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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第二章 恋の行方~ハリウッド式恋愛法

   第二章 恋の行方~ハリウッド式恋愛法

 ローズ出演の『白夜』は、ここ数年で希に見る興行成績を収めた。宣伝担当のロバートは、笑いが止まらないといった様子だ。

 この当時、MGMと長期契約を結んでいたエリザベス・テーラーは十四歳。まだ子役の域を出ていなかった。夢のような美しさも、まだ愛らしさのほうが勝っていた。

 二歳年上のローズは、ルイスの脚本の力によって、大人びた青春スターの枠組みに収まることができた。

 大人になりかけの危うさをローズが見せつけたことで、皮肉にもドリスまで、大人扱いされる形となった。

 ――子役の演技しかしてないっていうのに! 私が頑張った結果、姉さんがいい目を見るなんて、許せないわ!

 MGMのお偉方は、ほくほく顔だった。演技力が未知数だったローズが成功しただけでなく、大人への脱皮を模索していたドリスも成功した。

 この勢いで、どんどん薔薇姉妹の作品を出していこう!

 ところが、肝心のドリスが、しばらく休みたいと言い出した。クロードと共演する主演映画が企画されるまで、映画には出ないと宣言した。

 クロードは仕事があったから、ドリスが部屋の掃除のために、アパートに通う姿が写真に撮られた。ドリスは悪びれた様子もなく、取材に応じた。

「大好きな人なんですもの。クロードが側にいなくても、身近な身の回りのものに囲まれていたいんです」

 どうやらドリスは、ローズとルイスの関係を模倣しているようだ。二人は恋人同士だと一般的には思われていたし、そのほうが仕事にも都合がよかった。

 ――馬鹿な姉さん。なんでもかんでも、私たちの真似をすればいいってわけじゃないわよ。

 MGMは気が気ではなかっただろう。ローズもドリスも大事な商品。妊娠騒動など起こされたら、ダメージは果てしなく大きくなる。

 お偉方の一人が、それとなくドリスに釘を刺した。節度ある行動をしろ、と。

 ドリスは笑顔で言い放ったという。

「ご心配なく、小父さま。私に疚しい思いは、一切ありません。太陽の下を、どうどうと歩いていられますわ」

 それでも会社側は、母シャーロットに対して、充分に注意するよう忠告した。

 朝食後のコーヒーを淹れながら、母は深い息を吐いた。

「最近のドリスったら、これまで以上にクロードにべったりで。さすがに心配になってしまうわ」

 ローズは自分のカップにクリームをたっぷりと入れ、スプーンで掻き回した。

「子供ができちゃうって話?」

「あんたたちこそ、大丈夫なんでしょうね?」

 胸に重たいものを感じた。皆、ローズとルイスは関係を持っていると信じ切っている。ふと、母に真実を話したい思いに囚われた。

 キスすらも、満足にした経験のない関係だと。

「私たち、そんなんじゃないのよ……」

 母は、ローズの言葉を軽く受け流した。

「とにかく、あなたたちがドリスに悪影響を与えているわ。あなたなんかより、ずーっと世間に疎いから、困りものよ」

 なんだかんだで、母はいつも、ドリスの心配をしていた。ローズのほうが危ういイメージがあるというのに、変に信頼されている。

 いや、信頼しているわけではない。やはり、ドリスと比べたら、どうでもいい存在なのだ。

 母に本音を話さなくてよかった……。どうせ、それほど親身になってもらえない。女優として、興行成績は既にドリスを抜いているのに、母の心の中の順序は、未だに変わらない。

 いつになったら、母に振り向いてもらえるのか? ドリスがいる間は、一生ずーっと無理なのか? この場にいないドリスに、憎しみの念が湧いた。

 ――目の前にいない時でも、私の前に立ち塞がって。なんて鬱陶しいのかしら!

 ルイスはノンストップで進もうとばかりに、次々に新しい脚本を、会社に送りつけた。

「僕たちは、決して立ち止まらない。さっそく、次の企画が通ったぞ」

 なんと次の企画で、ルイスはプロデューサーに名を連ねた。脚本も当然、ルイスのものだ。

「この映画で、監督業を学ぶ。君の主演二作目は、ルイス・トッド監督作品となるぞ」

 なんだか、ぞくぞくする展開だ。ルイスの野心は、ローズの心にも火を点けた。

「絶対に成功させましょう! 私、精一杯、頑張るわ。ルイスを監督にするために。いいえ、二人でオスカーを取るため」

 ルイスは満足げな笑みを浮かべた。

「二人でオスカーか。それはいいな。君は僕のミューズとして、主演女優賞を史上最年少で獲得。僕は監督賞、作品賞、脚本賞その他をいただく」

 目の前に広がる、無限の可能性。今は素直に、前に進もう。

 脚本を読み終え、意外な思いで顔を上げる。

「前回の『白夜』とは、ずいぶんイメージが違うのね。とっても清楚な主人公だわ。まるで、ドリス・ハートが主演の映画みたい」

 ルイスはニヤリと笑った。

「それが狙いさ。ドリスは特別なわけではない。ドリスなどいなくても、ローズ・ヘスターがいる。どんな役柄もこなす、希有の才能がね」

「姉さんが休んでいる間に、先手を打つのね。うん、悪くないわ」

 ルイスはさも、関心なさげな様子で、口の端を下げた。

「なんだか愉快な話題を振り撒いているみたいだな」

 愉快な話題……。ルイスにとっては、その程度の問題なのだろう。でも、性に目覚めかけているローズは、大きな関心を持っていた。

「スタジオの外で展開されるお話にも、人々が興味を持つって、あなたが教えちゃったせいだわ」

 ――いつまでも奥手だと、高を括っていたけれど。姉さんのほうが早く、男を知るなんて、我慢できないわ!

