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青い薔薇白い薔薇  作者: 霧島勇馬
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第一章 銀幕の徒花

第一章 銀幕の徒花

「不味いな。早くしないと、遅刻しちまう」

 新米マネージャーのクリス・マーロンが腕時計を見て、ぼやいた。

 苛立った神経質な声を聞いた瞬間から、ドリス・ハートの心拍数が急速に、どんどん上がっていった。

 ――駄目ぇええ! 今日の顔合わせになんて、死んでも出ないんだから!

 車の助手席から下りると、一目散に駆け出した。背後でクリスの驚いた声がする。

「ドリス? 待って! 指定の部屋は、そっちじゃないぞ!」

 この撮影所がどういう構造かなんて、七歳の頃から、なにもかも把握していた。当時は迷路のようなスタジオが、ドリスの遊び場だった。破裂しそうな自分の心臓の音を聞きながら、廊下を右に折れる。

「ドリスー!」

 十七歳の少女の足が、二十代後半の男性であるクリスに敵うわけはない。だから、隠れる。目の前にあった、第十四スタジオに入り込む。

 スタジオ内は灯りを落とされ、さまざまなセットが並んでいた。しばらくここに潜み、追っ手を撒こう。

 ハリウッドがめいっぱい真剣に考えた末に出来上がった、金持ちのイギリス人の部屋。リビング・スペースのソファに座り、息を吐く。

 しかし、すぐに足音が大きくなった。

「すみません、ドリスを見かけませんでしたか? 女優のドリス・ハートです」

「あらぁ、ドリスちゃんなら、このスタジオに駆け込んでいくのを見かけたわよ」

 ドリスは思わず、舌打ちした。全く、余計な情報を与える、無駄にお節介な人間がいるものだ。

「ありがとう!」

 クリスはすぐに、スタジオに入ってきた。部屋の中が暗いので、まだドリスを見つけるまでに至らない。

「ドリス! 僕を困らせたいのか? ちょっと、いや、かなり悪趣味だぞ!」

 そおっと上体を前に倒し、背凭れに添って、セットの壁の裏に隠れようとした。

「見つけた!」

 ドリスの肩が跳ねた。振り向いた瞬間、目が合った。

「ドリス! なぜ逃げるんだ! 早く皆と合流しなくちゃ! もう遅刻なんだぞ!」

 途端に、走り出す。今度は控え室のある、別のドアの方角へ。

 逃げる理由? そんなものは、ない。ただ、今は、すべてが消え失せて欲しかった。目の前にある恐怖から逃れるためだったら、どんな冒険でもする。

 こんな時、魔法の薬が欲しい。すべての悩みや苦しみが吹き飛ぶ、あの白い粉が。ポケットを探ると、ざらざらした紙包みの感触があった。

 目の前を通りかかった男性に飛びつき、手を握る。

「お願い。私はあっちへ行ったって、後ろから来る、男に言って。ね、お願い」

 男は興味なさそうに、「ああ、いいよ」と、あっさり頷いた。

 後ろを振り向き、まだ追っ手が見えないのを確認して、女子トイレに駆け込んだ。

 すぐに、クリスの足音が大きくなった。

「誰か、ドリスを見かけなかったか?」

「ああ、あっちへ行ったよ」

「あっち? ありがとう!」

 クリスの声と足音に、ドリスはトイレの個室で息を殺した。まだ新米のマネージャー相手に、鬼ごっこは容易い。

 七歳でハリウッド・デビューしてから早十年。でも今も、仕事の初日の緊張には耐えられない。一つの映画が終わると、すぐに鬱ぎの虫に取り憑かれた。

 デビュー作が、人気女優ジョーン・メイスンのシリーズもので、毎年一作品ずつ公開されていたから、終わるという感覚があまりなかった。ドリスはジョーンの愛らしい娘役で人気を博した。

 毎年、綺麗なお母さんと仕事ができる。いっときでも、現実世界から抜け出して、きらきらとピンクに光る世界に存在できた。もっともその頃には、家族内に流れる不協和音にも気づかないでいたし、周囲はひたすら、ドリスをちやほやした。

「あなたのような娘が欲しいと、アメリカじゅうの家族が考えているのよ」

「毎年、夏が恋しくてたまらないの。世界一愛らしい娘に、また会えるんですもの」

 私は、ジョーン・メイスンの娘――このような誤解を、幼い頃は本気で信じていた。

 不意にマネージャーの声が戻って来て、ドリスは体を固くした。

「誰か、女性のかたぁ、このトイレの中に入って、調べてくれませんかねー?」

 慌てて、便座に両足を上げる。施錠されているか、確認されたら終わりだが。

 もう、そろそろ、覚悟を決めなければ。きっと今度の企画も、うまくいく。周りは優しい人ばかりで、全員がドリスの美貌と性格の良さを褒めてくれる。

 また、ジョーンみたいな優しい女優が共演で、ドリスを抱き締めてくれる!

 ポケットから紙包みを取り出し、零れないように、そっと開く。中に入っている白い粉を、鼻の前に持っていき、一気に吸い込んだ。

 目の奥から脳天まで、一気に血が逆流した。耳鳴りがし、目の前がぼんやりしてくる。そっと目を開くと、目の前が虹色に滲んだ。

 これでいい。魔法の薬は、今日だって効き目は、ばっちりだ。

 もう、誰に会おうが、なにを言われようが、怖くはない。

 ――私は〝白い薔薇〟。皆が愛する、ドリス・ハートなのよ。

 十二歳の頃だったろうか。当時有名だった評論家が、ドリスに相応しい呼称を付けた。

「彼女はなにものにも染まっていない、限りなくピュアで美しい、白い薔薇だ」――と。

 あれから五年が経ち、一九四六年はドリスの記念すべき年となるはずだった。

 残念ながら、当時から、ドリスの体内には決して抜けきれないほどの麻薬が蓄積していたのだが……。

 個室のドアを、控えめにノックする音がした。

「ドリス? ドリスじゃない? ねえ、隠れていないで、出ていらっしゃいよ」

 馴染みのない声だったが、気が大きくなっていた。腕を伸ばし、戸の鍵を外す。ぎぃっと鈍い音がして、声の主とご対面となった。

 三十代前半の女性が、眉尻を下げて、にっこり微笑んだ。

「みぃつけた! ドリス、まーたいつもの悪い癖が出たわね」

 ドリスは大きく落胆の息を吐いた。ヘアメイクの人間だ。ドリスもたまに、髪を弄ってもらう時があった。でも、わざわざ口をきくほど、親しくはない。

 ただ、ドリスが顔見せの席を嫌い、逃げ隠れする癖は、知られていた。女は、いつものこと、と、気楽な様子で、手を差し出した。

「行きましょう。皆、心配しているわ。マネージャーさんも、走り回っているし」

 ドリスは、ぷいと横を向いた。

「ふん、知るもんですか!」

 女は、やれやれと腰に手を当てた。

「あなたは怖いからなんでしょうけど、周りは単なる我が儘としか、見てくれないわよ」

「誰も、私の立場なんてわかってくれないわよ」

「ええ、さっぱりわからないわ。これだけの美貌を持ち、未来があり、既に名声を得ている。いったいなにが不満なのか、これっぽっちもわからなくてよ」

「もう、いいわ! 行けばいいんでしょ!」

 ドリスは自棄な思いで、便座から立ち上がった。

 ひらひらと、白い粉を包んでいた紙が、舞い落ちた。女が手を伸ばそうとした先で、紙を奪い取り、便器に流した。

 人はドリスを、恵まれていると言う。でも本人は、さっぱり自覚が持てない。

 ――私ほど、不幸な女はいないわよ。

 その不幸という代物が、見ず知らずの有名監督や有名女優に挨拶しなければならない、程度のお気楽なものだとは、誰も思いも寄らないだろう。

 草創期から、数々のスターを輩出してきたハリウッド。狂乱の二十年代、未曾有の世界恐慌、二つの世界大戦、戦後の好景気と、経済が激動しようとも、スターはスターのままだった。

