表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

 下界へ落下していく煙草は闇に吸い込まれている様にも見えた。思わず手が滑ってしまったこと、と明日掃除をしてくれるであろう誰かに向かって、私は心の中で謝罪した。

「こ、殺すって」

 それはつまり仇討ちということか。

 近代国家において、それは許されない行為だ。確か明治の頃に禁止になったのではなかったか。それでも隣人は、はい殺すんです」と笑った。

「そんな馬鹿なことを。確かに犯人を憎む気持ちは分からないではないですよ。しかし、あなたが殺人という罪を犯してしまったら、犯人と同じ穴の狢だ。死んだ娘さんも浮かばれませんよ」

 私が至極一般的な意見を言うと、さらに隣人は笑った。

「皆さんそういうんですよね。娘が浮かばれない? 誰がそんなことを? 娘が言ったんですか? お父さんがそんなことしたら私が悲しいと?」 

 可笑しな話だと隣人は続けた。

「そんなものは無関係な人間の戯言だ。生きている人間の勝手な解釈に過ぎない。死人はそんなこと言いません」

「もちろん、それはそうでしょう。誰も死んだ人間の気持ちなんて分かりません。しかし――しかしですね、復讐してほしいなどと思っているかもわからないじゃないですか。それこそ生きている人間の勝手な解釈に過ぎない」

 私はなにをムキになって反論しているのだろう。隣人が本気で犯人を殺そうと言っているのかも分からない。

 ただ、彼の言うことも分かる気がした。

 死んだ人間の気持ちなど、誰も分かりはしないのだ。復讐して欲しいと思うかもしれないし、身内に手を汚して欲しくないと思っているかもしれない。

 分からないのだから、遺族がどう考えていようと第三者が口出しすべきことではないのだろう。

 だけれど。

 すぐ隣の人間から「人を殺す」と聞いてしまっては、「はいそうですか」とあっさり肯定できない。

「確かに私が犯罪者になるのをよしとはしないかもしれないですね、春奈は」

 はるな――娘の名前か。

「そうでしょう。それに生きている家族もそんなことをして欲しくないはずだ。犯罪者の親族にはきっと世間の風当たりは強いですよ。それじゃあ家族もつらい」

 いくら娘の復讐を成せたとしても。

 隣人は煙草を吸うこと無く固まっている。夜空に弱々しく昇る細い煙は、力なくその姿を消している。

「殺すなんて止めましょう。それは司法に任せるしかない」

 まるで説得しているようだ。 

 顔も名前も知らない隣人になにをしているのだろう。

 いや、きっと知らないから必死に止めるのかもしれない。知っている人間なら、殴ってでも止めるはずだ。

 今日初めて会った人間だから、説得するしかない。

 それにしても。

 一体今日は何事だろう。

 食後の一服をするだけ――たった一本の煙草を吸うだけのはずが、もうすでに四本目を吸い終わろうとしている。時々、妻がカーテンを少し開けてこちらを覗いているようだが、この現状を説明するタイミングも無い。

 じゃあ私はこれで、と言って部屋に引っ込んでも構わないのだが、「殺す」という単語を聞いてしまってはそれすらままならない。初めてあった隣人の話にしては少々重すぎた。

 どうしたものかと思案していると、しばらく黙っていた隣人が口を開いた。

「――十五年」

「え?」

「十五年ですよ。娘が死んで。警察は犯人を捕まえられないでいる。十五年です。十五年もの間、娘を殺した犯人は生きながらえ、何事もなかったように生活している。とっくに警察への信頼は無くなってますよ」

「まさか。犯人の目星すら付いていないんですか。十五年も経っているのに?」

 隔て板の向こうで頷いた――ように見えた。

 どれだけの時間話をしているのか、時計をしていないから分からないが、相変わらず隣人の声を聞くだけで顔は見れていない。

「最初の三年は毎日のように警察に行きましたよ。捜査はどうなっているのか、容疑者は浮かんでいるのか、とね。しかし、警察は私を宥めすかすだけで、捜査がどれだけ進んでいるのかちっとも教えてくれない。まあ一般人にそんな情報を簡単に教えられないのは分ります。しかし、私はいてもたってもいられなかった」

 一向に捜査の進まない現状を、被害者家族はどんな気持ちで待っているのだろう。ぶつけようのない怒りや悲しみを警察に向けてしまうのも詮ないことなのか。

「目の前の景色はどんどん変わっていく。更地だった場所にはコンクリートの建物が立ち並び、暗いあぜ道は大都市のように広くなり明るくなった。もちろん、娘が殺された場所は面影も無い。あの場所で人が死んだなど、あとから来た人たちにとっては知るよしもない。完全に事件は風化して行きました」