 ローズは瞼を落とし、わざと色っぽい表情を作ってみた。

「ねえ、ルイス。なぜ私たち、関係を持ってはいけないの? 恋人同士の振りだけしなきゃならないの? 私は、あなたを愛しているわ。なぜ、本物の恋人になれないのか、教えてちょうだい」

 ルイスは、まるで同情するかのように、眉尻を下げた。ローズが安心するように、側に寄り、体を抱いてもくれた。

 でも、やっぱりキスすら、してくれなかった。

「ローズ。一時の情熱の暴走で、僕らの関係を台無しにしたくないんだ。僕は一生、君だけをミューズに、ハリウッドで成功を続けたい」

「成功して、結婚して、子供を持ったっていいじゃないの! 私、素敵な奥さんにも、優しい母親にも、なる自信があるわ」

 ルイスは優しく、ローズの髪を撫でた。これが精一杯の愛情表現なのだとばかりに。

「ほら、もう映画以外の問題を考えている。女優は、恋なんてしちゃいけない。生々しくなって、オーラが消える。ローズ、いつまでも僕がひれ伏したいと願うミューズでいておくれ。奥さんになりたいなんて、つまらない夢は、もう二度と持たないでくれ」

 どんなに求めても叶わぬ夢、青い薔薇……。奔放な夢を振り撒きながら、青い薔薇はたった一人の男性の愛も受けられず、悲しみに震えるのだった。

 もうちょっと、ロマンチックなものだと思っていた。ドリスは洗面台の前で、自分の顔を映してみた。

 クロードの愛を受け入れたら、もっと自分が光り輝くと思っていた。

 鏡の前のドリスは、むしろ、何かを失った顔をしていた。子供時代の終わり? 大人になるとは、一つ一つ、何かを失っていく意味なのか?

 少なくとも、夢のような初体験ではなかった。異常に生々しくて、汗の臭いばかりが印象に残った。

「なぜ、私は色あせてしまったのかしら……。ローズは光輝いていくのに」

 十月の末になり、ローズの新作『夜明けの歌』が公開された。ローズが前作とまったく違い、清楚な役を演じた事実に驚いた。

 同時に、ショックでもあった。

 ドリスが休んでいても、ローズが代わりを演じてくれている。観衆はこう考えたかもしれない。ドリスなんて、もう要らない、と。

 ここまで追い込まれて、ドリスはようやく目が覚めた気分だった。恋にうつつを抜かす暇はない。

 貪欲なライバルであるローズは、映画界における立場の確立だけを望んでいるわけではない。ドリスを追い落とし、まんまと後釜に納まろうと考えている。

 そうは断固させるものか! ローズになんか、絶対に負けない!

 バスルームのドアをノックする音がした。クロードだ。急いで顔を洗い、鏡の前で、爽やかな表情を作る。

 ドアを開けると、上半身裸で、ジーンズだけ穿いたクロードが、にこやかな笑顔で立っていた。

「どうした? 気分でも悪い?」

「ううん、何でもないわ。ちょっと頭が痛くて、冷たい水で顔を洗ってたのよ」

 クロードは大したことないと安心したのか、すぐにドリスの体を自分の胸に抱いた。

「頭が痛いのか。僕の愛で治してやろう」

 男は、一度でも許すと、すっかり自分の所有物だと思ってしまうらしい。

 クロードが耳元で囁いた。

「ベッドに戻ろう」

 正直に言って、ドリスはこういった関係に、すっかり飽きが来ていた。でも、拒絶できない。初主演の映画が決まり、クロードが相手役になった。機嫌を損ねたら、またローズに水をあけられる。

 ドリスは「ええ、そうね」と、大人しく、クロードに抱かれたまま、寝室に戻っていった。

 さすがに生理が二ヶ月も来ないと、焦りが出る。環境が変わると、すぐにサイクルが狂う性質なため、当初は、あまり気にしていなかったが……。

 ――ああ、もう! あんなに夜も日もなく抱き合っていたら、オタマジャクシの一匹や二匹、入り込めるってもんだわ!