 毛皮を身に纏い、毎晩、破廉恥なパーティを繰り返し開き、麻薬に汚染された体を酷使する。少しでも正気になると、自分の危うい立場を自覚してしまう。己の不安定な状況を忘れるため、金を使い、薬を摂取する。

 個室から出ると、トイレの入口を覗いていたクリスが、嘆きの声を上げた。

「やっぱり、こんなところに隠れていたんですか! 僕の身にもなってくださいよ! 特別室では監督含め、そうそうたるメンバーがいるっていうのに、誰も一言も口をきかないんだから!」

 一瞬、出てきたことを後悔しそうになる。そうか、彼らは怒っているのか……。これから始まる撮影は、あまり楽しいものになりそうはない。

 後ろからドリスの背に手を置いていた女が、クリスを叱咤する。

「そんな話されたら、余計に出ていけなくなるでしょ! 嘘でも、皆、あなたの到着を待っている、ぐらいに言わないと、このお嬢さんとは、やっていけないわよ」

「そんなぁ。そんなこと言われたって……」

 事実は事実だから、仕方がないではないか、と続くのだろう。もういい、この男の無能さは、よくわかった。

 女が、力づけるように、ぽんとドリスの肩を叩いた。

「大丈夫よ。部屋にいる誰より、あなたのほうが先輩なんだから。堂々として。もうできるでしょ?」

 振り返ると、女はウィンクをした。どうやら、落ちた紙片の意味がわかっていたのだろう。

「わかったわ。この世のマネージャーと名が付く人間は、総じて大した知恵もなく、気配りも全然できないのよね。無能だからと、いちいち首にしても、事態はちっとも変わらないの」

「なにも、そこまで言わなくてもいいじゃないの、ねえ?」

 不意に話を振られたクリスは、ぽかんとしていた。

 ドリスはその場で、地団駄を踏んだ。

「だって、どうしようもなく、無能なんだもの!」

 ――なんで、この女の人みたいな頭をしたマネージャーは、いないのかしら……。

 いつになったら、「君は演技をしているだけでいいんだ」と、物わかりよく言ってくれる味方が現れるのだろうか? わざと遅刻し、トイレに籠城している事実が、どれほど他人に迷惑が掛かる行為なのか、ドリスは欠片すら、わかりたくもなかった。

 ふと、良い考えが浮かんだ。

 この女を、マネージャーにすればいい。ヘアメイクの技も持っているから、ずっとつきっきりで守ってくれる。これは、お願いしてみるしかない。

「ねえねえ、名前はなんていうの?」

「私? 私はキャロル・ハンターだけど」

「ね、今から、私のマネージャーになって。お金は今の仕事の二倍を出すよう、ママに頼んでみるわ。いまの私には、そう! あなたのような存在が必要なのよ」

 キャロルは話半分といった様子で、ドリスをトイレから廊下へ押し出した。

「とにかく、皆さんが集まっているお部屋まで、一緒に行ってあげる。案外と、中に入れば、上手くやれるでしょうから」

 とりあえず、ドリスとキャロルが前を歩き、クリスが追いかける形で、三人は、新作映画の顔合わせ席になっている特別室へと向かった。

 特別室の室内は、嫌な空気に包まれていた。

 今回、ドリスの母親役を演じる女優は、エリサ・ジョーンズ。かつては一流と呼ばれる女優だったが、歳を重ねるに連れ、単独では客が呼べなくなった。

 母親という老け役自体が、エリサにとっては屈辱的なもののはずだった。

 いっぽう、父親役は、歳がもう五十近い、ロマンスグレーのロバート・ハリス。長年に亘ってギャング映画に出演してきたが、これまた新しい風に煽られ、当たり障りのない役柄に移行した。

 つまり、今回の企画は、二流の集まりのようなもので、一番きらきら輝いている存在、ドリス頼みなところがあった。

 マネージャーのクリスが、部屋に入るなり、大きく頭を下げた。

「遅刻して、申し訳ありませぇええん!」

 ドリスは謝る真似もせず、つんと顎を上げ、自分の名前が記されたプレートがある席に腰を下ろした。

 ――謝る必要なんてないわ。私がいないと、この企画は成り立たないんだから。

 クリスの横で、キャロルが渋い顔を向けていた。謝らないドリスが気に入らないのか。でも、もうクリスが代わりに謝ったのだから、いいではないか。

 監督のローレンス・トッドが唯一、ドリスのお気に入りだった。ドリスの出世作『夢の咲く家』の監督をしており、ドリスとは家族ぐるみの付き合いだった。

 ローレンスは、ドリスに笑顔を向けると、「これで揃いましたね」と、穏やかな声を出した。

 父親役のロバートが、煙草を揉み消し、大きく息を吐く。なんとも鼻につくが、ドリスは無視した。

 どうして、いつまでも誰かの娘役しかできないのだろう? 早く、主役を張りたい。ドリス・ハートの名がトップに流れて欲しい。いつだって、父親役、母親役の次だった。

 ――どうせ、客は私を観に、映画館に足を運ぶんだもの。

「これだけ名優、名女優が揃って、愛らしいドリスもいる。映画は成功、間違いなしですな、はっはっはは」

 すると母親役のエリサが、小さく笑った。

「私の娘にしては、いささか薹が立っていますけどね」

「そんなことないわ。うちのママのほうが、あなたより若いもの」

 エリサは「ん、まあぁ!」と絶句した。

「生意気だとは聞いていたけど、噂以上ね」

 ドリスは不貞腐れて、そっぽを向いた。意味なく不機嫌になる真似ができる歳は、とうに過ぎていたのだが。

 監督ローレンスが、困った笑いを浮かべ、二人を宥めた。

「初共演で、相互理解は、これからだろう。クランクインまでの間、母娘の絆をしっかりしたものにしておいてくださいよ。ね、頼みますよ」

 ふと見ると、キャロルが、やれやれと首を横に振っていた。

 変更された台本とスケジュール表、資料となるいくつかの写真をクリスに持たせ、ドリスは部屋を出た。

「あれ? あの人は? キャロルは?」

 確か、話の中ほどで外に出ていった。てっきり外で待っていてくれると考えていたが、甘かったのだろうか?

