お兄ちゃまは、私のものだわ。

 ローズは髪を掻き上げ、色っぽい表情を意識した。

「ねえ、お兄ちゃま。私と姉さん、どっちが好き?」

 クロードは、うっと押し黙った。意地悪な質問だったかもしれない。にっこり微笑み、クロードの頬を人差し指で突いた。

「いいのよ。お兄ちゃまは姉さんの大事な人だわ。一夜限りの過ちであっても、私、一生ずーーっと忘れない。だって、ずっとお兄ちゃまのこと、好きだったんだもの」

 クロードが驚きに、目を開いた。

「ローズ、それは本当かい? 本気で僕が好きだったの?」

 クロードの車を見つけ、乗り込むまでは、クロードと結ばれるなんて、考えもしなかった。ここはせいぜい、身持ちが悪い女のイメージを強くしないよう、気をつけよう。

「ルイスとは……あくまで、仕事上の関係なの。ルイスは、とても計算高いわ。私とルイスが婚約し、結婚する展開になったら、二人がタッグを組む映画の収益がますます伸びると判断したの。私は、お兄ちゃまへの気持ちがあったけれど、姉さんの妊娠を知って、すっぱり諦めたつもりだったのよ」

 クロードは真顔で、ローズを見つめた。

「そんなのは、本当の愛じゃないよ、ローズ」

 ローズは悲しげに見えるよう、目を伏せた。

「そうよね、本当の愛じゃない。私は、愛のない結婚生活を、ずっと死ぬまで送るんだわ」

 そこでパッと目を開き、瞳を潤ましてみせる。

「でも、こうしてお兄ちゃまと結ばれた。私、この思い出を一生、胸に生きていくわ。愛のない生活でも、今日のこの朝焼けを思い出し、耐えていくわ」

 クロードは、ぎゅっとローズを抱きしめた。

「ローズ、ごめんよ。僕が君の思いに気づいてさえいたら! 僕はドリスの子の父親になり、君もルイスのものとなった」

「気持ちが完全にすれ違ってしまったわね」

 ――男って単純ね。まったく、実の姉妹と関係を持って、この先、どうするつもりなのかしら?

 クロードが極端に馬鹿なのか? ルイスが並の男でない事実ぐらいはわかるが、あまりの常識の落差に、戸惑いもあった。

「ローズ、どうか、しばらく待っていて欲しい。君をルイスから奪い返すから。でも、それには、片付けなければならない問題が大きすぎる」

 おやおや。どうやらローズはクロードを本気にさせたようだ。もうドリスには興味が欠片もないのか?

「……私が知りたい問題は、ただ一つだわ。もう、姉さんを愛していない? 愛しているのは、私だけ?」

「もちろんさ! ドリスと関係があった頃は、こんなにも燃えなかった。君には男を野獣にさせる力があるんだよ。僕はすっかり、君に溺れている。ドリスとの問題は、単なる過ちだった」

 ローズは注意深く、口の端を上げた。最高に気分がいい。興行成績を抜くだけでなく、愛する男を奪ったのだから。

 とにかく、この事実は、ルイスに報告したほうがいいだろう。ルイスは、クロードとローズが関係を持つと予測していたはずだから、きっと何らかの考えがあるに違いない。

 ルイスのアパートは、独り住まいではもったいないほどの広さだった。二階の寝室には、今日、初めて入れてもらえた。一つ関門を突破した、ご褒美だろうか?

 ローズはマットレスに乗り、大きな枕を抱えながら、体を揺らす。ルイスはロッキング・チェアに座り、優雅に葉巻をくゆらせていた。

 予想通り、ルイスはローズの行動に驚きを示さなかった。頬杖を突き、ニヤリと笑った。

「ドリスが持っているものを、君は一つ、一つ、奪っていくね。どんな気分だい?」

 ここでローズは、ルイスの期待に応えるべく、妖しい笑みを浮かべてみせる。

「最高の気分だわ。姉さんは、まだなんにも知らない。でも、お兄ちゃまはもう、私のものよ」

「つまり、ドリスを捨て、ローズの相手役にするって芸当もできるな」

 なるほど。私生活の上で、クロードを奪っただけかと考えていたが。こうなると、ローズは相手役にクロードを指名しやすいわけか。

 クロードは西部劇への出演を終え、ドリスと共演の準備に入っていた。ドリスとしても、お腹が目立たない妊娠初期に撮影をしたいところだろう。

 そこへ二人の間に、ローズが割って入る。

 ――「姉さん、お兄ちゃまをいただいていくわね」――と。

 なんて気持ちがいいんだろう! 男の体を知った喜びの比ではない。

「でも、観客には、二人の仲は秘密なんでしょう? 私はあなたと婚約しているわ」

 ルイスは難しい顔をして、顎に手を当てた。

「もちろんだ。アメリカ社会は、人の道に外れる真似を酷く嫌うからね。あくまで、一番の共演者として敬意を払い、奔放な振る舞いは自重してくれ」

 奔放な振る舞いの封印……。ここに来て、ルイスは真剣に、ドリスの追い落としに入った。

 ローズがドリスを憎む気持ちは、簡単に説明できる。でも、ルイスは、なぜこうまでもドリスを貶めようとするのか?