 まず誰に相談するか、とても迷った。これまでだったら、すぐ母に知らせただろう。でも、今は躊躇する理由がある。

 母はいつの間にか、ドリスだけの母ではなくなった。ローズがドル箱スターになり、デビューして、あっという間に、母の夢を叶えた。

 母に話せば、すぐにローズに伝わる。それだけは是が非でも避けたい。

 ある日、四人でいつものように朝食を摂っていると、キャロルがローズを迎えに来た。

 すぐに思った。キャロルしかいない! キャロルなら、安易に誰かに話したりしない。もちろん、ローズにだって告げ口したりしない。

 ドリスは椅子から立ち上がり、キャロルに手招きした。

「ねえ、キャロル、話したい問題があるの。ちょっと来てくれない?」

 案の定、ローズが反発を始めた。

「姉さん、私のマネージャーを、勝手に使わないでよ! 姉さんにはクリスがいるでしょ?」

 ローズには反論せず、ただひたすら、キャロルを見詰める。

 ――キャロル、お願いよ。力になって!

 キャロルは真顔で頷いた。

「じゃあ、リビングで話を聞くわ。さあ、行きましょう」

 キャロルがドリスの背を抱き、そっと廊下へ導いた。なぜだか、熱いものが込み上げてくる。

 なぜ、ローズのものなのだろう? こんなにも信頼が置ける女性なのに。ドリスが見つけた時は、ほんの一歩だけ遅かったなんて。

 ソファに並んで座る。ドリスは大きく息を吐いた。

「生理が、遅れているの」

 キャロルは、「まあ」と絶句した。すぐに、ドリスが言う意味がわかったらしい。

「一度、お医者さまに診て貰ったほうがいいわね」

 必死の思いで、キャロルの腕をぎゅっと掴む。

「妊娠していたら、どうすればいいの?」

「口の堅い、お医者にするから、大丈夫よ」

「嫌よ! きっと、どんな医者だって、誰かに話すわ。ドリス・ハートが妊娠したなんてニュース、高く売れるもの!」

 キャロルはずっと、ドリスの背を撫でてくれた。

「落ち着いて。キッチンまで届くわよ。じゃあ、どうしたいの?」

 捨て鉢な思いで、低い声で吐き捨てる。

「自分で、始末するわ。火かき棒か、ハンガーの取っ手を曲げて、あそこに押し込むと、赤ちゃんが死ぬって聞いたことがあるわ」

 キャロルが声を顰め、強く叱咤する。

「なんてこと言うの! もし間違えたら、一生、赤ちゃんが産めない体になるのよ!」

「それでもいい! 赤ちゃんなんて、鬱陶しいだけ。一生、子供なんて要らないわ!」

「今は、未来の話なんてしても、心に響かないだろうけど。あなたは健康でいなくちゃ。本当の恋を知った時に、後悔したくないでしょ?」

 本当の恋……。つまり、クロードは、運命の相手ではないのか。だから、こんなにも、ときめかないのか。

 そもそも、言ってみたかっただけで、自分で始末するつもりなど、さらさらなかった。キャロルが、こっそり病院に連れていってくれて、全てをなかったことにしてくれたら、それでいい。

「本当に、口の堅いお医者に、連れて行ってくれる?」

 キャロルは、頼もしい顔で、口の端を上げた。

「大丈夫よ。任せて」

 不安な思いで、確認したくて、目を開く。

「ローズには、知られたくないの」

「それも、大丈夫。誰にも言わないわ」

 ドリスは「良かった……」と安堵の息を吐き、キャロルの胸に顔を埋めた。

 最近すっかり鬱ぎ込んでいたドリスが、キャロルにだけ話があるという。ここは、盗み聞きしない手はない!

 ローズはリビング前の廊下に隠れ、息を殺して、二人の話を聞いていた。

 ――あーあ。姉さん、遂に妊娠しちゃったのね。火掻き棒で赤ん坊をほじくり出すなんて、なに馬鹿を考えているのかしら。

 ざまあみろ、とも思うが、妬ましい思いも同時に湧き上がる。

 姉は、男を知った。ローズが知らない、秘密の世界を、覗き見た。ルイスが見せてくれない、許してくれない、世界を……。

 二人の話が終わったところを見計らって、わざと靴の音を立てる。

「キャロル、話は終わったぁ?」

 入口から、ひょいと顔を出す。キャロルが緊張した顔で、ローズを見た。すぐに、無理した笑顔になる。

「え、ええ。もう話は終わったわ。待たせたわね。行きましょう」

 すぐさま立ち上がり、まるでドリスを隠すように、ローズの前に立ちはだかる。ローズは無邪気な素振りで、体を曲げ、ドリスを見た。

「何の話をしていたのぉ?」

「うるさいわね! 何でもないわよっ!」

「全部しっかり聞いていたのよ」と、ここで暴露するのは簡単だが。ルイスと相談して、決めるのがいいだろう。

 撮影所の控え室で、キャロルに用事を頼み、ルイスと二人きりとなったところで、話をする。

 ルイスの判断は、ローズが暴露したとわからないようにしたほうがいい、だった。

「君は、ただでさえ、生意気で、ドリスに対する敵意を剥き出しに行動している。君が暴露したとなったら、家族の問題を外に漏らしたと、悪いイメージがつく」

 言われてみれば、その通りだ。

「じゃあ、どうするの? お医者にお金を渡して、タブロイド紙に売り込んでもらおっか?」

 ルイスは難しい顔をして、胸の前で腕を組んだ。

「そんなところだろうな。ただ、MGMが火消しに躍起になるだろうね」

 ローズは拗ねて、唇を窄めた。

「せっかく姉さんを追い落とす情報を持ってきたのに、なんでさっきから、否定するような台詞ばかり吐くのよ?」

「キャロルは頭のいい女性だ。自分だけで問題を解決しようとはしないだろう。必ず、会社の指示を仰ぐ。そうなると、僕らの与り知らないところで、秘密は保持される。いろいろと、難しいんだよ。噂には、ちらっと出るだろう。だけど、それで終わりだろう」