 すると、廊下の角から、コーラの瓶を手に、こちらへやって来た。ドリスの顔を見ると、にっこり微笑んだ。

「お疲れ様。コーラを持ってきたわ」

 ドリスは、いい気分になり、笑顔でコーラを受け取った。炭酸水の刺激は、魔法の薬ほどではなかったが、ぴりぴりと体に染みた。

 自然、キャロルとドリスが並んで歩き、大荷物のクリスが後ろに続く形となった。

「ねえ、キャロル。考えてくれた?」

「考えるって、なにを?」

「んもう! 私のマネージャーになる件よ。今の二倍の給料を出すって、言ったでしょ」

 キャロルは苦い笑みを浮かべた。

「そう簡単に、話は進まないわよ」

「いいえ、進むわ。このまま、私と家まで来て。ママと直に話し合ってちょうだい。お願い、あなたが必要なのよ」

 キャロルが、ぽんとドリスの肩を叩いた。

「そうね……。お母さまと、お話しましょうか」

「嬉しい! 引き受けてくれるのね!」

「ああ、早合点しないで。いろいろ、大人たちにも事情があるのよ。私も、先の問題を考えないといけないし」

 キャロルがちらりと、背後に視線を移した。ドリスが振り返ると、クリスが憮然とした顔で、従いてきていた。

「僕は、もう、首なんですかね!」

 キャロルが眉尻を下げ、クリスを励ました。

「辞めさせる、辞めさせない、なんて、こういった仕事の場合、毎日のように話題に上るわ。いちいち気にしないで」

 三人は撮影所の建物を出て、表の駐車場に向かった。車は一九四二年コンチネンタル。ドリス自慢の自家用車だ。

「一緒に後部座席に乗りましょう」

 半ば強引に、キャロルを車に押し込む。自分が潜り込んだところで、クリスに命じる。

「早く早く、出発して! あ、たぶん、これが最後の仕事になるだろうから、しっかりね!」

 ビバリーヒルズの白壁の邸宅も、これまたドリスの自慢だった。

 なにしろ、家族がこんな高級住宅街に居を構えていられるのも、ドリスの稼ぎのおかげだったから。ドリスは皆に自慢していた。

 ――この邸は、私が建てたのよ! 皆、私のおかげで、贅沢できるのよ。

 車寄せに止まるや、ドアを開け、外に飛び出した。

「ねえ、キャロル、来て! 邸を案内するわ」

 キャロルはなんとも、ばつの悪そうな顔をした。クリスがのっそりと、運転席から下りた。

「荷物、持ちます? 僕はもう、首みたいなんで」

 キャロルは、残念そうに首を横に振った。

「いいえ、首になんて、ならないわ。実は、私……もう、次の職が決まっているの」

 ドリスは驚いて、キャロルの顔をまじまじと見た。

「どういう意味?」

「……つまり、あなたのマネージャーには、なれないのよ」

 信じられない言葉だった。こんな好条件の仕事を逃す手はないではないか!

「じゃあ、なぜ、ここまで従いてきたのよ?」

「それは――」

 そのとき、玄関のドアが開く音がした。母のシャーロットが、表に出てきた。

「ドリス、なにをしているの? さっさと家に入りなさい。クリス、ご苦労さま」

 クリスはぺこりと頭を下げると、邸の中に入っていった。

 ドリスは得意な思いで、胸を張った。

「ママ、この人はキャロルっていうの。私の新しいマネージャーよ」

 シャーロットは驚いた様子で、目を開いた。

「あなたには、クリスがいるでしょう」

「辞めさせたわ。だって、あの男は無能なんだもの」

「大人に対して、そんな口の利き方、よしなさい」

 キャロルが二人の間に割って入った。

「奥さま、止してください。それより、事情をドリスに説明してあげてください」

 ドリスは、ぽかんとして、キャロルを見た。

「事情? 何、それ?」

 シャーロットが、やれやれと諦めたように、息を吐いた。

「ドリス、この人はね、もう職が決まっているの」

「だーかーら、その職を辞めて、私のマネージャーになってもらうのよ」

 不意に聞き慣れた、耳障りな高い声がした。

「駄目よ、姉さん。もう、これ以上、私のものを奪ったりさせない。その人は、私のマネージャーになるの」

 ドリスは目を見張った。

 そこにいるのは、いつも拗ねて、父の陰に隠れていた妹ではなかった。妹のローズ・ハートは赤かった髪を、真っ白と言えそうなほど、見事に脱色し、肩の上でカールさせていた。まるでジーン・ハーロウを気取った様子で、腕を組み、ドリスを睨み付けていた。

 遂に、母を味方につけた! ローズ・ハートは勝利の思いで、興奮していた。

 母シャーロットは、もともと、ハリウッド女優志望の女性だった。でも、シャーロット自身が若い頃は、いろいろと上手くいかず、夢は消えた。

 なら、せめて、娘をハリウッド女優に!

 長女のドリスは、それは美しい赤ん坊だったそうだ。この美貌なら、娘はハリウッドで成り上がれる! 確信したシャーロットは、ドリスのために人生を捧げる決意をする。

 ここが、ローズの不運な点だった。ドリスより一年半だけ遅く生まれたローズに、シャーロットは何の興味も示さなかった。

 タイヤ工場で働いていた父のアーロン・ハートが、主にローズの世話をしてきた。父は唯一、ローズの味方だったが、ドリスの稼ぎっぷりに遠慮して、家庭内での発言力はほぼなかった。

 母からは、二言目には、「お姉ちゃんのおかげで、贅沢な暮らしができるんだから」と言われた。だから、おまえは我慢しなさい、というわけだ。

 ローズだって、女優になりたいと思った。でも、自覚する頃には、ドリスは子役スターになっていた。

 誰かが言っていた。ドリス・ハートは二人要らない――と。

 あれは、ローズに余計な野心を抱かせないための、大人の意地悪だったのか。

 姉と母が、MGMの上層部と会食をする夜、ローズと父は、冷めたピザで我慢した。

 姉は銀色に光る、輝かしい場所で、ちやほやされていた。ローズはずっと、ドリスが大嫌いだった。

 大嫌い? その程度のものではない。嫌悪感で死にそうなほどだ。いや、殺したいほど憎い――という言葉が一番、ローズの心情を言い当てている。

 ローズの目の前にある、素敵なもの、楽しいものを何でも横取りし、一人いい目を見ている。

 だから、母シャーロットが、ローズのハリウッド入りを認めた時は、飛び跳ねたいくらい嬉しかった。

「あらら。まあまあまあ。随分、イメージ・チェンジしたものね。そこまで髪の色を抜かなくても良いものを」

「ドリス・ハートは二人も要らないんでしょ? 姉さんと同じ赤毛だったら、すぐにそこを指摘されるわよ」

 母は愉快そうに、にやりと笑った。

「なるほどね。あなたは、いいブレーンを見つけたらしいわね」

 ブロンドにすべきだと進言した男は、ルイス・トッド。この時期、ちょっと脚光を浴びてきた、新進脚本家だった。

 トッド家は金持ちで、息子の行動を道楽の延長だと思っているらしいが。ルイスとローズの思いは一つ。

 親を見返してやりたい――だった。

「それでね、ママ。女優をやっていくんなら、有能なマネージャーが欲しいの。ルイスが見つけてくれたわ。メイク係のキャロル・ハンターを、スカウトして欲しいの」

 母は二つ返事で、了解した。

「ああ、あの女性ね。映画界でのキャリアもあるし、何より気がつく人だわ。いいでしょう、充分な給金を払う約束で、職替えしてもらいましょう」

 以上のような展開で、ローズはドリスより一足早く、キャロルを手に入れていたのだった。

 ――ふぅ、良かった。もう一日、遅れていたら、キャロルは姉さんのマネージャーになるところだった。

 人のいい性格で、敵は全然いないと聞く。生来の気配り上手で、スタッフの信頼を得ている。

 呆然としているドリスの前で、キャロルの手を取り、傍らに寄せる。

「わかった、姉さん? キャロルは私のものなの! 私はもう、姉さんに遠慮はしないわ。だって、もう、同じ世界で頑張る、ラ・イ・バ・ル・ですものね」

 ドリスの肩が、わなわなと震えた。

「ふ、ふざけないでよ! なんで、あんたばかりが、有能なマネージャーを持てるの? こんなの、差別じゃないの!」

 そこでキャロルが、控えめに口出しした。

「ねえ、ドリス。ローズのマネージャーを引き受けるにあたり、いろいろご家族の事情を伺っているの。あなたは、ほぼ全てを持っている。ローズの思いを少しだけ、聞いてあげてもいいんじゃないかしら?」

「ママ、正気? こんな能なし娘に、なにができるっていうのよ! ハリウッドは厳しい世界なの! 姉が有名だからって、ひょいと何かのエキストラに出たところで、観客は覚えてなんかくれないわ!」

 ローズは今にも、笑い出しそうになる自分を、なんとか堪えた。なんてまた、好都合な話題を出してくれるのか。

 ――ふっふっふっふ。姉さんの悔しがる顔を、今ここで見られるなんて。

「エキストラなんかじゃないわ。今度ね、クローデット・コルベール主演の映画に助演するの。クローデットの娘役よ、む・す・め・や・く!」

 わざと得意満面な思いを隠さず、口の端を歪に上げてみせる。

 ――姉さんは確か、落ち目のエリサ・ジョーンズの娘をやるのよねえ?