 実際そうなのだろう。事実、私だって今日隣人に聞かなければ知ることもなかった。

 できれば知らない方がよかったのかもしれない。知ってしまえば、この町の夜景の印象も違って見えてきてしまう。

 なぜ隣人は私にこんな話をするのだ。

「そんな頃、マンション建設のため土地を売らないかという話を不動産屋が持ってきた。もちろん、私が被害者遺族だということは知らなかったのでしょう。事件のことを知っているのかも怪しいものです」

「それで息子さんはその話に乗れと――」

「妹が殺されたというのにあいつは薄情な奴です。あの家には妹はもちろん、家族の思い出がたくさんあった。私は出来れば離れたくなかった」

「それでも手放されてここへ」

「金がね、必要だったんですよ」

 楽しい思い出を全て消し去るほどの不幸が起きたのだ。この場所を離れようとする息子さんの行動も至極当然かもしれない。打ちひしがれた父の姿に耐えかねたのだろう。現に十五年経った今でも、彼の言葉の端々から悄然としているのが伝わる。

「私はね、人間―生きていく上で一番必要な者が分かりました」

 私は五本目の煙草に火を付けた。

 吸い過ぎだ。だが、話の先は見えてこないから仕方がない。

「なんでしょう」

 紫煙を鼻から吐きながら訊いた。

「――運ですよ」

「うん?」

「娘は運が悪かったんです。あの娘は十六年の人生、人に恨まれたりよしんば殺されるような悪行はしてこなかったはずだ。普通に生きていただけだ。多少の欲はあったかもしれないが、殺されるほどのものでもない。ただ、あの時間あの場所を通った。汚らわしい欲に満ちた獣が潜んでいた場所を。運が悪かったとしかいいようがない」

 確かにそれはあるのかもしれない。

 人間いつ死ぬかわからない。事故であれ事件であれ、偶然が重なって起きる不幸な事象はまさに持って生まれた運なのだろう。あと一分ずれていれば助かるような事故が世の中には溢れているのだ。

「娘は運が悪かった。そう考えるとね、私も多少前向きに生きられました。運が悪かった娘に手を出した犯人にも――」

 死んでもらおう。

 なるほど、彼のいう殺すというのはそういうことか。 

「犯人も運が悪かったと」

「私という執念深い親のいる娘を殺したのは――」

 運が悪かったですねと隣人は笑った――ように感じた。

「しかし――しかし、犯人は運よく逃げ切れてしまっているじゃあないですか。十五年も警察から逃げ切れている。きっとこれからだって――」

「金が、いるといったでしょう」

 確かに言った。だが、それは土地を売ってこのマンションの購入資金がいるということではなかったのか。

「最近の探偵というのは優秀なんですねぇ。無償で捜査する警察とは大違いだ。金さえ払えば法に触れるようなことだって平気でする。頼もしい連中ですよ」

「まさか金はそのために」

「娘のためならいくら請求されようが惜しくない。彼女の無念を晴らすためなら私のことなどどうでもいい」

「死んだ人間のために自分の生活を犠牲に? そんなの馬鹿げてる。死んだ娘さんもそんなこと望まないだろうし、奥さんや息子さんだって納得しないでしょう」

 私はなにをムキになっているのだ。

 よその家庭に口を出してなんになる。そんな大層な人間でもあるまいに。

「さっき言ったでしょう。娘が望むか望まないかは私が決める。それをきめる権利は被害者遺族にしかないと。それに息子とはとっくに縁を切りました。いや、愛想をつかれたと言った方が正しいかな」

「それでも奥さん――彼女の母親は――」

「死にました」

「は――」

「死んだんですよ。娘を追うようにしてね」

「そんな」

「被害者遺族というのはね、世間に好奇の目で晒されるんですよ。『この家の娘さんがレイプされて殺されたんだ』と。それこそ新聞やニュースで娘の顔は全国に晒された。通夜の時に泣いていた娘の友達たちもいつしか寄りつかなくなった。いや、我が家を避けるようになった。私たちは被害者だというのに家に石を投げられた。『アバズレ娘が誘ったんだろう』とね」

 言葉も出ない。

 そんな理不尽なことがあるだろうか。悲しみに暮れている家族を前にそんなよくできるものだ。

「犯人は捕まらず、事件も次第に忘れ去られていく。それまで私たち家族を白い目で見ていた連中も、それまでしてきたことを忘れて平然と生活する――。妻の精神は最悪の所まで来ていた。それに私は気付かなかった。気付かないまま、姿の見えない犯人への憎悪を膨らましていただけだった。そして――」」

 もう聞きたくない。

 部屋に戻ろう。

「――自ら命を断ちました」

 よせ。

 隣人だからといって最後まで付き合う筋合いも無いだろう。ここまでよく聞いてやった方だ。

「気の毒に。言葉も見つかりません。だけれど、私はそろそろ――」

 すっかり灰になってしまった五本目の煙草を灰皿に入れ、私の意識は部屋へと向かった。

「見つかったんですよ」

 私の意識は再び隔て板の向こうへと飛んでしまった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