 てっきりルイスのことだから、ドリスが妊娠するのを見越して、計画を立てていたと思ったが。さっきから難しい顔ばかりしている。

「僕はね、こういう事態に陥ることを、懸念していた」

 ローズは驚いて、目を開いた。

「懸念? 予想でも期待でもなくて?」

 ルイスは真面目な顔で、大きく頷いた。

「ここ最近の二作品で、君は完全にドリスを抜いたと言っていいだろう。ドリスは今、岐路に立たされている。つまり、それは、イメージ・チェンジの大きなチャンスという意味なんだよ。ドリスの演技力は未知数だが、妊娠、堕胎の噂が出てから、蓮っ葉で奔放な女性の役をやったら、きっと当たる」

「ふん! 私の二番煎じよ。ちっとも新鮮じゃないわ」

「ずっと清楚な役ばかり演じていたドリスなら、観客も驚くだろうし、また、期待もするだろう。奔放な娘がなにをやったって、驚きではない。でも、ずっと清純派だった女優が奔放になれば、客の気は一気に引けるよ」

 ローズは納得のいかない思いで、口の端を下げた。

 ――それは、ルイスが姉さんのブレーンになったら、の話だわ。

 ルイスは、ドリスに関心を抱いている?

 イメージ・チェンジをさせ、再びブレイクさせるなんて手法、ルイスのような男なら、俄然、やる気も出るというものだろう。

 ローズは飽きられ始めている? そんなはずはない! まだ二人の企みは、始まったばかりだ。

 ルイスの関心を引くのは、一般観客の気を引くよりも難しい。ローズは野心こそあれ、さほど頭がいいとは自覚していない。ルイスの前で、空元気を出すのも、時々疲れる時がある。

 でも今は、そうも言っていられない。ルイスの関心が、ドリスに向く前に、なんとか対策を考えないと!

 ルイスは今度の映画で、監督デビューをする。成功するに決まっている。つまり、ルイスは一流映画監督の仲間入りをする。ローズは、もっともっと頑張って、人気を得て、実力もつけないと、ルイスに捨てられかねない。

 もし、ローズを捨てたルイスが、ドリスを新たなミューズにしたら……。ローズに勝ち目はなく、惨めに堕ちていくしかないだろう。

 ――そんなの、我慢できない! やっと姉さんを追い落としかけているっていうのに!

 ふと、突然に妙案を思いついた。ルイスを一生、離さない方法が、一つだけある。

「ねえ、ルイス。私たち、結婚しない?」

 ルイスもさすがに驚いた様子で、目を開いた。

「結婚? 本気で言っているのか?」

「本気よ。姉さんの妊娠が発覚したと仮定して、それがマイナス・イメージにならないとする。そうなると、奔放なはずだった私に、なにも話題がないと、観客はがっかりするでしょう。でも、間違って子供ができるような、ふしだらな真似をしないで、噂のルイスと結婚したら、どうなると思う? 皆、拍手喝采すると思うの。奔放な妹は、実は、とても堅実で、人生の道で、順序が逆になるような真似は、絶対にしないのよ」

 ルイスは、ニヤリと笑った。

「ますます気に入ったよ、ローズ。僕の目は、間違っていなかった。君は、とてつもなく強く、頭の良い女性だ。君こそ、僕の伴侶に似つかわしい」

 ローズの結婚……。ドリスの精神的ダメージは計り知れないだろう。自分は不幸のどん底にいて、堕胎しなければならないのに、ローズはそんな苦しみとは無縁に、ハンサムな伴侶と微笑んでいる。