 ドリスの顔が、かーっと赤くなった。拳を握りしめ、ぶんぶん回した。

「認めない! 私は、そんな真似、認めないわよ!」

「あーら、姉さんが認める必要はないわ。私が契約したお相手は、MGMだもの」

「だ、だ、だったら、出て行きなさい! この邸は、私の稼ぎで建てたの! あんたが食べるパンもミルクも、チキンもビーフも、皆、私のお金で買ったものなのよ!」

 どうせ、言うだろうと思った。姉の言葉の先を読むのも、もう慣れた。ローズは横に立ち、困り果てている母に告げた。

「ママぁ、姉さんが私に出ていけって。どうしたらいいかしらぁ?」

「ドリス、あなた、そんなこと、言うものではないわ。私たちは、四人きりの家族でしょうが」

 ローズは、笑い出したくなるのを懸命に堪えた。

 家族? 四人きり? そんな発想がこの母にあったとは。ただ、ここで反論する役回りはドリスのほうだった。

「家族? 本気で家族が大事だと思っているの? もう、とっくに崩壊しているじゃないの!」

「なんてこと言うの、この子は! 親を侮辱したら、許しませんよ!」

 キャロルが、堪らないといった様子で、割って入った。

「奥さま、ドリス、どうか、そこまでになさってください。私は、どう行動したらいいかわからなくなります」

 キャロルの取り合いから、親子に深刻な溝ができたら困るといったところだろう。ローズは、キャロルの手を引っ張った。

「キャロル、姉さんなんか放っておいて、邸の中に入りましょ。話したいことが、たくさんたくさんあるの。私たち、もっともっと仲良くなっておく必要があるわ。だって、女優とマネージャーなんだもの。ね?」

 女優! いよいよ、ローズもハリウッド女優の仲間入りだ。わくわくしながら、この場を去りがたそうなキャロルを連れ、玄関の奥へと入っていった。

 ドリスは頭を殴られた思いだった。

 ――いつの間に、あんな冴えなかったローズが、大きな顔をしているのよ?

 まるで、魔法を掛けられたかのようだった。ローズがこんなにも魅力的だったなんて、ぜんぜん知らなかった。

 顔の造作から見れば、断然、ドリスのほうが美しい。ただ、プラチナ・ブロンドに染めたローズは、なんとも言えない怪しい魅力を放っていた。

 どうにも腹の虫が治まらず、ドリスはローズの背を追った。

「待ちなさい、この馬鹿娘! 話は、まだ終わっていないわ!」

 母を押しのけ、ずんずんと邸の中に入っていった。

「ローズ、ローズっ!」

 リビングに入ると、来客があった。明るいブロンド・ヘアの若い男だった。男はドリスに笑いかけ、穏やかに挨拶した。

「初めまして、ドリス・ハート。ルイス・トッドと申します」

「あぁら、どうも。いらっしゃいませ」

 着ている服は、かなりの高級品だ。金持ちのぼんぼんといったところだ。誰の客だろう? まさか、ローズの?

「ローズのお知り合い?」

「ええ。いい友人です。職業は脚本家」

「ひょっとして、まさか、あの子が髪を脱色した原因は、あなたにあるのかしら?」

 ルイスは即答した。

「そうです。男は皆、ブロンドに憧れますからね」

 ルイスの言葉には、ちょっとムッとさせられた。ドリスは、自分の赤毛が自慢だった。それでも男のファンは、充分過ぎるほどいる。

「そうかしら。頭が空っぽに見えるだけでしょう?」

「確かに、これから空っぽの振りをさせるのは、大変かもしれません。でも、ローズには僕が従いています。見事に銀幕に花を咲かせてみせますよ」

 余計な心がけの男が出てきたものだ。この男、上手くこちらに取り込めないだろうか? 今、ローズのブレーンとなっているらしいし。

 たぶん、ルイスの入れ知恵で、ローズはキャロルをマネージャーに据えたのだろう。

 ドリスは天使の微笑みを装って、そっとルイスの横に座った。

「ねえ、なんでローズなの? 大きな仕事をしたいんなら、ローズじゃなく、私と親しくしておくべきだと思うわよ?」

 ドリスは高嶺の花だから、妹のローズ程度にしておこうと思った――ドリスはルイスの心情を、このように推理した。

 確かに、ドリスは毎回、一流の監督、共演者、脚本家と仕事をする。こんな、ぽっと出の新人脚本家となんか、天地がひっくり返らない限り、仕事をする展開にはならない。

 でも、ローズがこの男の手で、洗練されていくのは怖かった。昔から、男によくもてた妹だった。男たちは、独特の色気を感じるらしい。

 そもそも、ドリスの妹でなければ、そんな脚光を浴びたりもしなかったはずだ。

「あなたには既に親しい人が多すぎる。僕はゼロから、ローズを育てたいんです。幸い、ローズも僕を気に入ってくれました。これからは、お互いライバルですね」

 ライバル? あんな拗ねてばかりの我が儘娘が?

「冗談でしょ? ローズが私に対抗するほどに成長できるとでも言うの? どうせ話題になるのも最初のうちだけ。しかも理由は、ドリス・ハートの妹だからだわ」

 ――脚本家としての能力は未知数。でも、女を育てるタイプの男もいると聞くわ。

「ねえ、ルイス。大きな仕事をあげましょうか? ローズなんて捨てて、私のブレーンになってくれたら、有名監督や一流女優と仕事をさせてあげられるわ」

 するとルイスは、馬鹿にしたように笑った。

「さあ、どうかな。君にそんな力が、まだ残っているとは思えないな。子役から大人の女優になる過程で消えていった俳優は、数知れずだろう?」

 カッと頭に血が上った。なんという侮辱!

