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冷えた体をさすりながら私はテレビを付けた。
隣人を疑っているわけではないが、話が本当ならニュースになっているはずだ。
ソファーに腰を降ろし、リモコンを握りしめる。
何本も煙草を吸ったせいで喉が渇いて仕方がない。
「お前さあ、引っ越しのとき隣に挨拶行ったんだよな」
風呂上がりのビールを飲んでいる妻に尋ねた。
結局、隔て板の向こうの隣人の顔は見えなかった。今になってどんな人だったのか顔を見れなかったのが悔やまれる。さっきは話を聞くのに夢中で、そんなことを考える暇もなかった。
「もちろん行ったわよ。隣だけじゃなくてこの階の部屋には全部。今更どうしてそんなこと聞くの」
「いや、ちょっと隣の人と話してさ」
内容は詳しく説明しなかった。今は上手く話せる気がしない。自分の中で咀嚼する時間が欲しい。
「隣の人って?」
私はテレビを見ながらリモコンでさっき話し込んでいた隣人の部屋の方を指した。
「はぁ?」
妻が素っ頓狂な声を上げる。
「あなた何言ってるの。もしかして酔ってる?」
今夜はまだ呑んでいない。一服してから晩酌しようと思っていたが、件の隣人だ。
妻の方こそなにを言っているのだろう。別におかしな話をしたつもりはないのだが。同じマンションの人間と会話したという至って普通の話だ。
「酔ってなんかないよ。だから隣の人と一緒に煙草を吸ってたんだ。隣もご多分にもれずホタル族みたいだよ」
「隣ってこっちじゃなくてあっちの隣じゃないの」
私がリモコンで指した方と反対の部屋を妻が指さす。隣人の部屋とは逆側の隣の部屋だ。
「違うって。こっちだよ」
「おかしいわよ。だって――」
隣は空き部屋よ――。
なんだって?
「まさか。そんなはずはないよ」
「本当よ。挨拶に行った私が言うんだから。隣の坂本さんの御主人は煙草吸わないはずだし。反対の部屋は越して来たときからずっと空き部屋よ」
じゃあさっきまで話をしていた男は誰なんだ。
私は混乱した。
「酔ってるのかと思ったわ。あんまり長いこと外にいるからなにしてるんだろうと思ったら、なんだかひとりでぶつぶつ言ってるし」
風邪引かないでよねとスリッパの音を立てながら、奥の洗面所へと姿を消した。
ひとりでぶつぶつ言っていただって?
私は確かにバルコニーで隣人と話をしていたはずだ。
一緒に煙草を吸いながら――。
煙草。
私は話を聞きながら七本も煙草を吸った。決してチェーンスモーカーではないのだが、あんな話を聞くには煙草でも吸いながらでないと間が持たなかった。気付けば次から次に火をつけていたのだ。
隣人はどうだった。
隔て板越しに話をしていたから彼の腕しか見えていない。彼の持っている煙草からは煙が出ていたはずだ。あれは幻覚なんかではない。確実に私は煙を見た。
細く立ち上がる紫煙を。
いや。
よく考えてみろ。
隣人が煙草を揉み消すのを見たか。
ライターの発火石が擦れる音を聞いたか。
そもそも隣人が吐いた煙を見たのか。
今思えば、隣人の煙草から出る煙は途絶えることがなかったように思う。
火が紙と煙草の葉を燃やしていくのだから、いつかは手から離さなければならない。永遠に燃え続ける煙草などあるはずないのだ。
まさか本当にあれは幻覚だったのか。
そのとき、テレビからニュースが聞こえてきた。
今夜午後九時ごろ、S市内の公園で発砲事件が起きました。撃たれたのは会社員白戸晃さん三十五歳。頭や足を撃たれ市内の病院に搬送されましたが、死亡が確認されました。
近くには身元不明の別の男性が倒れており、遺書の様なものを持っていたことから白戸さんを撃った後、自殺を試みたのではないかと思われています。警察はこの男性の身元を調べると共に、拳銃の入手経路と白戸さんとの関係を捜査中であるとのことです。
では、次のニュースです――。
なんてことだ。
私はリモコンを投げ捨て、バルコニーへと急いだ。
外はさっきより寒く感じた。
私はバルコニーの手すりに体を預け、バルコニー越しに隣室を覗きこんだ。数分前は邪魔していた隔て板だが、今度は遠慮をしない。
隣のバルコニーには、さっきまでいたはずの隣人の気配は全く感じない。煙草の吸殻や灰皿も見当たらなかった。それどころか、部屋は真っ暗でカーテンすら掛っていない。僅かな月明かりで照らされた薄暗い部屋には、人が住んでいる様子は微塵も感じられなかった。
妻の言う通り空室だ。
ガラス戸も綺麗だし、室内もモデルルームのようにガランとしている。
目の前の光景が信じられなかった。
さっきまでここに煙草を吸っていた――いや、煙草を持っていたあの男は。
彼の話を聞きながら。
彼の煙草の煙を眺めながら。
夢ではない。
夢ではない証拠に私がついさっき吸ったばかりの吸殻が灰皿の中に積っている。灰の塊も風に吹かれないまま落ちていた。
ニュース通り自殺したのなら、さっきのあの隣人は――。
不思議と恐怖はなかった。
私が話していた隣人がすでに死んでいたのだと理解しても、恐ろしさは感じなかった。
それよりも彼の被った不幸、娘を襲った不幸を死んでしまった後も誰かに知って欲しかった隣人の想いを考えると、気の毒にすら思える。
死後の世界があるのだとすれば、隣人はそこへ旅立つ前に誰かに聞いて欲しかったのだろうか。
それが私だったのだ。
偶然、煙草を吸いにバルコニーに出た私だったのだ。
最後の一服は旨かっただろうか。
私は彼の住んでいた家に建ったマンションの上からいつもの夜景を眺めた。
もう他人ではない。
わずかな時間だけでも、彼は隣人だったのだ。
今度時間を作って花を手向けに行こうと思う。
隣人の家族が亡くなったあの場所へ。