 たとえ誰にも知られずに堕胎できたからって、簡単に立ち直れるものではあるまい。

 ルイスはその場で膝を付き、ローズの左手を取ると、手の甲に口づけた。

「今日、さっそく、指輪を買ってくる。青い薔薇、ローズ・ヘスターの名にふさわしい、ブルー・ダイヤモンドがいいな」

 そこへ、ノックの音がし、キャロルが戻ってきた。

「遅くなってごめんなさ――。あら、お取り込み中?」

 ローズは、にっこりと、聖母の笑顔を意識し、微笑んだ。

「ふふふ、私ね、ルイスと結婚するの」

「えええ? ほんとに?」

 ルイスが立ち上がり、ローズを強く抱きしめた。

「ああ。ローズは唯一無二の存在だ。僕は出会った時から、ローズにぞっこんで、この日が来るのを。ずっと待っていたんだ」

 キャロルは、まだ呆然としていた。

「それは……おめでとう。ローズ、よかったわね」

「ええ。でも、決して妊娠した結果、なんかじゃないわよ。私たちは、順序を間違えるなんて事態には、絶対にならないの」

 キャロルの顔が強ばった。少し露骨だっただろうか? ルイスがすぐに、フォローしてくれた。

「誰もがローズを奔放な女性だと誤解している。本当は、純粋で真っ直ぐな女性なんだ。これからは、僕がローズを守っていくよ。キャロル、君も応援してくれるね?」

 キャロルは慌てた様子で、笑顔を作った。

「おめでとう、ローズ、ルイス。本当に、おめでとう」

 お祝いの言葉の裏で、キャロルがドリスについて考えているぐらい、理解できた。同情する気持ちが、あまり強くなり過ぎないといいが……。

 ローズは満足していた。そうとも、この計画に不満な部分なんて、どこにもない。

 脚本家から、ルイスは見事に新進気鋭の監督になった。監督としての第一作の主役は、もちろんミューズである、ローズ・ヘスター。

 これから先も二人は、二人三脚で歩いていく。お互いに栄光を与え合いながら、もっともっと大きな存在になっていく。

 ルイスが宝石店で四カラットのブルー・ダイヤモンドのリングを買ったところで、MGM上層部への報告となった。

 草創期からハリウッドを支えてきた、ルイス・B・メイヤーをはじめ、白髪頭のユダヤ人たちは、我が事のように喜んだ。

「ローズも今や、MGMの顔だ。盛大な婚約式、結婚式を催さなくてはな」

 ルイスが照れ臭そうに、頭を掻いた。

「いや、僕は、華やかな場所が苦手ですから。結婚式も身内だけでと思っているくらいです」

「なにを言う! この世の夢〝青い薔薇〟と結婚するんだぞ。大きな会場に、カメラマンや記者を大勢わんさか入れて、盛大に祝わなければ」

「トッド君、安心したまえ。カメラはローズだけを追う。君の写真なんか、半分も映っていればいいほうだよ」

 どっと笑いが起こった。ローズも釣られて、笑った。

「小父さまったら、酷いわ。それに、まだまだ、わからないわよ。観客はまだ、ルイスがこんなにもハンサムだって知る人が少ないわ。写真を見て、ルイスのファンが増えるかもしれませんわよ」

 MGMの重鎮たちに「小父さま」の呼称を使う人間は、今までドリスだけだった。ドリスだけが許された立場に、今、ローズはいる。

「では、新聞社やラジオ局に知らせるんだ。カメラマンが集まったところで、トッド君の口から婚約を発表させよう」

「テレビ局は、どうします?」

 宣伝担当のロバートの疑問は、当然のものだった。しかし、この当時から映画界とテレビ界は犬猿の仲だった。

 戦争が終わり、各家庭にテレビが普及しつつあった。電源さえ入れれば、入場料を払わずに、ドラマやコメディ、歌番組が見られる。映画界は、いろいろ手を尽くして、差別化しているが、観客にとって、無料より安いものはない。

「テレビ局なんて、無視だ、無視。どうせ、新聞やラジオの記者から、詳しい話も聞けるし、ネガも譲ってもらえるだろうさ」

 ふと気づくと、キャロルが時計ばかり気にしていた。

「キャロル、どうかしたの?」

 キャロルはすぐに、口の端を上げた。

「ううん。何でもないの」

 メイヤーが珍しくも、キャロルに声を掛けてきた。

「君、キャロルだね? ここは、もういいから、行きなさい」

 信じられない言葉だった。キャロルは、マネージャーだ。こういう大事な時にこそ、側にいてくれないと!