「私が、盛りを過ぎた子役だとでも? 失礼な方ね!」

 階段をばたばたと下りる音とローズの声がした。

「ルイス! キャロルも来てくれたことだし、このまま三人で撮影所に行かない? セットの仕上がり具合を見てみたいし」

 ルイスは軽い調子で、「ああ、いいよ」と応えると、ソファから立ち上がった。

「それでは、ドリス、ご機嫌よう。今後はローズの仕事の件で、ちょくちょくお邪魔すると思うので、よろしく」

 なにが、よろしく、だ! ドリスを侮辱するなんて、許せない。

「それじゃあ、姉さん、お仕事に行ってきまあす」

 玄関でローズに入れ替わる形で、シャーロットが入ってきた。ドリスの背に向かって、言い訳がましく口をきく。

「ローズったら、勝手に高校も中退しちゃって。このまま夢が夢で終わらないよう、見守っていかなければ」

「ママがローズに突然、物わかりが良くなって、びっくりよ。あのハンサムな脚本家が、影響しているのかしら」

 シャーロットは否定しなかった。

「案外と、お似合いよ、あの二人」

 ドリスはわざと、拗ねてみた。

「どうせ、私なんかより、ローズのほうが未来が輝いて見えるのよね。そりゃあそうよ、今はゼロなんだもの、一か二ぐらいには、なれるでしょっ!」

「そうね。ドリス、あなたはママの誇りよ。世界じゅうの家族が、あなたを欲しがっている。自信を持って、今回の映画も頑張ってね」

 世界じゅうの家族が、ドリスを欲しがる……。さすがのドリスも、そろそろそんな悠長な考えでいてはいけないと気づいていた。

 子役から大人への脱皮。この難しい関門を、どうやって打破するか。頭の痛い時期に、ローズが神経を逆撫でしてきた。

 ――ふん。見事に転ければいいんだわ。女優の世界は、そんなに甘くないわよ。

 高校を辞め、正式にMGMの映画女優になってから、ローズはあえて、朝食の時間を家族と共にするようになった。

 これまでは、朝食を食べる時間も、母はドリスに合わせていた。ローズは学校へ行くだけだったから、食事を一緒に摂るのも稀だったが、父のトマスは大人しく、テーブルに着いていた。

 ステージ・ママだった母より、ローズは父に懐いていた。

 ――もうパパに、これ以上、惨めな思いはさせない。

 今までは、なんといっても稼ぎ頭はドリスだった。父の給料など、ドリスに比べたら、ないにも等しい。

 これから先は違う。これ以上は、ドリスに大きな顔をさせない。

 家族四人が食卓を囲むと、一種、異様な雰囲気となった。白々しい家族ごっこ。ローズは自分の興奮する声を、自分の耳で感じていた。

「昨日はね、実験的な照明を当てて、撮影したの。だけど、全て今日、撮り直しになっちゃったの」

 母も、ローズの現場には関心を抱いているらしい。

「まあ、どうして?」

「夕焼けの情景を撮影したんだけど、フィルムを見返すと、色が濃すぎて、不自然だったのよ」

 母は嬉しそうに頷いた。

「撮り直しは、大変よね。前回と同じモチベーションでいなきゃならないし。でも、よくあることよ。慣れていくのね」

「うん! そうする」

 ドリスが、バターナイフを乱暴にバターの塊に刺した。

「馬っ鹿みたい。昔から仲が良かった振りをして。ママがローズにこんなにも関心を示すとは、思わなかったわ」

 ドリスのやっかみも、想定範囲内だ。ローズは、ニッと口の端を上げた。

「そうよね。今までは姉さんだけのものだったものね。でも、忘れているかもしれないけど、私の母親でもあるのよ」

 食卓で母の取り合いなんて、初めてだった。これまで母はずっと、ドリスと共にスタジオに足を運んでいた。

 ドリスが子供の頃は、それでもよかった。だが、やがてドリスが成長し、付き添いに母が従いているのも、みっともなく感じた様子だ。

 おかげでドリスは、クリスという無能なマネージャーを雇う羽目になった。でも、どんなに有能なマネージャーでも、実の母より気配りが利いて、安心できる存在など、いないだろう。

「ママ、パンをもう一枚、焼いて。一枚だけじゃ、お腹が空いちゃうわ」

 ちらりと、ドリスを見やる。

 ドリスはいつも、パン半分で、バターは一かけだった。ドリスは十三歳頃から、体重を気にするようになっていた。思春期の当たり前な成長も、子役上がりの女優には敵だった。

 その点、ローズは食事を気にする必要は一切なかった。代謝がいいせいか、太る心配をした経験がない。

「バターも、たーっぷりつけてね。今日は夜まで撮影なの。力をつけなくちゃ」

「はいはい」

 母も、眉尻を下げ、トーストしたパンにたっぷりのバターを塗ってくれた。ドリスが堪らない、といった様子で、声を上げた。

「もうちょっと、静かに食事できない? 朝からキンキン声を聞かされて、頭痛を起こしちゃうわ」

 ローズは目を開き、ドリスを見た。

「あーら、ごめんなさい。でも、私が元気過ぎるわけじゃないわ。姉さんが元気なさ過ぎるのよ。きっと撮影所に行くのが憂鬱なのね」

「憂鬱? なんで憂鬱になる必要があるのよ!」

 ローズは、したり顔で、うんうんと勝手に頷いた。

「わかるわぁ。楽しい環境じゃないものね。共演者は皆、二流だし、絶対に転けるとわかっている映画を作るのは、しんどい作業よね」

「なんですって?」

 ローズは素早く立ち上がり、コップの牛乳を一気に喉の奥に流し込んだ。

「ごちそうさま!」

「待ちなさいよ!」

 そこへチャイムの音がした。通いの手伝いはいるが、まだ朝早く、現れていなかった。父が静かに立ち上がり、玄関へと向かった。

 しばらくして、穏やかで優しい声が聞こえてきた。キャロルの声だった。

「お邪魔します。これからは朝、私が迎えに来る役目になりました」

「さあ、どうぞ、ごゆっくり。僕は出かけますんで」

 父は、そのまま、二階へと姿を消した。ローズは重たいものを呑み込んだ思いになった。父を励ましたい気持ちもあって、元気に振る舞っていたのに。

 ローズがドリスに成り代わっただけで、家の空気は、なにも変わらない。

 ――いいえ、これから変えていけばいいのよ。まだ、始まったばかりだもの。

 気を取り直し、ローズは右手を振り、キャロルに声を掛けた。

「おはよう、キャロル。出かけるまで、何分ある?」

「そうね。あと三十分で出かけましょう。渋滞していると、いけないから」

「はぁい」

 やっぱりキャロルは有能だ。ローズが先に手を付けなければ、今頃、ドリスのものになっていた。一日でも遅ければ、立場は逆転していた。ほんと、危ないところだった。

 ドリスが拳でテーブルを叩いた。

「クリスは、いつになったら、迎えに来るのよ! ほんと、無能なんだから!」

 キャロルが申し訳なさそうな顔で、ドリスを見た。

「きっと、そちらのスケジュールは、もっと余裕があるのよ。こちらは、ローズも新人だし、脚本家のルイスも、まだ実績がないわ。一番でスタジオに行くぐらいの心がけでいなきゃならないのよ」

