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「今なんと?」
部屋に戻りかけていた私は、隔て板の向こうに見える隣人の煙草の煙へ訊いた。
「見つかったんですよ。犯人が。有能な探偵さんが見つけてくれました」
「まさか。警察が見つけられなかった奴を探偵ごときが見つけるなんて信じられない」
「私も信じられませんでしたよ。成功報酬欲しさに適当な人間を犯人に仕立てたんだろうとね。だが、話を聞いていけば、すべての線が彼を犯人へと繋いだんです」
信じられない。そんなことができるのだろうか。探偵とはいえ素人だ。漫画や小説のように「犯人はあなただ」なんて上手くいくはずがない。
隣人同様、私も探偵に担がれているような気がした。
「犯人は現在三十五歳。当時は二十歳という計算ですね。彼はこの町の工事関係者だった。どこぞの業者にアルバイトとして雇われていたんです。あの日の夜、彼は現場事務所に忘れ物をしたらしい。監督に事務所の鍵を借りて、それを取りに行った。忘れ物を取ったらそのまますぐに帰ればよかったものを――」
運ですねぇと隣人はため息をついた。
「彼が忘れ物をしなければ。監督が無責任にアルバイトに鍵を渡さなければ。娘が彼に姿を見られなければ――」
「そんなことまで探偵が?」
「彼は事件のあと三日でアルバイトを辞めている。当時はいくつもの土木建築業者が入り乱れていました。日雇いもいれば他県からの出稼ぎもいた。警察も業者もはっきりとした人数を把握はできなかったんでしょう。捜査から漏れた人間の中に犯人もいた。これも運です」
警察がどこまで捜査したのか私には分からない。犯人は運良く捜査網から漏れ、十五年も逃げ遂せていたのか。その間、被害者遺族である隣人たちの生活は変わり果ててしまったのだ。不幸が不幸を呼び、絶望のまま隣人はこれまで孤独に生きてきたのだろう。
「犯人だという確証はあるんですか」
あの日の夜、あの場所にいたというだけでは犯人だとは言い難い。決定的ななにかが欲しいはずだ。
「探偵の一人が接触したらしいんですよ。そして付き合いを深めていった。そこで酒の席でぽろりと」
レイプってのは興奮する。
昔一度だけしたことがあるが、最高だった。
二十歳の雨の夜。
女子高生を――。
なんてことだ。
「警察へは? すぐに知らせないと」
隣人は笑った。
「まさか。私は十五年待った。待ち続けた。毎日毎日、娘のことだけを考え生きてきた。妻を亡くし、息子とも縁を切り、世間から身を隠すようにしてね。今更犯人を法の裁きにかけるほど忍耐は残っちゃあいない」
「本気で――殺そうと?」
私の鼓動が速くなった、落ち着かせるために六本目の煙草を咥えた。
やはり止めるべきなのだろう。何の縁か隣人となった以上、放ってはおけない。殺人犯となって、さらに人生を不幸にすることもない。
いや、隣人にとっては殺すことこそが幸福なのか――」
「やっと解放されたんです。私は」
「殺す――復讐することで、ですか」
隣人の煙草の煙が細く揺れた。
笑っている?
「復讐は終わりました」
今なんと言った?