「駄目よ、キャロル。いったいどこへ行こうっていうのよ?」

 キャロルは申し訳なさそうに、顔をくしゃくしゃにした。

「ごめんね、ローズ。大丈夫よ、ルイスが従いているもの。メイクは私の後輩で腕の立つ子に頼んでおいたわ」

 ローズはすぐに、ピンと来た。メイヤーが目の中に入れても痛くない存在、ドリスの堕胎に関する問題だ。

 キャロルは直接相談を受けていた。すぐに上層部に進言しただろう。結果、このあと、ドリスは堕胎手術を受ける。キャロルは側で見守る。

 ルイスの言う通り、簡単に暴露なんて、できそうになかった。一歩でも間違えれば、ローズが悪役になりかねない。

 喉まで声が出かかった。

 ――「あなた、どっちのマネージャーのつもりなの?」――と。

 肝心な時に側にいてくれないなら、ドリスと競争して獲得した意味がない。

 また、こうも言いたかった。

 ――「姉さんがふしだらに妊娠した事実を、私は知っているのよ」――とも。

 どちらも言えない辛さがあった。

 ルイスがすっと側に来て、ローズの背を抱いた。慰めてくれているというより、余計な問題を口にするなと牽制に来た様子だった。

 永遠の伴侶になる男が、すぐ側にいる。大きなブルー・ダイヤモンドのリングも贈ってもらった。二人の行く末には、輝かしい未来しか考えられない。

 なのに、なぜこんなにも孤独なのだろう。

 母を姉に独り占めされていた頃も、ローズは孤独だった。存在感の薄い父と共に、冷めたピザを頬張る日々。

 今、改めて思う。あの頃のローズは、今よりもっともっと強かった。いや、強いという言い方も違う。子供だったぶん、弱かったし、悲しみも人一倍大きかった。でも……。

 ――あの頃の私には、姉さんを追い越すという強い目標があったわ。

 ドリスを出し抜き、有能なマネージャーを雇った。ブレーンとして、共犯者として、完璧な男性ルイスとも出会った。

 デビュー作の興行成績は、軽く姉の映画を超えた。姉が暢気に愛と怠惰の日々を過ごしている間に、ドリス・ハートに相応しかった役柄でも、好評を得た。

 その上、監督になったルイスと、婚約発表をする。

 すべてが順調だった。でも、何か大きなものが欠けていた。

 野心は今も、変わりなく持っている。ドリスを蹴落としても、まだ階段の上には、追い落とすべき、大スターが並んでいる。

 いつか、ルイスは言っていた。ドリスがあまり冴えなくなると、ローズのモチベーションが下がる、といったようなことを。

 ふと思う。今のドリスは、ルイスにとって、興味を惹かれる存在なのではないか、と。

 結婚を承諾しておいて、まさか、裏切る真似はしないだろうが。ローズと結婚したら、ルイスはドリスの義理の弟となる。仕事の上で手を貸しても、何らおかしくはない。

「ローズ、記者会見の支度をしましょう。もう、知らせを聞いて、飛んできた記者がいるんですって。髪と衣装を、青い薔薇らしく、美しく装いましょう」

 キャロルが頼んだヘアメイクも、腕は確かだった。

 写真撮影とインタビューの場には、MGM社屋の裏にある、気持ちのよい木陰が選ばれた。緑の葉が、ローズのプラチナ・ブロンドに映えるだろう。

 ローズとルイスの婚約会見は、全てが完璧だった。完璧な婚約者に、完璧な舞台設定。記者とのやり取りさえ、教科書があるのなら、その通りだ、と言えるほど、完璧だった。

 足りないものなんて一つもない。懸命に言い聞かせながら、笑顔で写真に収まるローズは、体の一部がぽっかりと空洞になったような気分だった。

 緑色に塗られた廊下と、漆喰があちこち欠けた白い壁。待合室に、他に人はいない。診療時間外のせいか、MGMの働きで、誰にもドリスを見せないようにしているのか。

 ドリスは頭を抱え、膝に突っ伏した。

 ――もう、嫌! こんなこと、早く終わって欲しい。

 横に座るキャロルが、そっと背を撫でてくれた。

「大丈夫?」

「ぜんぜん! ぜんぜんよ! 消えてなくなりたい気分だわ!」

 目の前に白衣姿の若い男が座った。ドリスたちには背を向け、新聞を広げた。目の前に飛び込んできた見出しに、仰天した。

「ローズ・ヘスター、婚約! お相手は、ずっと二人三脚で歩いてきた、監督のルイス・トッド氏」

 ガンと頭を殴られた思いだった。ローズが婚約? あっという間に映画監督になった、才能溢れる美麗な男と?

 キャロルがドリスの様子に気づいたのか、「席を移動しましょう」と提案した。

「いいえ! ねえ、あなた、読み終わったら、その新聞、私にも見せてくれませんか?」

 男は驚いて振り向いたが、ドリスの顔が尋常ではなかったのだろう。すぐに新聞を渡してくれた。

 キャロルがしきりに謝り、新聞代を支払っている間、ドリスは記事を読み始めた。

「一九四六年十一月三日は、映画ファンにとって、特別の意味になるだろう。青い薔薇と賞賛を浴びている女優ローズ・ヘスター嬢が、新進映画監督のルイス・トッド氏のプロポーズを受けた日だからだ。トッド氏は、青い薔薇を作り上げた功労者。遂に自分の理想に育て上げたローズと結婚し、一生、同じ道を歩いていくと決めた。考えようによっては、驚くに当たらないだろう。ローズにはルイスが、ルイスにはローズが、必要なのだ。この二人こそ、天国で一つだった半身同士に違いない。また、トッド氏およびMGMは、ローズ嬢の妊娠を否定した。「いつまで経ってもお腹は大きくならないから、ゆっくりと最高のウェディング・ドレスを選べる」と笑っていたという」

 顔が火が点いたように熱くなった。こんなところで、ローズの優位を身に染みて感じなければならないとは!

 ――妊娠してないなんて、嘘よ! あんなにべたべたしてたんだから。きっと闇医者に依頼して始末したんだわ!

 今、ドリスは同じことをしようとしている。もっと軽く考えるべきだ。まだ命にもなっていない体内の芽など、摘み取ってしまえばいい!

 それでも、涙が溢れ出た。命にもなっていない? いいや、命だとも! どんなに小さくとも、大きな価値ある、一つの命だとも!