「ローズはきっと、良い子ちゃんなんでしょうね」

「ええ、とっても良い子。キャストやスタッフからも慕われているわ」

 自分の評判を、他人の口から聞くのは、いい気分だ。皆が、ローズを慕っている。本当だとしたら、こんな嬉しい話はない。

 新人にして、大役を担っている。出しゃばりと思われたり、純粋に嫉妬されたりはしているだろうが、ローズは気にしない。

 ドリスは、わざとらしく、キャロルに対して拗ねていた。

「ローズと一緒に仕事ができて、本当に良かったわね、キャロル。私みたいな難しい性格の子のマネージャーじゃなくて、正解だったわよ」

 キャロルは悲しそうに、眉尻を下げた。

「そんなこと言わないで、ドリス。あなたは大スターなのよ。ローズは、まだ駆け出し。この差は、大きいわ」

 ローズは愉快な思いで、キャロルに相槌を打った。

「そうそう。私は、これからの女優なの。姉さんは、大スターというより、盛りが過ぎたおばあちゃんだけどね」

 不意にドリスが立ち上がり、大声を上げた。

「今日は私、スタジオに行かない! クリスが来たら、そう言っておいて」

 母シャーロットが、驚いた顔で、ドリスを見上げた。

「行かないって……。どうするつもりなの?」

 ドリスは髪を掻き上げ、いつものお得意の優越感たっぷりの顔をしてみせる。

「クロードのアパートまで行ってくるわ。気分が乗ったら、スタジオにも行くかもしれないけれど」

 クロード・ヒギンズは二十五歳の若手俳優で、何度かドリスの恋人役を務めていた。

 いつの間にか、役柄が実際の生活と重なったようで、二人が仲良く出歩く姿が、新聞や雑誌を賑わしていた。

 この男、非常に誠実な人柄らしく、ドリスを大事に扱っている様子だった。自分が商品であるのと同様に、ドリスも映画会社の商品であると、強く自覚しているらしかった。

 ドリスはしょっちゅう、クロードのアパートに出かけていたが、母は心配していなかった。

「クロードは分別ある大人の男性ですもの。ドリスに手をつけたら、どういう顛末になるか、きちんとわかっているはずよ」

 少なくとも、ローズの相手のルイスよりは地位が高く、人気もある俳優だ。

 いつの間にか、ローズとドリスは持ち物の高級感を勝負していた。

 マネージャーの格はローズが上だ。せめて、恋人の格だけでも、ローズより優位に立ちたいのだろう。

 ――ふん、優位に立っていられるのも今のうちよ。こちらの映画が成功したら、ルイスは時代の寵児になるわ。

 ルイスは、きっと大物になる。それには、まず、ローズが大スターになる必要がある。もちろん、自信はあった。

 ドリスが玄関ドアを開ける音がした。間の悪いことに、クリスが到着したらしい。

「ドリス、迎えに来ました。あれぇ? どこへ行くの?」

「クロードのところよ! 私の恋人なの!」

 クリスの哀れな声がする。

「待って! 待ってくれ、ドリス! 君を連れていかなかったら、僕は困るんだよー!」

 やれやれ。ここまで馬鹿にされたら、クリスも黙っていないだろう。何より、男の沽券に関わる。

 一人、また一人と、ドリスの周りから協力者が消えていく。

 ふと思う。クロードがドリスを裏切ったら、どれだけ辛い思いをするだろうか、と――。

「へえ、噂には聞いていたけど、あの二人の仲は本当だったのか」

 スタジオに入り、控え室で髪を整えてもらいながら、ルイスとの会話を楽しむ。適度に真面目で、適度に羽目を外すルイスの性格は、見ていて心地よいものだった。

 何より信頼できる男だ。ドリスもクロードを信頼しているようだが、ルイスほど、確固たる信念があるかどうか。

 ハリウッドで一流になり、馬鹿にしている家族を見返す。ルイスとローズは、最初から実に気の合う間柄だった。

「妊娠でもしちゃえば、面白い展開になるのにねー」

 ルイスは呆れた様子でローズを見ると、小さく息を吐いた。

「そうなったら、結婚、引退の道かな。僕としては、避けて欲しい道だけれどね」

「あら、なぜ?」

 ルイスは飲みかけのコーラを一気に飲み干した。

「君のモチベーションが下がる」

 ローズは、なるほど、と口の端を下げた。言われてみれば、もっともだ。

「MGMとしては、姉さんは、どんな存在なのかしら? 妊娠、出産の計算をごまかしてやるほどの、重要な女優ではないと思うのだけれど」

「子役として、ならね。でも、もう充分に大人だ。君の目から見れば、どう映るかわからないが、二十歳過ぎの女性の役もできるし、高校生の役もやれる。なかなかに重宝な存在だよ」

「私は姉さんと、一歳違いよ。私も、重宝な存在?」

 褒められると思いきや、ぽんと頭を叩かれた。

「君は、実績がない。ドリスと肩を並べたいと思うなら、今の仕事に集中しろ。ドリスを追い落とす計画は、この映画が成功してから、動き出す」

 ローズは自信満々の思いで、胸を叩いた。

「任せてよ。あなたを失望させたりなんか、絶対にしない。もともと、女優としての素地は、姉さんより私のほうがあるのよ。それが、たかが一年半早く生まれたからって、ママの愛情を独り占めして、名子役だなんて、ちやほやされていたんだから」

 ルイスは満足げに、青い目を細めた。この男、背はそれほど高くはないが、容貌はそこら辺の俳優より、よほど美麗だ。

 観客はきっと、ハンサムな脚本家として、ルイスを認識するだろう。そんな時代の寵児のミューズ(女神)として、恥ずかしくない振る舞いをしなければ。

 そもそもローズは、時折、奔放に過ぎた。有名人ではなかったからこそ、明るみに出なかった問題だって多々あった。

 これから先は、違う。ルイスを失望させたくない。不良娘はもう卒業だ。

 キャロルがヘアメイクを終え、ローズに手鏡を渡した。

「こんな感じで、いかがかしら? マスカラを、いつもより濃くしてみたの。今日の撮影は、光と影が重要だから、アップになったとき、きっと映えると思うのよ」

 さすが、キャロルはプロ中のプロだ。カメラにどう映り込むかを計算して、メイクを行ってくれる。

 そこに、ルイスの小さな入れ知恵が入る。

「クローズアップの時は、この目薬をさすといい。瞳が潤んで、フォーカスなしでも、魅惑的な表情になる。少し痛むが、我慢できるな?」

「わかったわ」

 ローズは目薬を、そっと衣装のポケットに入れた。

 大きな鏡に、全身像を映してみる。ブロンドの巻き毛が肩口で揺れて、それは魅力的な女優のできあがりになっていた。

「口紅は、いつも赤じゃないのね」

 キャロルが控えめに微笑んだ。

「モノクロ映画では、赤は真っ黒に映るわ。娘役としてデビューするからには、清楚な雰囲気が必要よ」

 清楚だろうが、毒婦だろうが、娘だろうが、子持ちの女だろうが、何だって演じてやる!