 なにしろ、二人が意気投合した結果、友人でも恋人でもなく、〝共犯者〟になったのだから。この言葉には、何か意味があるのだろうか?

 ふと疑問に思い、膝を抱いて、問いかける。

「ねえ、ルイス。あなた、以前に姉さんと何かあったの?」

「どうして、そう思うんだい?」

「なにもなくて、ここまで追い詰めようとするかしら? 案外と、以前に姉さんにアタックして、振られた過去でもあるのかと思って」

 ルイスはいったん、目を開き、次に、声を噛み殺すように笑った。

「僕はそんな、単純な男じゃないよ」

「じゃあ、私に同情したから?」

「それも違うね。ドリス・ハートには、以前から注目はしていた。でも、相手はMGMのスター子役だ。僕の手の届く存在ではなかった。そこへ、ある日、偶然、ドリスには一歳半下の妹がいると知った。どうやら、虐げられているらしい。僕は俄然、興味を持ったね。最初から、興味の対象は、君だったんだよ」

 ローズは、なるほどと頷いた。

「私がのし上がっていく様を見て、大いに楽しみたいわけね?」

 ルイスがロッキング・チェアから立ち上がり、ローズの横に腰を下ろした。

「映画は舞台裏が、断然、面白いからね」

 ルイスはゆっくりと、ローズの唇を味わった。今日は、この先があるのか……? 期待をしたが、肩を抱かれただけで、それ以上なにもしようとしない。

 これだけは、はっきりわかる。虐げられている人間が、反撃し、全てを押しのけて、頂点を目指す――というストーリーが、ルイスの好物なのだろう、と。

 男として愛しているルイスに、いつまでも触れてもらえない事実は、辛いものだった。

 でも、きっと結婚したら二人の関係も変わっていく。信じるしかない。ローズはそっとルイスの胸に顔を埋め、目を伏せた。

 ある朝、突然、MGMからの電話で、クロードとの共演は、なしになったと、連絡が入った。ドリスは、まったく意味がわからなかった。

「なぜ? ずっとその予定で、スケジュールを組んでいたんじゃなかったの?」

 宣伝担当のロバートが、しどろもどろで説明した。

「そうなんだが……今になって、クロードがローズの新作のキャストに抜擢されたんだよ」

 ――今、なんて言ったの? 抜擢……ですって?

「聞き捨てならない言葉ね、ロバート! 私の映画からローズの映画に横取りされた事実を、抜擢なんて言葉で説明するの?」

「そ、それはだね……ローズの映画のほうが、君の映画の何倍もの制作費を掛けた超大作なんだ。第二次世界大戦下のパリを舞台に、悲劇の恋人同士が描かれる。いっぽうで君の映画は、ティーン・エイジャーの一夏の恋を描いたものだろう? 社としても、気合いの入れ具合が違うんだ」

「クロードは、会社の判断に、ただ大人しく従ったというの?」

 ロバートの語気が弱くなった。言い難そうに、声を落とす。

「いや……どちらかといえば、クロードがローズとの共演を望んだんだ」

 一瞬、頭が真っ白になった。

「……なんですって?」

「まあ、クロードとしても、チャンスだったんじゃないかな。ルイスは監督としての評判もいいし、ルイス、ローズ組に加われば、もっと大きな仕事ができる。君との仲よりも、キャリアを取った、といったところかな」

 聞き捨てならない言葉だった。ドリスよりも、キャリアを優先させるだって? ドリスを身重の体にしておいて、なにを勝手な話をしているのか!

「もういいわ! クロードと直接、話してみるから!」

 受話器を叩きつけ、大きく息を吐く。もう一度、受話器を取ると、ダイヤルする指が震えた。

 コール音が鳴り続ける。不在なのか? ドリスからの電話かもしれないと、戦々恐々としているのか?

「直接、話したほうが早いわ!」

 再び受話器を叩きつけ、カウチの背にあったジャケットを掴む。玄関を飛び出し、早足で歩きながら、ポケットの鍵を探る。

 愛車コンチネンタルに乗り込み、エンジンを吹かしながら、ハンドルをばんばんと叩く。

 落ち着け、落ち着け。ドリスは懸命に、大きく深呼吸し、気持ちを落ち着けようとした。

 でも、ぜんぜん、駄目だった。

 ポケットの奥底に潜ませた、白い粉の世話になるしかない。紙包みを取り出し、鼻の下で広げ、思い切り吸い込んだ。

 車の運転の直前に、こんなことをしていいとは思っていない。でも、今は誰も助けてくれない。独りぼっちの時、いつも最後に頼りになるのは、魔法の粉だった。

 アクセルを踏み込み、一気に道路へ飛び出した。

 薬のせいで、気持ちが大きくなっていた。今、時速何マイルなのかなんて、まったく気にせず、どんどんアクセルを踏む。

 ――クロード、クロード! 私を裏切ったら、絶対に許さない!

 対向車が大きくクラクションを鳴らした。

 ぐらり、と視界が歪んだ。あっという間に、目の前にソーダ・ファウンテンのガラス窓が見えた。

 危ない! と思った瞬間、ガラスがバリバリっと割れる音がした。

「きゃああああ!」

 必死にブレーキを踏んだ、と感じたと同時に、気を失った。

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