 でも、今のドリスが育てていけるわけがない。なんとか……ならないだろうか。これ以上、ローズに対して敗北感を感じたくない。

 キャロルが言い訳めいた言葉を吐いた。

「ドリス、ごめんなさい。知らせないつもりじゃなかったの。でも、あなたも大事な体でしょ。すべてがわかるまで、耳に入れないほうがいいと判断したのよ」

「冗談じゃないわ! こんな形で知るなんて、最悪よ! 何なのよ、この写真! 大統領夫妻の写真でもないのに! なんでこんなに大きく扱われるのよ!」

 キャロルはドリスを落ち着かせようとするかのように、優しく背を撫でた。

「最初から、こういう計画だったのかもしれないわね。あの二人は、とても計算高いわ。仲の良さを思いっきりアピールして、妊娠の噂まで持ち出させた。観客がそっちに関心を持っている間に、するりとすり抜けるように、結婚報告ですものね」

 キャロルは、ローズたちのあざとさに、嫌気が差し始めているのだろうか? ドリスは慎重に、言葉を選んだ。

「ねえ、キャロル。もし、私とローズが同時に、そう、まったく同時に、あなたにマネージャーをして欲しいと頼んだら、どっちを選んでいた?」

 キャロルの目が泳いだ。躊躇いに何度か瞬きをし、静かに告げた。

「……あなたを選んだと思うわ、ドリス」

 キャロルは、ハート邸に入ったら、ドリスの味方……。その言葉だけで、今は充分だった。

 白いドアが開き、看護婦が呼びかけた。

「ドリス・ハートさん。どうぞ、お入りください」

 ドリスの心の中に、一つの覚悟ができた。ゴクリと唾を飲み込むと、ゆっくりと立ち上がる。キャロルが背中を支えながら、二人は白いドアの奥へと入っていった。

 一通りの診察を終えて、医師が眼鏡を掛け直した。

「妊娠ですね。今、八週目に入ったところです」

 普通なら、「おめでとうございます」のお祝いも述べるだろうが、ドリスが堕胎すると考えているのだろう。ドリスは意を決し、口を開いた。

「先生、私、赤ちゃんを産むことは、できないでしょうか?」

 医者の眼鏡の奥の瞳が、大きく開かれた。

「ミス・ハート。あなたの事情は、こちらも掌握しております。ご自身の立場を考えた上での、判断なのですか?」

 確かに、こんな考え、酔狂なだけかもしれない。しかし、急に目覚めた母性に抗う力はなかった。

「妊婦の中でも、お腹が大きくならない人はいると聞きます。私は太りやすい質だから、少々お腹が出ても、また太り出したと騒がれる程度だと思うんです。何より、私、この子を産みたいんです」

 キャロルが小声で、強く警告した。

「産んでどうするの! それなら、クロードとの結婚が先でしょ?」

「クロードとは、今は結婚しません。あの人は、女優を辞めろと言うでしょうから。子供が生まれたら、他人の子として、つまり、里子を迎える振りをして、我が子を手に入れます」

 医師は困った様子で、ぽりぽりと頭を掻いた。

「どうしたもんだろうねえ。私の独断では決められません。会社の意向もあるし。では、今日は堕胎手術は、止めておきましょう。もっと周囲の人たちと話し合って、結論を出してください」

 ドリスはとりあえず、安堵の息を吐いた。しかし憂鬱な事態は続く。家族会議を開かなければならないのだろうか?

 そうなると、ローズに知られる。それだけは避けたい。

 ローズはルイスと結婚する。つまり、新居に移る展開になるのではないだろうか?

 邸の中にローズがいなくなると、リラックスして、お腹の子供をはぐくめる。

 ローズが出ていくまで、しばらくの間、クロードの元で厄介になろうか。

 いや、これ以上、クロードに、〝自分だけの女〟と思われたくない。なんとかして、両親だけに知らせ、協力を仰ぎたい。生まれてから里子として引き取るとしたら、母シャーロットの娘にしたほうがいいだろうし。ドリスは実の子と義理の姉妹になる。

 ――お腹の子は、殺さない! 私は、ローズとは違うんだから!

 ローズがいない日を見計らって、母シャーロット、父アーロン、MGMから宣伝担当のロバート、ずっと側に従いていてくれたキャロルが集まり、家族会議となった。

 もちろん、ドリス以外の人間は、皆が揃って、出産に対して反対の立場だった。

 母はなんとかドリスを説得しようと、眉尻を下げ、猫撫で声を出した。

「ねえ、ドリス。どうか考え直して。あなたはまだ、十七歳なのよ。一生の問題なの。安易な考えに走らないで」

 なにが安易なものか! 十七歳で子供を産む選択肢のほうが、よほど冒険だ。

「だから、ママに里子として引き取ってもらいたいと言っているのよ」

 ロバートは難しい顔で、鼻の下を掻いた。

「噂は、すぐに広まりますよ。お腹が大きくなったら、女優業は休むのでしょう? そうなると、タブロイド紙が嗅ぎつけますよ」

「いいえ、休まないわ。出産のぎりぎりまで働く。簡単に妊娠しているなんて、感づかせないわよ」

「おまえ、簡単な話のように言っているけどね。臨月は本当に、動くのも大変なのよ」

「そんなに太らないようにするから、大丈夫よ」

 父アーロンが、静かに口を開いた。

「好きなように、やらせておやりよ、シャーロット」

 母の顔が、急に険しくなった。

「あなたは黙っていてください! ハリウッドでの苦労をなにも知らないで、いい加減な意見を言わないで!」

 やれやれ。だったら、なぜ、家族会議に父を入れたのか? とにかく今は、父だけが味方だ。いや、もう一人、大きな味方が欲しい。

 ドリスは、もう産むと決めて、話を先に進めた。

「それでね、マネージャーを、クリスから女性のキャロルに代えて欲しいの」

 キャロルは驚いた様子で、目を開いた。

「私は、ローズのマネージャーです。今回は、婦人科に行くというので、女の私でなければ駄目だと思い、引き受けました」

 ドリスはキャロルの言葉を無視し、母に進言した。

「ママ、お願い! お願いよぉ! ローズは、もうルイスがいるんだし、キャロルのようなしっかり者のマネージャーでなくて、大丈夫よ。私のほうが、弱い立場にあるわ。お金はこのハート家から出ているんですもの。ね、マネージャーを取り替えるなんて、雑作もない話でしょ?」