 ドリスは七歳からのスタートだった。ローズは十六歳まで待った。十六歳ならではの、強みを生かさなければ。

 少なくとも、子役に求められがちの、ただ愛らしい美少女でなくていい。むしろ、放っておくと何をするかわからない、といった危なっかしさを出してみたい。

 その点は、ルイスとも意見が合っていた。今回の脚本でも、思春期の少女の脆さと大胆さが、よく出ていた。

 主演のクローデット・コルベールは、オスカー女優だ。クローデットを引き立てつつ、存在感も醸し出す。ルイスの脚本なら、絶対に満足のいく仕上がりになる。

 キャロルがコーヒーを淹れてくれた。

「口紅は、あとでまた塗り直すから、一服してちょうだい。今日の撮影は、なかなかハードなものになりそうだから」

 ヘアメイクを全て任せられ、尚且つ、マネージャー業も気配りが効いている。ローズは感謝の思いで、コーヒー・カップを手に取った。

「ありがとう、キャロル。私、絶対に成功してみせるわ」

「頑張って。応援しています」

 ルイスが、すっと立ち上がった。

「そろそろ行こうか」

 ローズは「はい」と応えると、ルイスの腕に手を回した。二人は既にいい仲だ、と、周囲に見せつけるのも、今回の作戦の一つだった。

 実際、軽く触れ合う程度のキスしか経験していない。ルイスはそのキス一つで、ローズを何でも体験済みの背伸びした少女に仕上げてしまった。

 ルイスが掛けてくれた魔法は、簡単には解けない。

「ねえ、ルイス。皆が見ている前で、一度、私にキスしてくれない?」

 この有能な若者を、独り占めしている感覚を、よりいっそう味わえそうな気がする。

「駄目だ」

 信じられない思いに、目を開く。

「なんで? 私が嫌い?」

 ルイスは薄青い瞳で、じっとローズを見詰めた。

「いいか、ローズ。僕たちは、友人でも恋人でもない。共犯者だ。甘ったるい思いは捨てろ」

 甘ったるい思い……今、ドリスがクロードの側で、味わっているもの。

 ルイスとは、このまま、恋人にはなれない気がする。本物の愛を知っているという点では、既に勝負は、ドリスにあった。

 ――気にしない、気にしない。私だって、真の愛を得られるわよ。

 そのときの相手がルイスなのか、他の男なのかは、まだまったくわからずにいたが。

 ドリスは決して、自分が仕事に対して不誠実だとは考えなかった。たとえ二流の俳優に囲まれた、ドリスの人気頼みの映画だったとしても。

 特に今回は、ローズの映画とほぼ同時進行していた。絶対に負けられない。

 六月、クランクアップした映画は揃って、一九四六年八月公開となった。MGMはここで、姉妹の競争意欲を煽り建てた。

 ドリス・ハート主演の『夢咲く街』とローズの『白夜』は、同じ日に公開スタートとなった。

 まず、ローズの芸名は、ローズ・ハートではなく、ローズ・ヘスターとなった。

 あのハンサムな脚本家の入れ知恵に決まっている。同じハート姓だと、いつまでもローズはドリスの二番煎じの扱いを受け続けただろう。

 ルイスは、本格的にローズの売り出しを開始した。

「あの〝白い薔薇〟ドリス・ハートの妹、ローズ・ヘスターの斬新なデビュー作! 『白夜』は無防備な若者の熱と狂気を伝える、MGMの野心作!」

 都合のいいところだけ、ドリスはとことん利用されていた。宣伝文句には、「ドリスを凌駕する才能」だの「醜いアヒルの子は、白鳥になってデビューした」などと、まるでドリスよりローズが才能ある人物だと断定した扱いだ。

 ある日、ドリスとローズは揃って、MGMに呼ばれた。だだっぴろい会議室の中には、ドリス、ローズ、マネージャーのクリスとキャロルがいた。

 ドリスはムカムカする思いのまま、クリスに命令した。

「空気が悪いわ。クリス、窓を開けて」

「あれえ? 今日は気持ちのいい気候ですよ? 昨日は暑かったですけどねえ」

 ローズがニヤリと笑った。

「姉さんは、私がいるせいで、空気が淀んでいるような気がしているのよ。可哀想だから、開けてあげて。酸素が逃げていくわけじゃなし」

 そこへ、宣伝部のロバート・ゴードンが入ってきた。

「どうも、お待たせしました。ドリス、ローズ。どちらの映画も、前評判はとてもいいですよ」

 ドリスは胸を張り、脚を組んだ。

「今日はどういった用向きなんです? やっと撮影が終わって、のんびりしていたのに、呼び出されるから、何事かと思っちゃうわ」

 ローズが目を開き、ドリスを見た。

「あら、姉さんはクランクアップのあと、映画の宣伝に何の協力もしてこなかったの? 子役はいいわね。なんでも大人任せにできて」

「そんなんじゃないわよ!」

 ロバートが二人を宥める格好になった。

「まあまあ。お二人はお互いに、もっともっと言いたいことがあるんじゃないかな?」

 ドリスは警戒して、顎を引いた。

「どういう意味です?」

「『フォトプレイ』誌が、お二人の対談を企画しているんですよ。皆、興味津々なんですよ。スター候補生が二人、同じ家に住んでいる。二人は普段、どんな話をしているのか、お互いの成功について、どう考えているのか」

 ノックの音がして、三十過ぎの背の高い女が現れた。

「初めまして。『フォトプレイ』誌のアリス・タッカーと申します」

 ローズが歪に、口の端を上げた。

「そりゃあ、姉は、むかついていると思います。私には永遠に、姉を嫉妬する一般観衆でいて欲しかったでしょうから」

 ドリスは慌てて、爽やかな笑顔を作った。

「そんなことないわ。妹の成功は、自分のことのように嬉しいわ。もしも、万が一成功したら、の話だけれど」

 アリスがすかさず、ポケットから手帳を取り出した。

「成功したら? つまり、ローズの映画は上手くいかないかもしれない、と考えているのね?」

「いえいえ、心配なだけです。妹はいろいろ、不器用だから。いつ、ヘマをするか、わからなくて、見ていて、はらはらします」

「今、カメラマンが機材を揃えて、こちらに向かっているの。お二人の仲の良い姿を写真に収めさせてください」

 すると、ローズが音を立てて、椅子から立ち上がった。

「なにも話すことはありません。仲良くもできません」

 アリスは、ぽかんとして、ローズを見た。

「でも、お互いの映画の宣伝になるわ。一石二鳥だと思うわよ。愛する姉と共に成功するのは、あなたの夢でしょう?」

 ローズは鋭い目をして、アリスを睨んだ。

「いいえ、そんな夢、持っていないわ。姉と今更、語り合う問題もありません。私はずっと、姉に虐げられていたんですもの」

 ――余計な話、しないでよ! 全部、そのまま記事にされちゃうじゃないの!

「まあ! それは本当の話なの?」

「ええ、本当です。全部すっかり書いても、構いませんよ。私は仲良く姉さんと対談なんて、できません。私たちほど仲の悪い姉妹も少ないと思いますわ」

 ローズはそのまま、急ぎ足で会議室を出てしまった。入れ違いに、カメラマンが機材を抱えて入ってきた。

「あれ? ローズは?」

 アリスが首を振りながら、掌を上にした。

「お姉さんとは仲が悪いから、話をしたくないんですって。どうしましょう」

 口では困った振りをしているものの、内心は、しめた、と思っているだろう。今、話題の姉妹は仲が悪い。この事実を、他社に先んじて掴んだのだから。

 結局その場は、ドリス単独の取材と、写真撮影になった。ドリスは平静を保つのに、随分と苦労をした。

 ここで一人、妹と仲が良い振りをしても、どこか他でローズが不仲を訴えるだろう。そうなると、ドリスはピエロだ。馬鹿を見たくはない。

 ――ローズ、覚えていなさいよ! この借りは、すぐに二倍にして返すからね!