「彼の運も十五年で尽きたということです」
笑っている。
隔て板越しからも隣人が笑っているのが分かる。
隣人は今、幸福なのだ。
「殺した――と?」
「ええ。人間というものはあっさりと死ぬものですね。娘もあんな風に死んだんでしょう」
私は無言で煙草をひと吸いした。
「覚えているかと聞いたら、みるみるうちに顔が青くなっていきましたよ。銃を見せたら小便漏らして懇願してきました。『殺さないでくれ。家族もいるんだ』と。身勝手な話だ。十五年前に自分がしたことをなにも分かっていない。まず右足を撃ちました。初めて銃を使いましたが、上手いこと当たった。才能があるんでしょうなあ」
隣人はおどける。
まさか銃まで手に入れるとは。恐ろしまでの執念だ。
「痛みで転げ回ってましたよ。許してくれ助けてくれと見苦しいまでに命乞いしていました」
聞くに堪えませんでしたと隣人は言う。
最初の穏やかな口調は姿を消し、恐ろしい復讐の鬼となっていた。
「もっと苦しませよう痛がらせようとおもいましたが、我慢できずに――」
眉間を打ち抜いたそうだ。
私は息を呑んだ。
もしその話が本当なら、私のすぐ隣には殺人鬼がいることになる。部屋に戻ることも忘れ、私はその場で固まっていた。
「真っ赤な血がみるみる広がって、血だまりが出来た。彼の顔からは涙やら鼻水やら、汁という汁が溢れていましたよ。この世のものとは思えないほど汚らしかった。彼も運が悪かったですねぇ」
「それで――それであなたの気は晴れましたか。娘さんを殺した犯人を殺せたことで、あなたはスッキリしたのですか」
何とも言えない気分だ。
隣人が人を殺した、復讐を果たしたなどどうでもよくなってきた。
それよりも、なぜそのことを初対面の私に話したのだ。
無関係な私にそのことを話す理由が分からない。知らなければ、私はそのことをニュースで知っただろう。そして、どこか別の世界の話のように受け取っただろう。
詳細を知る必要がないことだ。
こんな複雑な気持ちにさせてなにがしたいというのだ。
「私は全てを失った。この十五年間娘のこと、犯人のことだけを考えて生きてきました。事件のことを考えていたのは私だけ。そして今日、目的を果たせた。気分が晴れない訳がないでしょう」
「娘さんは――はるなさんは浮かばれたんでしょうか」
「きっと喜んでくれてる。自殺した妻もね。他人がどう言おうと、私がそう思っていればいい。それが全てです」
そうですかと私は煙草を吸い、煙をくゆらせた。
これでいいのだろう。私のような他人がとやかくいうことではない。彼が満足できたのなら、きっとそれでいいのだ。
人を殺すということへの覚悟が、十五年の月日によって隣人を強くしたのだろう。
それでいいのだと、私は言い聞かせるようにここの中で反芻した。
「え?」
私は六本目の煙草を吸いながら奇妙な感覚を覚えた。
今、隣人はなんと言った?
人を殺した――。いや、そういうことではないはずだ。
彼の大事な言葉を聞き流したように思う。
そうだ。
彼は今、重要な言葉を口にした。
「ちょ――ちょっと待って下さい」
慌てて煙草の火を消す。
「今、あなたは『今日』と言った。私の聞き間違いではないなら、『今日、目的を果たせた』と」
「ええ。確かに言いました」
「あなたは今日、人をころして来たということですか」
体が熱くなる。
私は勝手に隣人の話を解釈していた。
確かに人を殺しておいて、こんな所でのんびり煙草を吸っているはずがない。犯人の男には家族がいるようだし、人が殺されたのだから当然警察も動くだろう。しかも拳銃という日本では容易に手に入れることができないものが凶器なのだ。マスコミも喜んで飛びつく事件だ。
私はまだそんなニュースを聞いていない。
「誰かに聞いて欲しかったんですよ」
「聞いて欲しかったって――なんで私なんかに」
「この町で――この町ができる前に女の子が殺されたという悲しい事件を知って欲しかったんです。身勝手は承知の上です」
すみませんと隔て板の向こうが言った。
「長々とお付き合いさせて申し訳ない。そろそろ私は行きますよ」
「行くって――」
警察へ自首するということだろうか。
「本当にありがとう。あなたが聞いてくれて嬉しかった。これで本当に私の十五年の呪縛が解かれた気がします」
――ありがとう。
隣人はもう一度そう言った。
呆気にとられている私をよそに、隣室のガラス戸が開く音がして――。
閉まった。
私はしばらくその場で呆然としていた。
全てが唐突に始まり、唐突に終わった。それはあまりにも深く重いものだった。すぐには全てを受け入れられない。
隣人はもうすぐ隣人ではなくなるのだろう。
七本目の煙草に火を付け、私は遠く景色を眺めた。
隣人の言っていた五階建てのマンションが見えた。いつも眺めていた光景が、いつもと違って見える。
ため息交じりに紫煙を吐き、七本目を吸い終えて私はようやく部屋へ戻った。
素足だった指先が刺すように冷たく、部屋の中の温もりが身に染みた。
「いつまで吸ってるのよ」
風呂上がりの妻が、バスタオルで髪を拭きながら呆れた言葉を掛けてきた。