 母は大きく息を吐いた。

「ローズは、怒るでしょうねえ……でも、仕方ないわね。ローズは今のあなたより、ずっと恵まれた立場にいるから、キャロルをあなたが引き抜いても、なんとかやっていくでしょう」

 やった! 遂にローズからキャロルを奪い取った! 勝利の思いは胸に秘め、同情を誘うような、弱々しい笑顔を浮かべてみせる。

「キャロルがいてくれたら、心細さもなくなるわ。私は、母になるの。たった十七で。でも、負けないわ。子供の命を摘むなんて、絶対にできないもの」

 ドリスは涙を浮かべ、キャロルの手を取った。

「キャロル、私を助けてくれるわね? お腹の子は、父親もいないの。でも、あなたさえいれば、私、頑張れる。頑張れるわ!」

 ここまで頼み込まれて、嫌と言える性格でないとわかっている。キャロルは小さく息を吐くと、口の端を上げ、ドリスの手を握った。

「わかったわ、ドリス。あなたの覚悟、立派だと思う。私、あなたのために、働くわ」

 ドリスは笑いを噛み殺すのに苦労した。

 妊娠に対する不安なんて、これっぽっちもない。そんなに気を遣わなくても、子供は自然と生まれてくるものだ。ドリスにとって、お腹の赤ん坊は、愛しい存在というより、ローズより有利に立つ道具だった。

 母も、これ以上あれこれ説得しても無駄だと感じたようだ。

「好きになさい、ドリス。でも、苦しくなったら、体を優先するのよ。あなたはドル箱スターなのだし、この際、我が儘娘の権利を、思い切り主張しなさい」

 ドリスは勝利の思いで、頷いた。

「わかったわ、ママ」

 さて、ローズがどう出てくるか、見物だ。

10

 ローズにとっては、青天の霹靂だった。キャロルがドリスのマネージャーになる? なんだって、そんな展開になるのか!

「納得がいかないわ、キャロル。なんでまた、今更、姉さんのマネージャーになんか、なるのよ? 私、何かあなたが嫌がるような真似をした?」

 ローズは今、いつになく不安な思いを抱えていた。ルイスとの完璧過ぎる婚約も、不安を増長させていた。

 キャロルは申し訳ないといった顔で、ローズに訴えた。

「あなたには、ルイスがいるでしょう。最高のブレーンであり、理解者だわ。ドリスには、誰もいないの」

「そんなの、姉さんの日頃の行いが悪いせいでしょ!」

 キャロルはローズを宥めるように、眉尻を下げ、優しい声を出した。

「ローズ、お願いよ、わかって。ドリスは今、とても心細い思いをしているの。それにね、お母さまから、私は今後、ドリスのマネージャーをやるようにと、命じられたのよ」

 母はいつだって、ドリスの味方だ。ドリスが泣きつけば、ほいほいとマネージャーを替えたりできるのだろう。

 しかし、ドリスに何の事情もなくて、マネージャーを交代させるだろうか?

 ローズは有能な監督と婚約した。だから、ドリスが可哀想になった? いいや、その程度の問題で、ここまでは、するまい。

 ドリスは妊娠していた。でも、すぐに堕胎したはず。キャロルがローズの大事な席を欠席しなければならなかった理由は、ドリスに付き添っていたからだと、もうわかっている。

 堕胎、しなかった?

 まさか、このまま子供を産むつもりか? それで、体調と精神のケアのため、キャロルを引き抜いた?

「姉さんは、妊娠しているのよね?」

 キャロルの目が泳いだ。困った顔で、小さく頷く。

「そうなのよ。ドリスは、産むと言っているの。ここは、ハート家が一丸となって、ドリスを支えていかなければならないのよ」

 ルイスの、いつぞやの言葉が蘇る。

 ――「奔放な娘がなにをやったって、驚きではない。でも、ずっと清純派だった女優が奔放になれば、客の気は一気に引けるよ」

 仮に、ドリスの妊娠、出産が、マスコミに漏れたとしよう。でも、ぜんぜん、ダメージには、ならないのではないか。

 そんな複雑な事情を抱えるドリスに、一番の関心を持つ人間は――ルイスだ!

 ルイスを離すまいと、婚約、結婚の道を取ったが、それだけでルイスを繋ぎ止めておけるわけもなかった。

 ローズは途端に、自分が窮地に立たされていると知った。しかし、この世の他に誰も、ローズが危機に陥っているだなんて、知らなかった。


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