10

『フォトプレイ』誌はドリスの話の他、ローズの周辺を取材して、単独の記事にした。もちろん、会議室で言い放った言葉は、見出しを飾った。

 ――「私はずっと、姉に虐げられていたんですもの」

 この言葉に、マスコミは色めき立った。ドリスとローズは不仲――こんな美味しい話題の種はない。

「ドリスはずっと、妹を虐めてきたんだってさ」

「聖女の振りをしているけれど、本当は性格が悪いのか」

「ローズ、可哀想! 私は絶対にローズを応援するわ!」

 当然、ドリスの言い分を聞きたいと取材を申し込むマスコミが現れた。

 言われてばかりも、癪だ。一人で静かに無視を決め込んでいると、話が膨らみ、横道に逸れていくだろう。

 ドリスは『ヴァラエティ』誌の取材に、こう応えた。

「妹は、非常に難しい性格です。友達も、ほとんどいません。でも、私は妹を愛しています。妹がなにを言おうと、この気持ちは変わりません」

「ローズから、姉さんなんて大嫌いだ、と言われたとしても?」

 ドリスはわざと瞳を潤わせ、インタビュアーの目をじっと見た。

「愛されてなくても、私は愛したい」

 自分でも、白い薔薇の呼称に相応しい言葉だと思った。愛されているから、愛するのではない。恨まれても、蔑まれても、愛おしいから、愛するのだ。

『ヴァラエティ』誌は、ドリスのインタビューを大きな扱いで掲載した。

 この言葉で、ドリスはずいぶんと盛り返した。意地悪な気持ちが一切ないドリスに、白い薔薇の呼称はぴったりだ、と。

 当初パッとしなかった、ドリスの『夢咲く街』も、興行成績がだいぶ伸びた。夏に次々に公開される映画の中で、『夢咲く街』と『白夜』は突出していた。

 MGMも、とんだ大ヒットになり、笑いが止まらないらしい。ドリスとローズの姉妹が不仲なほど、映画はヒットする。

 ローズとドリスそれぞれに、あちこちでインタビューを受けさせ、二人の不仲を強調した。

 ドリスは、白い薔薇のイメージを崩せない辛さがあった。ローズの悪口を言えば、それみたことかと叩かれそうだった。

 今の間は、奔放な妹に振り回される、気の毒な姉、といった役を演じなければ。

 やがて、評論家たちが、要らぬお節介を始めた。ドリスが〝白い薔薇〟なら、ローズは何だろう?

 さまざまな薔薇の色が候補に挙がった。紅い薔薇では、ただ情熱的なだけ。黄色い薔薇では、白に対抗できない。

 何か、こう、蓮っ葉な魅力を放つローズに相応しい呼称は、ないものか。

 ――ふん、白髪のドブネズミが相応しいわよ!

 母がお手伝いのサマンサと一緒に、朝食の用意をしながら、浮き浮きした声を出した。

「ローズは名前自体が、薔薇だから、薔薇の呼称はぴったりね。どんな色の薔薇になるのかしら」

 ダイニングには、ドリスしかいなかった。かりかりに焼かれたベーコンの切れ端を突きながら、ドリスはぼやいた。

「赤でも黄色でも、何の薔薇でもいいわよ。薔薇の時点で、私の二番煎じなんだから」

「そんなこと、言うもんじゃないわよ。特に、人に聴かれる場所では、発言に気をつけなさい」

 ドリスは堪らず、テーブルを叩いた。

「ローズは好き勝手を言ってるのに! 私一人だけ、良い子ちゃんでいなきゃならないなんて、不公平だわ!」

 母が悲しそうに、眉根を下げた。

「私が悪かったのよ。ローズはいつも、独りぼっちだった。私は、あなたのことばかり気にかけて、ローズを充分に愛してやれなかった」

 そこへ、玄関から新聞を取ってきた父がやって来た。

「ローズの呼び名は、〝青い薔薇〟に決まったようだよ」

 ドリスは驚いて、目を開いた。

「青い薔薇? まだ実際に存在しない薔薇じゃないのよ!」

 父は嬉しそうに、表情を崩した。

「そこが、いいらしいんだ。永遠に叶わぬ夢、だそうだ。ハリー・カーンが知恵を絞ったようだよ」

 ハリー・カーンといえば、この時期のゴシップ・コラムを書いたら右に出る者はいなかった。新聞には、ローズが華やかに笑う顔の横に、〝青い薔薇、ローズ・ヘスター〟と記されていた。

「ローズは〝青い薔薇〟だ。どんなに求めても叶わない夢。永遠に人々は、〝青い薔薇〟ローズを追い求めるだろう」

11

 ドリスのムカムカの捌け口は、クリスとクロードしかなかった。

 クリスとは顔を合わせれば、文句を言ったり怒鳴ったりばかりしていた。よくこれで辞めないものだと、最近は、ちょっと驚いている。

 クロードは大人の男の懐の深さを見せ、ドリスを慰めてくれた。

「確かに、ローズちゃんにも問題はあるよ。家族内の確執を公の場で話してしまったからね」

 クロードのアパートは、三部屋あり、一つ一つの部屋が広かった。ドリスが転がりこめば、その日から充分に暮らしていける。

 でも、ドリスはまだ十七歳。夢も野望もある。新進俳優の身の回りの世話をする若奥さまの立場には、まだなりたくはない。

 クロードはインディアンの文化に興味を持っており、豪華な羽根飾りや、鮮やかなタペストリーが部屋を飾っていた。

 リビングルームの豪華な茶のソファで、じゃれ合うのがせいぜいだった。

「それだけじゃないわ! 私を敵視しているのよ! 映画の公開まで私とダブらせるなんて、なんて阿漕なのかしら」

「今回はどちらも大ヒットになった。よかったじゃないか。正直なところ、ローズが話題を振り撒かなければ、『夢咲く街』も、どうなっていたかわからないぞ」

 確かにクロードの言う通りだ。本来なら、こんなに大ヒットする企画ではない。でも、だからといって、ローズに感謝する筋合いは微塵もない。

「後ろに従いているルイスって男が、これまた、すごーく性格悪いの。今回の喧嘩腰の宣伝も、すべてルイスが考えたもののはずだわ。まったく、なにが青い薔薇よ! インクを吸った偽物の薔薇のくせに!」

 クロードは指をドリスの前髪に這わせた。

「ドリス、何度も言っているだろう。君は、演じるだけでいいんだ。余計な問題を考え過ぎると、演技に影響をきたす」

 ドリスはクロードの背中に手を回し、ぎゅーっと抱きしめた。

「子供の頃は楽しかったわ。皆、私に気を遣ってくれたし、のびのびと演技ができた。あなたとも、出会えたし」

 クロードの手が、ドリスの髪を撫でた。

「そうだな。君が映画女優でなかったら、僕らは出会えなかった」

「ねえ、クロード。次に撮る映画は決まっているの?」

 もしキャストが決まり切っていないのなら、クロードと共演したかった。ローズはルイスと良い仲な様を、これでもかと見せつけている。こっちも負けていられない。

「ジャン・マーロン監督の西部劇だ」

「酒場で働く、けなげな恋人なんて役柄、ないかしら?」

 クロードは面白そうに笑った。

「そんな役でいいのかい。男の映画だから、出番はあまりないぞ」

 それは困る。次回は今度こそ、主役になりたい。今の興行成績だったら、主役以外をやりたくないとごねても、会社は折れてくれるだろう。

「わかったわ。クロード、今回は私、あなたがその映画を撮りおわるまで待つわ。その代わり次の私の主演作で、相手役になって。スクリーンの外の問題が、これだけ映画興行に影響するってわかったんだもの。私たち、絶対に共演すべきよ」

 クロードは、ドリスにぞっこん参っている。これだけは確実だ。だからこそ、安易に手を触れたりしない。でもじきに、二人は一緒の道を歩き始めるだろう。ゴールデン・カップルの誕生だ。

「そうだね。僕も君と共演したいよ。一緒にいる時間が今よりずっと増えるからね。約束しよう、次の映画はドリスと共演したいと、会社側に進言しておく」

「嬉しいぃ! きっとよ!」

 ご褒美とばかりに、頬に、唇にキスをする。クロードが男の衝動を懸命に抑えているだろうとは想像したが、構わなかった。

 むしろ今は、男の体に興味が湧いていた。理由は、ローズがルイス相手に、そういった行為を経験済みだと感じたからだ。

 男の味見をしたくらいで、突然、結婚するなんて展開には九分九厘ならないだろうし。

 ドリスはどんな小さな問題でも、ローズに勝ちたかった。それはローズも同じはずだった。


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